13B. 病室


 ベッドの上で、天井を眺める。

 虫食い穴のような奇妙な柄の、正方形のパネルが並んでいた。

 淳はその穴をあちこちたどりながら、なんでこんなに穴ぼこだらけなのだろう、とぼうっと考えた。

 防音とか消音とかだろうか?こういうとき、どうしても視点が音響寄りになる。でも、病院に防音なんて必要なのだろうか?


 まあ、今はそんなことどうでもいいのだが。


 深夜3時。

 どうでもいいことを考えざるを得ない時間だ。さっさと寝てしまいたいし、なんなら気分も悪い。だが残念ながら、眠気が来る様子は微塵もない。


 長椅子では淳の母親が横たわり、小さく寝息を立てていた。


 一昨日から、実家の両親が交代で淳の病室に泊まっていた。今晩は母の番だ。父は実家のチワワ『ぺこ』を連れて淳のアパートに泊まっている。彼らのわがままで、大した怪我でもないのに淳は個室に移動になった。


「……薫、起きてる?」

 声になるスレスレの声量で、彼に話しかける。脇腹が軽く痛んだ。

『起きてるよ。みんな心配してくれてたね、』

 彼もまた内緒話をするように囁いた。誰にも聞こえるはずがないのに。それが少しだけ可笑しかった。

『マイクに会えなくなったのは、残念だったなぁ』

 淳のアメリカ行きは、中止となった。



 その日の昼に、満とkiddieのメンバーが見舞いに来ていた。

 それぞれ、思い思いの差し入れをぶら下げて。


 特に示し合わせた訳ではないらしいが、満以外は全員、ハリボーのゴールドベアを持ってきた。淳の大好物だった。

 金色のパッケージが三つ並ぶ中で、満だけは高級チョコの青い箱を差し出す。大人の選択だ。


 しばらく談笑したのちに、事件の話や、怪我の程度についての話をした。

「――全治一ヶ月だってね」

 淳はなんとなく、その先の満の言葉がわかる気がした。


「残念だけど、マイクのツアーには間に合わない。他の子たちは予定通り行くけど、ギターはG.N.Sのマユミを代打で行かせるから」

 マユミの音なら淳もよく知っていた。彼女なら心配いらないだろう。ライブは成功する。そうにきまってる。自分がいないだけだ。


 メンバーは淳の顔を心配そうに見ている。自分がこのライブを心待ちにしていた事は、誰でも想像ができただろう。彼らの重荷にはなりたくない。


「わかった。みんな、頑張って来いよ」

 精一杯、そう言った。


 だがその瞬間、思いがけず目頭が熱くなった。淳の中でギリギリ堪えていたものが崩れてしまったらしい。仰向けで晒された顔を、両腕で押し隠した。


「……はあ……」


 ため息のような、あるいは嗚咽のような声が漏れる。


 心の底から待ち望んだ、海外ライブのチャンスが消えたことも。コウジに刺されたことも。誰のギターが評価されているのかが分からないことも、智浩に振り向いてもらえないことも。


「……オレが何したっていうんだよ……」

 部屋がしんと静まる。


 誰も、何も言わなかった。


 沈黙の中、淳の母が「あらぁ」と言って病室に戻ってきた。「お葬式じゃないんだから」メンバーたちは苦笑しながら帰っていった。


 明日の昼は、智浩が来るらしい。



『――トモと出会ったときのこと、聞きたい?』

 朝がくるのをふたりで待つさなか、薫が言った。


『僕が死んで、二回目の春だったかな』

「……そっち?」

『アハハ。ほんとの出会いだと思った? 僕たちは子供の頃からずっと一緒だったから、出会いなんてないよ。それに、僕はもう、生きていた時の記憶が、曖昧になってきてるからね』

 薫は続けた。


『――死んでから初めて取り憑いた人がいてね。名前は確か……そう、ノブくんだ。あれは楽しかったなぁ。二年ぶりにギターが弾けてさ。

 ほら僕、リハのあとに死んじゃったから。本番のステージってやっぱ、特別だよね、』


 淳は黙ってその声に耳を傾けた。

 薫の話には違和感があった。

 静まり返った病室の空気に、さざなみがたつ。何かが変わるときはいつもそうだ。おそらく、薫がしたいのは昔話ではない。淳の体が少しこわばる。


『トモはすぐに僕に気づいたよ。暗い顔でバーカウンターの奥に立ってた。ノブのギターを聴いた瞬間、表情が変わったんだ。

 ステージが終わったあとすぐ、ノブのところに来た。彼の腕をガっと掴んで、薫を知りませんかって。

 ノブには「知らない」って言えって、教えてたから。それで終わっちゃったけど……、

 あのときのトモの必死な顔はさ、今でも、はっきり思い出せる。

 すごく、可哀想だった。知らない場所に置き去りにされた子供の顔だった。恋人が死ぬと、あんな風になるんだって。なんとかしなきゃ、トモを助けてあげなきゃって……』


 その瞬間、あたりからすべての音が消えた気がした。

 薫の声だけが、すぅっと頭に染みていく。

 

