10B. うらぎり
「ってことで、アルバムの不発を呪って」
互いに持ち寄った缶ビールを開ける。
プシュッ、と言う小気味良い音が鳴ると同時に、三人はそれをぐっと喉へ流し込んだ。雨の日特有の重く湿気た空気が、その一口でどこかへ飛んでいった。
ソファ前のローテーブルには、Lサイズのピザが二枚並んでいる。その脇にはピザ屋おすすめのスナックボックス、タバスコ、そして缶チューハイの山。破滅という字が食卓にのったらこんな感じだと言わんばかりの絵面だった。
すでに三人とも風呂を済ませ、各々部屋着に着替えている。眠くなるまで飲み明かす構えだ。
「やー、びっくりしちゃった。淳くんち広いね!バンドマンの一人暮らしって言うから、もうちょっと質素なやつ想像してたけど、1LDKって……。うち1Kだよ。羨ましい〜」
ピザを頬張りながら驚く陽一に、淳はなんでもないという顔をした。
「別に、1Kに毛が生えたようなもんじゃん。建物も古いし。楽器可の部屋探してたら、ここしかなかっただけ」
「LとDが毛っ!」
やり取りを見ていた智浩が、軽く笑った。
「広いよね。駅近いし。淳、副業のほうが儲かってるもんね」
「全然儲かってないし……バンドよりましってだけ。カツカツだよ。アルバムも売れないし」
「……。」
三人は一斉に黙った。
「……淳、そこ、突っ込んで聞いていいやつ?」
「うん。今日はもう何でも聞いてよ。洗いざらい白状して楽になりたいわ」
二人がけのソファの真ん中にどかっと座る。淳は二人に問いただされる形で、先週出したアルバムの売れ行き不振を打ち明けた。
数字の上がらないこともそうだ。
レビューがいまいちなのもそうだ。
それより何より伝えたかったのは、淳の抱えるこの虚ろな気持ちである。
かけた時間が物を言うのではないことは、わかっている。だが淳は、このアルバムにメンバー全員でかけた数ヶ月の時間が、無かったことになってしまったような、空っぽの気持ちを味わっていた。
今回が初めてのことではない。何かを作るということは、そういう辛酸を舐め尽くすということだ。だが毎回、それが悔しくて、やるせなくて、その度にピザと酒のパワーを借りるのである。
淳はチーズの固まりつつあるピザを皿に置くと、ソファの背にぐっと持たれた。
「――オレさぁ、本当は、ギター持ってないときが一番安心するんだよねぇ。なんにもさ、考えたり、戦ったりしなくていいっていうか」
勢いで出た淳の弱音に、二人はゆっくり耳を傾けていた。
「わかる。頑張るのが怖くなっちゃうときって、あるよね」
最初に同調したのは陽一だった。
「自分ではいいと思ったものがそうじゃなかったときなんか特にさ、」
深く同情するような顔をしておいて、すぐ、
「なんかさ、頑張ってボス戦クリアした途端、停電でデータ消えてやり直しになったときの感覚に似てない?また最初からやらせるんかい!みたいな」
訳のわからないことを言い出す。こういうところが天然なのだ。
「似てねーよ!しかもなんで停電なんだよ」
自分のわだかまりをしょうもない例え話にされて、淳はなんだか気が抜けてしまった。
「もーいーや。話してたら何かどーでもよくなっちゃった。
次、陽一さんの番ね」
「え、僕?」
すると、それまで床で座って大人しく酒を飲んでいた智浩が、申し訳無さそうに手を合わせた。
「ごめん、淳と二人で陽一くん待ってる間、うっかりこないだのことしゃべっちゃった……」
さっき智浩を問いただしたところ、陽一が飲みすぎて倒れたのだ、ということだった。もちろん、彼のことだ。うまく嘘でごまかしている可能性も捨てきれない。
陽一にも聞いておかねばならない。
「ぶっ倒れるまで飲むなんて、絶対何かあったっしょ」
「えーっ」
陽一は照れているような、あるいは焦っているような表情で、目線をあちこちに泳がせた。それからラグの上で膝を抱えるようにして、
「お恥ずかしながら……」
と呟いた。
「僕、いま家族にメチャクチャ結婚迫られてるの」
――結婚?
