12B. うつろい


 秋めいてきた夜風の中を駆け抜けるのは爽快だった。智浩は、クロスバイクで高速道路の高架下をひたすら北上し、K区に向かった。


 川を超え、やがて住宅街に入っていく。近くのコンビニでジュースを買い、もう一走りすると、地中海の建物を模したような白い外壁が見えた。駐車場の入口に、『3031』と書かれた看板がある。

 外の明かりは落ちているが、店内を覗く窓からは柔らかな色の光がもれ出ている。


 その駐車場でクロスバイクを止めると、智浩はメッセージを送った。


『店の前についたよ』


 すぐに既読になる。


『もう十分で出れます!』


 そのメッセージ通り、十分後に店の明かりが完全に消え、裏口から数人の男女が出てきた。その中に、髪を一つにくくった陽一の姿があった。

 陽一は智浩に手をふると、他の男女に挨拶をして、彼のところに駆け寄ってきた。男女の姿はすぐに見えなくなった。


「すんません、ちょっとお待たせしちゃって」

「いいよいいよ。俺も、急に約束取り付けちゃってごめんね。コーヒーとジンジャーエール、どっちがいい?」

「わ、ありがとうございます。ジンジャーエールもらっていいすか?」

 裏口の階段に腰掛けて、さっき買ったジュースを手渡す。お互いのキャップから小気味の良い破裂音が鳴った。ペットボトルの底から立ち上る泡粒が、月明かりでビーズのように輝いている。

 それを一口だけ飲むと、息をひとつついた。


「……単刀直入にいうとさ、俺たち、付き合わない?」

「めちゃくちゃ単刀直入っすね」

 だが陽一はそれほど驚いていなかった。こう言う話になるだろうと予想していたようだった。彼も炭酸を一口飲むと、

「薫くんのことは、いいんすか?」

 と言った。


――あのあと、陽一から薫のことを聞いた。


 淳のアパートで飲んだ翌週、陽一が菓子折りを持って店に現れた。前回迷惑をかけたお詫び、と言うことだった。

 その場にいた全員で、焼菓子を山分けした。

 陽一は自分で差し入れたチョコブラウニーをつまみながら、薫の夢を見た、と話してくれた。


 彼が知っていたのは、薫が智浩を助けたがっていることぐらいだった。

 助けてやってほしい。忘れさせてやってほしい。

 薫の願いはそれだけだった。


 それでも、12年という歳月の中で、薫の意思らしきものに初めて触れた出来事だった。


 それまで、薫が直接智浩の前に現れたことは一度もなかった。

 なぜか他人にはその姿を見せ、声を聞かせるのに、一番近しいはずの智浩には何の接触もなかった。

 それが陽一の言うように、『忘れてくれ』という彼なりのメッセージなら、納得はいく。


 もう終わりにしなければいけない。


「――でもそれって、薫くんのこと忘れるために、僕と付き合うってことじゃないすか、」



 試すような口ぶりだった。

 陽一は智浩が何も言わないことを確認すると、ペットボトルの凹凸をそっとなぞりながら、小さく告白した。


「僕、今……彼女がいるんです。」

「……こないだの合コンの子?」

 陽一が頷く。


「その子、僕のことが本当に好きだって言ってくれるんですよ」


 それは幸せを噛みしめる顔というよりも、ようやく諦めがついた、というような顔だった。


 自分のことを好きになってくれる人と寝たい。

 あの夜の、淳の言葉が蘇る。


「答えなくてもいいけどさ。陽一くんはそれでいいの?しなくていいならしたくない、って言ってたじゃん。そんなことしててさ、楽しいの?自分が何をしたいか、ちゃんと分かってる?」

 思わず責める口調になる。陽一は、

「分かってませんよ。」

 わずかに力を込めて言った。


「少しもわかりません。僕だって本当はこんなの馬鹿だって思いますよ。相手が可哀想だって。でもどうしたらいいのかわかんないんですよ。

 そういう智浩さんだって。自分のしたいことわかってんですか?淳くんの気持ち知ってんでしょ?なのに……」


 感情的な声だった。乾いた秋の空気がその響きをすうっと美しくした。彼は智浩をじっと見つめて言った。


「……なのに、なんで僕なんですか。」


 胸の奥を握りつぶされてしまいそうだった。


 薫を忘れるためだけに、陽一に声をかけたわけではない。それだけだったら、もっと別の人のところに行っていた。


 ようやく、この人となら恋ができると思った。陽一は智浩にとって、そういう相手だった。12年の間、ずっと手つかずだった傷口に、ようやく向き合えると思ったのだ。

 だが。


「……うまくいかないね。」

 項垂れた智浩の視界の中で、階段の荒いコンクリートに、ペットボトルの水滴が数滴垂れた。



 好きだ、とは言えなかった。


「俺ら、前世で何かしたのかな」

「前世でも3Bだったんじゃないすか」


 自嘲的な笑みを互いにこぼし合う。この恋は続かない、と思うのが、悔しかった。


 

 はっきりと終わりの合図を告げたのは、智浩の携帯だった。振動音が、あたりに虚しく響く。

 ピリピリとした空気が、その間抜けな音であっけなく崩れ去った。だがそれこそが、この実りも何もない恋を象徴しているような気もした。立ち上がって電話を取る。


 相手は満だった。


「もしもし?」

『トモ。落ち着いて聞いて欲しいんだけど』


 満の声色は普段どおり、低く落ち着いていた。ただどことなく早口で、智浩は不意に、かつて薫の事故を知らせたあの電話を思い出した。


 要件を聞いて、電話を切る。


 受け答えを横で聞いた陽一が、心配そうな顔をしていた。


「淳くん、どうかしたんすか……?」

「怪我したって。S病院で手術中らしい」

 しばらくは親族が対応するから、見舞いが可能になったら連絡するとのことだった。




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