9B. うたがい
ノートパソコンに向かってキーボードを打つ。
――携帯を見る。
キーボードを打つ。
グミを食べる。キーボードを打つ。
――携帯を見る。
淳はさっきからそれを繰り返していた。
『あるある、そういうときある。そんなに落ち込まないでよ。』
薫がなだめるような、そして呆れたような声で囁く。
『もう寝たら?期限までまだあるんでしょ、その依頼』
その通りだった。
以前勤めていたシステム開発会社から、今も仕事のおこぼれをもらっている。淳はそうやってフリーのプログラマーとして生計を立てていた。バンドではまるで食えないからだ。
いい会社だった。待遇は良かったし、退職時は社交辞令抜きで残念がられた。
それでもバンドを優先させたかった。
今もらっている仕事の締切は、今週末。まだ間に合わないような時間ではない。普段はやらないようなこんな深夜に、こうしてパソコンとにらめっこしているのには理由があった。
『ゴメン。今日は電話ムリだわ。
色々あって、今陽一くんを家に送ってくところ。』
智浩からのこのメッセージに、どう返信すればいいのかわからなかった。
何がどうなってそうなったのか、全く想像できなかった。まさか個人的に会ったわけではあるまい。なら陽一が店に寄ったのだろうか?それならあり得る。
だが、どんなきっかけにしろ、智浩が陽一の家に行ったことには間違いがなかった。
なんのために、というところで淳は頭を振った。
これ以上考えても、悪いことしか浮かばない。
きっとやむを得ぬ事情があったのだ。決して、それ以外の理由はないはずだ。
ゴチャゴチャしていく頭を、仕事で無理やり誤魔化す。だがそれも、もう限界だった。
「あーもう!」
乗っていたゲーミングチェアをくるっと回転させて降り、キッチンへ向かう。冷蔵庫を開け、びっしりと並んだエナジードリンクを一本取った。キャップを捻ろうとする。
力が入らない。
薫だ。
基本的に体の主導権は淳の方にあるのだが、ごく稀にこうして薫がでしゃばり、主導権争いが始まる。
『だーめー!そんなの今飲んだら寝れなくなっちゃうじゃんか!』
「はぁ?!オレは飲みたいんだよ!離せっつの!!」
淳のキャップを開けようとする力と、薫の閉めようとする力が拮抗した。
「……クソっ……」
結局、淳が手を引くことで、その争いは終結した。
淳はそのまま体の全権を薫に渡した。なんだかもう、何もかもが面倒くさかった。
糸の切れた人形のように、淳の体はその場に座り込む。
しばらくして、ふわ、と浮遊する感覚とともに、立ち上がった。淳の意思ではない。淳の体は完全に薫のものになった。
『明日の朝までだぞ』
薫に忠告しながら、淳はぼーっと、薫のすることを見ていた。
薫は淳の体で水を飲むと、軽快な足取りで寝室に向かった。暗い寝室は冷房が付けっぱなしになっていた。
ベッドに倒れ込む。部屋もシーツも冷たい。淳は薫の操作する体の中で、不快な寒さだけを感じとっていた。
うつ伏せのまま、智浩の顔を思い出す。
――どうしても、智浩に話したいことがあった。大した話ではない。だが、溜まった鬱憤をどこに晴らしていいのか、淳は智浩以外にあたりがつかない。
先週出したアルバムは出だしでコケていた。
数字は上がらないし、大手サイトのレビューはつかない。ツイッターではいつものファンたちが優しい感想を書いてくれていたが、それに混じって『精彩に欠ける』という辛口なコメントが垣間見えた。自称音楽評論家のツイートだった。読んだ途端携帯を投げとばした。
それを電話で爆発させようとしたら、あのメッセージである。
なぜ陽一と。
ついさっきも同じことを考えた。答えが出ないことなどわかっているのに。
不意に、薫が左手を足の間に差し入れていることに気がついた。
薫は淳の喉を使って囁いた。
「――ねぇ淳。こういう夜はさ、パッと体力使って、ガッと気持良くなって、ズゴーッと寝るに限るよね?ほら、トモのことでも考えときなよ」
それから淳の体を好きに扱った。湿った音が、小刻みに寝室に響きはじめる。
自分の意に反して体が熱くなっていく。
今までも何度かあったが、不思議な気分だった。
それは単なる性欲処理というよりも、薫による淳へのあてつけのようだと思った。
薫にとっては他人の体だ。責任はなく、最後はすべて淳に降りかかる。
それを楽しんでいるんじゃないか。
だとしたら、相当馬鹿にしている。あるいは相当――その可能性はないにしても――愛しているかのどちらかだ。他人の体に触れるというのは、結局その二つのどちらかに理由があると、淳は思っていた。
甘く酩酊していくような快感の中で、薫の言うとおり、智浩のことを考えることにした。
彼に求められている自分を想像する。指や舌、繋がる感覚。一つ一つ丁寧に思い出し、快楽に重ねていく。
頭の中の彼は優しく淳だけを愛してくれる。
やがて絶頂を迎えるその瞬間、突然、そうやって愛されているのが自分ではないということを思い出す。
それは薫であった。あるいは陽一かもしれなかった。ともかく淳ではなかった。
薫が小さく呻き声を上げる。自分の口から出るその声を、どこか他人の声のように聞いた。
消えていく体の熱と引き換えに、冷たい虚しさが溢れていく。
翌日、淳はメッセージアプリで、智浩と陽一とのトークルームを作った。
『今週末、18時からおれんち集合できる人』
要件だけのメッセージを送る。
『日曜ならいいよ〜』
智浩からすぐに短い返事が返ってくる。
一時間ほど遅れて、陽一からも返ってきた。
『20時過ぎなら行けまーす!
ところで淳くんちってどこ?』
トークルームの名前は陽一によって『3B』に変更されていた。
この目で二人のことを確認したかった。
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