11B. 救いがない場合について


 大通り沿いのカフェで、みちるがタバコの煙を吐いた。タバコを持つ指の一本一本に、梵字のタトゥーが入っている。煙はゆらゆらと夜の窓辺を漂い、やがてどこかに消えていった。秋の闇夜は濃い藍色だった。


 レーベルオーナーの満と淳は、二人でコーヒーを飲みながら他愛もない話をしていた。二人は家が近いので、しばしばこうして顔を合わせていた。

 今日の話題は、満が最近見つけた良いバンドと、Eclipseの調子がよくないこと。

 淳はそれを、どこか上の空で聞いていた。頭をよぎるのは、あの夜のことばかりだった。



「――ねぇ。じゅんじゅん聞いてる?マイクのこと。覚えてる?」


 問い詰められてようやく我に返る。

 突然のことですぐには思い出せなかったが、やがて淳の中で、恰幅のいい赤毛のアメリカ人が浮かびあがってきた。

 淳の記憶が定かなら、それはアメリカのバンド『Weird Circles』のギタリストである。

 半年前、一度だけ対バンしたことがあった。彼らが日本ツアーをした際、地方公演のゲストとして淳のバンドが呼ばれたのだ。


 彼はライブで聴いた淳のギターを気に入っていたようだった。それに、マイクも副業としてプログラマーをしており、打ち上げの席でちょっぴり仲良くなったのだ。


「ああ、マイクね。……マイクがなんだって?」

「だから今度アメリカに来ないか、だって。昨日メールがあったの。kiddieの新譜聴いたみたいなんだけど、それがすごく良かった、って言っててさ。」

「新譜って……出したのもう一ヶ月ぐらい前じゃない?」

 あの、出だしでコケたアルバムだ。


「あっちのSpotify、配信が一昨日だったの。なんか事務手続きが滞っちゃって、日本とだいぶタイムラグ出ちゃったみたい。結構ね、伸びてるよ。数字。

やっぱインストは海外の方がウケ良いね〜」

 そう言ってもう一度、タバコの煙を吐いた。


 鼓動が大きくなる。


「みっちゃん、それ、ツアーなの?」

「ツアーだけど、出ないかって言われてるのはそのうちの2公演。なんか対バンする予定のバンドが急に都合つかなくなっちゃったんだって。そこをkiddieに是非って、マイクが」

「行く」

 満の言葉が切れるか切れないかと同時に、淳は答えた。


「行かない選択肢がない」

「そーよね。ショウちゃんたちにも明日言ってみるけどさ。多分みんな、おんなじこと言うと思う」

「じゃあ……」

「結構期間がないから。はりきってパスポート準備しときなさいよ」


 国外でライブができる。

 もちろん小さなハコだろう。日本とは雰囲気も音楽文化も違う。今までのやり方は通用しないかもしれない。だがそれがかえって淳の冒険心を刺激した。おそらくはメンバーじゅうがそうだ。


 だが、淳の心のどこかで、暗い影がよぎった。



 カフェを出て、満と別れる。淳は一人で帰路についた。初秋のひんやりした空気は、一人で歩くには少し乾きすぎている気がした。


 淳は腕時計を見るついでに、手の甲を見つめた。

 中指の付け根に、目立つ黒子が一つ。反対の手にも、同じ黒子がある。薫の印だ。


――マイクが聴いたのは、淳ではなく、薫のギターだ。


 素直に喜べないのは、そのせいだった。


 薫が自分に取り憑いてから、噂通り指は軽くなった。

 弾けないパッセージが弾けるようになった。好きな音がすぐに作れるようになった。


 淳は戸惑っていた。


 翼の生えたような気分なのに、その翼は、他人の設えた代物だった。淳は、薫という美しい鳥に抱えられて飛んでいるに過ぎなかった。


 その証拠に、以前薫がのり移っていたギタリストのコウジは、薫を失った途端、不調になった。アメリカのレーベルでデビューをはたしたものの、評判は思うようにいかなかった。淳も音源を聞いたが、前の演奏とはやはりどこか違っていた。


『コウジは、ちょっと間違えただけだよ。僕が離れたあとも、僕のギターを真似ようとしたのさ。自分の中にもっといいのが眠ってるのに』

 車のうるさい大通りの横で、薫が言った。珍しくやさしい声色だった。


 歩道橋を降りる。裏通りに入り、アパートへの道を歩いた。住宅街の静かな夜道に、秋の虫の声が甲高く響いている。

 今日ぐらい、静かにできないのか、と思った。



 素晴らしい話をもらった記念すべき夜なのに、淳は苛立ちと不安に苛まれていた。


 建物の合間から美しい月が出ていた。だが淳の足元に影を作っているのは、古い街灯や時折民家から強く焚かれるセンサーライトの光だった。


「……薫はずるい」

 思わず声が漏れた。

『ずるい?』

「なんでも持ってる。ギターの腕も。智浩も。オレの欲しいものは全部、お前が持ってて、オレにはなにもない。ずるい」

 薫は返事をしなかった。


「……、」


 ふと、背後で足音がする。今の独り言を聞かれてしまったかもしれない。淳は少し気まずくなって歩みを早めた。目に溜まりかけた水分は引っ込んだ。


 足音は小刻みになって後ろをついてきた。


 嫌な感じがした。

 まるでつけられているかのようだった。


 自意識過剰かもしれない。弱っているときは、何もかもが自分と関係しているように思えてしまうものだ。例えば自分の後ろを歩く人間が、自分のことを知っているかもしれない、と感じるような。


 そう考えた直後、突如足音が大きくなった。


 明らかな違和感に振り向いた瞬間、男の体温とタバコの匂いを感じた。暗くて顔はよく見えない。だが、たしかに見覚えのある男だった。


「おまえ……」

 言いかけて、そのまま淳は崩れ落ちた。

 腹が焼けるように痛かった。痛む場所を抑えると、生暖かくてヌルヌルとした感触で一杯になる。


 男はそのまま走っていった。

 

 コウジだった。


 派手な音はなく、悲鳴もない。住宅街に住む誰もが、倒れた淳に気づくことができなかった。


 通行人もいない。淳は震える手で携帯を取り出したものの、自分の血で滑ってうまく操作できない。落とした携帯のあたりに、血溜まりができていた。

 体じゅうの感覚が、痛みだけを残して薄くなっていく。


 車のライトが見えたのはその少しあとだった。慌てて駆け寄る男の革靴が見えた。しばらくして救急車がやってきた。救急車のサイレンをこんなに間近で聞いたのは初めてだった。担架で担ぎ込まれる途中で、淳の視界は暗転した。


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