『でも、僕が側にいる限り、トモはだめだ。

 トモだけじゃない。淳も、コウジも……みんな傷ついてく。なんでこんなに大事なこと、12年も気づかなかったんだろ、』

「薫、」

 恐怖が体を支配する。高い崖の上で、強風に煽られているかのようだった。彼が言わんとすることが、はっきりと分かった。

 病室は少しずつ明るくなっていく。窓辺にかかる薄いカーテンが、青白い光で透けていた。


『……淳。嘘だと思うかもしれないけどね、僕は淳が傷ついているのを見るたびに、苦しかった。ごめん』

「なにそれ」

 さんざん苦しめてきたくせに。

「もう慣れたよ。

 今さらどこに行くつもりなんだよ」


『さあね。――でもさ、きっと全部なくしてみないと分からないことだって、あるよ。淳も、僕も。――』





 昼過ぎ、約束通り智浩は病室にやってきた。


「淳、具合どう?」


 窓側の丸椅子に座って、袋から差し入れを取り出す。

 週刊少年誌と、近くの有名なシュークリーム。事前にそれをリクエストしておいたので、これ以上ハリボーが増えることはなかった。


 病室はふたりきりだった。窓の外は秋晴れで青一色だ。その色を塞ぐように、智浩が座っている。


 話さなくてはならない。


 昨日と同じ話を繰り返しながら、その時を待った。自然に、穏やかに、話が途切れる。今だろう。


「トモ、」

 彼がこちらを見る。


「薫、どっかいったよ」


 智浩の前でその名前を出したのは、これが初めてだった。

 彼の顔は、逆光でよく見えない。

 ただ黙っていた。


「自分がここにいたらみんな傷つくからって、昨日の夜、オレの中から出てった」


 黒い影のような智浩の姿が、ほんの少し揺れた。悲しんでいるのか、怒っているのかは、まだわからない。黒く塗りつぶされた顔だ。


「みんな、っていうのはさ、トモも、オレも、ってことね。一応、傷つけてた自覚はあったみたいだね」

「……そう、」

 智浩はゆっくりと、そして深く頭を垂れた。何かに詫びるように、あるいはその何かに祈るように。


「……トモ、しばらく会うのよそう。オレ、お前から離れるのに時間がいりそうなんだ。半年ぐらいでいい。それにもしお前が会いたくないって言うなら、もう会わない。きっと全部なくしてみないと分からないことが、あると思う」


 智浩は俯いたまま小さく言った。


「わかった」


 智浩の声が、窓のそばで揺れて消えた。二人はしばらく黙っていた。


「……、先週さ。」

 先に口を割ったのは智浩だった。


「陽一くんに、付き合ってくれって言ってみたんだよね」

「……へぇ、」


 もうこれ以上傷つくことはないと思っていたが、淳はやはり傷ついた。

 だが思ったほどではなかった。落ちていくと、もうそれ以上は行けない、という場所が見えてくる。その場所に初めて降り立ったと思った。沈み込む最初の一撃に比べたら、まるで撫でるように柔らかだ。


「だめだった。付き合ってる子がいるって。」

「こないだの合コンの?馬鹿じゃん」

 

 吐き捨てたと同時に、この傷つけ合いに哀れみに似た気持ちがこみ上げていた。誰を好きになっても、報われない。


「トモはさ、陽一さんのこと好きなの」

「そうだと思う。」

「そっか、」


 窓の外を見た。淳の知らない小鳥がそこを横切っていく。




「……トモはさ、それでいいの?」


 智浩がゆっくり、顔を上げた。泣いていた。

 淳は思わず体を起こした。脇腹がひどく痛む。だがそれより何より、大好きな智浩がこんなに苦しそうな顔をしているのに、耐えられない。

 懸命に腕を伸ばす。智浩もそれに気づき、体を淳に預けた。


 胸に顔を埋める智浩の、そのつむじにキスをする。

 彼は迷っているだけだ。先延ばしにし続けた問題に向き合うべきなのは、淳も智浩も一緒だった。

 彼を解放しなければならない。


「陽一さん、放っとくと多分、壊れるよ。あの人には、トモが必要だよ。……オレのことはもういいから。行っといでよ」


 胸元からゆっくりと智浩が離れていく。


 本心ではなかった。本当なら、行かないで、と言って引き止めたかった。陽一のところになんか行くな。会わないって言ったのだって、本心なんかじゃない。

 智浩は席を立った。病室の引き戸に手をかけながら振り返る。


「淳。……半年だよな」

「確認するなよ。決心揺らぎそうじゃん」

 智浩の顔がようやく綻んだ。


「じゃ、それまで。」


 病室は淳一人になった。


 きっと泣くだろうと思っていたのに、淳はひとつの涙も出なかった。

 しんとした病室に、痛いほどの秋晴れの光が満ちていた。薫の言うとおり、すべてを無くしてみないとわからないことは、確かにある気がした。


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