陽一はまず、ゲイだ、と告白した。
それを踏まえて、と。
「妹が結婚しろってさ。合コン誘ってきたわけ。まあ僕も30だし、母さん病気だし。身を固めろっていう気持ちはわかるんだけど。」
そこまで言って、ふと淳たちを見た。
何かを確認するような目だった。
「ひょっとして引いてる?」
誤魔化すように笑う彼に、淳は智浩の方を見た。智浩も、淳を見ていた。目が合うと同時に、無言で首を振った。
「よかったー」
この様子だと、陽一は目の前の二人がセックスしていることを知らないのかもしれない。淳はとりあえず、智浩の出方を見ることにした。
智浩はやや探るように言った。
「陽一くんさ、女の子と結婚なんかしてやってけるの?」
「んー、厳しいかな〜。」
苦笑いをしながら、ポテトをつまみ、飲み込む。
「……何年か前に女の子と付き合ったけどさ。セックスがうまく行かなかったから。
こんなこと、しなくていいならしたくないよ。ほんとはね。
でも、合コンで僕、気に入られちゃったし。家族も知ってる手前、しばらくは頑張らなきゃ」
すこし気だるそうに酒を飲む陽一の笑顔を、智浩がじっと見つめていた。淳にはそれが気にかかった。
――陽一は智浩と何かあったようには見えなかった。その上、彼女候補がいるのなら、智浩との関係はこれ以上深まらない。
だが、智浩の気持ちが見えなかった。陽一を見る彼の目は、どこか憂いがあった。まるで、許されない何かをひた隠すような。
気づくと時刻は一時を回っていた。外の闇は深く、雨の気配は濃い。
キッチンでワインをあける淳に、智浩が声をかける。
「淳。陽一くんがもう限界だって、」
見ると、陽一はソファのクッションに顔を埋めるようにしてもたれかかっていた。
「ウソ。早くない?」
その声に、ノソ、と陽一が顔を上げる。
「……みんな……夜強すぎじゃない……?」
その背を智浩がさすっている。
「陽一くん、今日仕事だったもんね。」
「……仕事してなくても……ムリだわ……」
再びソファに突っ伏す。
淳はワインを置いて側に寄った。
「仕方ないなぁ。オレちょっくら寝かせてくるわ」
しゃがんで陽一に肩を貸す。彼の体は木偶同然だった。身長差はあるが、筋力的な面で言えば淳のほうが上手である。そのまま立ち上がると、廊下の向こうにある寝室に引きずっていった。
寝室の小さなすりガラスに、びっしりと雨粒がついている。その粒を透かして、外の青白い光が部屋に差し込んでいた。それが存外に明るいので、電気をつけなくても陽一をベッドに転がすぐらいは容易にできた。
陽一はうつ伏せに倒れた。目を瞑りながらシーツを撫で、気持ちよさそうな顔をしている。
「ベッドでっかー……」
「感謝しろ。クイーンサイズだぞ」
「一人暮らしなのに……?」
「連れこむのに最適」
うわ最低、と言って軽く笑う。だが、ふざけたその態度とは裏腹に、その顔はかなり疲れて見えた。
しばらくして陽一は、ふぅ、と一息ついた。顔を淳の方に向ける。二人の目があった。
「……ごめんね。飲みっぱなしで。片付けとか、朝やるね。」
彼の目はどこか虚ろだ。
純粋に心配だった。
さっきの合コンの話だけではないのかもしれない。もっと別の……仕事とか、そういう方面でも、彼は神経をすり減らしているのかもしれない。
この人は大丈夫なのか?
そう思って顔を覗き込もうとした直後、不意に、
「……薫くん?」
その名前を呼ばれた。
「あ、淳くんか、ごめん、一瞬……」
「……見えたの?」
その瞬間、今までの寛いだ気持ちがどこかに消え去った。
自分のことが薫に見えた。
なぜ彼が薫のことを知っているかはわからない。
智浩から聞いたのだろうか。だとしたら余計腹が立つ。
自分ですら直接聞いたことがないのに、陽一だけが智浩の秘密を知っているような気がして、悔しかった。
皆、淳ではなく薫を見ている。
――どいつもこいつも。
淳はベッドに上って、陽一の上に跨がった。無理やり仰向けにし、ほぼ無意識で拳を振り上げていた。淳と、驚いて目を見開く陽一の視線がぶつかった。
その顔を見て、不意に『そうか』と思った。
腕をおろして、顔を近づける。
「陽一さん。」
状況の飲み込めていない彼の顎を掴む。
「オレに抱かれてくれる?」
陽一の唇を、一方的に塞ぐ。
彼は抵抗した。淳を振り払おうとしているようだったが、力がない。
やがて舌が絡まっていく。明らかに、その続きに踏み込んでいくような口づけだった。
それでいいのかもしれない。
そのまま、彼の服の下に手を差し入れた。
これで後戻りできなくなる。智浩が、恐らく好意を寄せているであろう陽一と。淳が先に寝てしまえば、彼を裏切ってしまえば、すべてが終わる。
だが、
「っ……まって……冗談……だよね?」
こんなやり方で自分が幸せになるのなら、今頃とっくになっている。
助けを求めるような陽一の目に、淳は体を起こした。
「……冗談だよ。」
腕で口元を拭う。
「……。だよね。だって淳くん、智浩さんのこと好きじゃん」
わかりやす過ぎ、という、かつての薫の言葉を思い出す。
「……。」
「あ、当たり?今のカマかけてみただけだよ。……やっぱ、そうなんだね。
僕、正直言って淳くんのことタイプだし、今のすごく嬉しかったけど……」
やっぱり、ちゃんと自分のこと好きになってくれる人としたいかなぁ。
そう言って、陽一は淳を見上げた。
今の口づけのせいなのか、あるいは酒のせいなのか、彼の顔は赤く、目にうっすら涙が滲んでいた。どこか、悲観的な笑顔だった。
淳の中にあった熱が、スルスルと抜け落ちていった。
本当に、何もかもうまくいかない。
淳は黙ってベッドを降り、智浩の元へ戻った。
智浩はソファに座っていた。何も映っていないテレビを見ながら、さっき開けたワインを飲んでいる。扉の開く音に振り返った。
「陽一くん、寝た?」
「うん。ベッドがデカいって言って喜んでた」
笑う彼の横に、淳も座る。
「なぁトモ、陽一さんはさ、自分のことを好きになってくれる人としか寝たくないんだってさ。――トモはどう思う?」
なぜそれを智浩に言うのか、どういう流れでその話になったのか、彼は一切聞かなかった。聞くかわりに、ワイングラスを傾けた。
「……陽一くんは受け身だね。
俺は、意味ないと思うけどね。誰かが自分のこと好きでいてくれても、自分が好きにならない限りさ」
それは、普段から本心を隠して生きる智浩の、極稀に見せる本音のように思えた。彼の声が素直な響きをもって淳の中に溶けていく。
その言葉の奥から身を乗り出してきたのは、どうにもならない現実だった。
――智浩は、淳とのセックスに意味を見出していない。
その事実が、今しがた陽一に拒絶された出来事と奇妙に結びついて、淳の心に暗く大きな穴を開けた。
「泣くことないじゃん」
智浩は淳の肩に腕を回した。淳はそれを払い除けた。
「そういうのが、いつも余計なんだよ」
そういう、期待をさせる優しさが。
「そっか、」
雨脚が強まる。
立ちのぼる雨音が、二人の沈黙を埋めるように部屋じゅうを満たしていく。
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