8B. 薫
頭の横で携帯が鳴る。
画面を見ると、時計は午後一時を示していた。
目の前には違和感のある景色が広がっている。ここは。
智浩は眼鏡をかけて体を起こすと、部屋を見回した。
陽一の部屋だった。薄暗く、ごちゃごちゃしている。幸いそれほど背の高い家具はなかったが、やはり落ち着かない。早々に退場したほうが良さそうだ。
机に置かれた合鍵を取ろうとして、ふとその側に置かれた香水瓶に目が行く。エルメスの有名なシリーズだ。この香水は智浩も知っていた。軽くて、爽やかで、少し青い香り。いかにも彼らしい選択だと思った。
だから、と言うわけではないが、智浩はなんとなくその香水瓶を手にとって、蓋を開けた。苦味のあるシトラスの香りが仄かに漂う。
昨晩も、同じ香りがした。
倒れた陽一を抱き起こした瞬間。彼の体温。彼の重み。彼の香り。
――そこまで思い出して、智浩は慌ててその香水を元に戻した。
やめたほうがいい、という、自分自身からの警告だった。
外に出て、駅への道を歩く。ほとんど真上から照りつける太陽が、向かいのアパートを白く照らしている。その横で、一軒家と思しき建物の、建設工事が進んでいた。
遠目で見てもあまりいい気はしない。
工事現場は、薫の死そのものだった。
薫が死んだ日のことは、よく覚えていない。
その時自分が何をしていたのか。何を着ていたのか。どういう道のりで、病院に行ったのか。そこで何を聞き、何を話したのか。肝心なことは曖昧だった。
ただ真っ白な病室と、真っ白なシーツをかぶる彼の姿だけが、他の全てから切り抜かれたように記憶に残っていた。
あとはもう、死より前の美しい記憶ばかりだ。
二人で通った小学校の、登下校の道順や、ツツジの赤色。
互いの家でこなした宿題や、それを懸命に解く彼の横顔。
いつ彼に好意を覚えるようになったかは定かではない。ただ、受ける高校を別々にしたのは智浩だった。一方的に思い続けても苦しいばかりだと思ったのだ。
薫が男に失恋したという話を聞いたのは、成人式の夜だった。さして面白くもない同窓会から二人で逃げだした、駅への道のさなかのことだ。
智浩はそのまま薫の手を握って歩いた。
殺風景な飲み屋街の夜空から、星が降る心地がした。
その夜から、ふたりは恋人同士になった。
程なくして始まった古い2DKの二人暮らしは、人生の中でおそらく最も輝く記憶だった。
一番忙しい時期だった。智浩はホテルバーテンダーとして、薫は駆け出しのバンドマンとして、寝る間も惜しんで自分を磨いた。互いに励まし合いながら、何年も共に過ごした。
満に聞いた話では、彼の最期の足取りはこうだった。
――その日の13時、薫はリハーサルのためにライブハウス『7days wonder』に足を運んだ。
15時、リハ終わり。それからメンバーと地下鉄に向かって歩くも、イヤホンを忘れたために、ひとりライブハウスへ逆戻りする。
15時20分、ライブハウスの横でマンションを建てていたその建設現場から、鉄板が落下する。薫はその下敷きになる形で、命を落とした――。
智浩のアパートに到着する。荷物をおろし、冷蔵庫から冷えたウィルキンソンの瓶を取り出すと、そのままキッチンで飲んだ。
シンク上に設えられた小さな食器棚には、もう長く飲んでいない錠剤の束が、壁際に追いやられている。
抗うつ剤、抗不安剤、眠剤――。
今はもう、南陽が「クスリ」と言って茶化してくれるぐらいになっている。それが捨てられずにいるのは、自身への戒めの意味もあった。
薫の死の日から、智浩の回復には長い時間とそれなりの金額が必要だった。その間、精神的にも経済的にも支えてくれ、社会復帰の手助けをしてくれたのは、満と南陽だった。
長いトンネルをようやく抜け、智浩は彼らに恩を返したかった。
だが、智浩には何もなかった。技術も金も、長い闘病生活ですべて無くしてしまった。
それが智浩を一層卑屈にした。
『トモが元気そうにしてる姿を見せてくれるのが、一番の恩返しだから』
南陽も満も、そう言ってくれていた。それすら、智浩は悔しかった。
だいいち、完全に回復していたわけではなかった。落下物に対する恐怖も残っていたし、何より薫への思いは未だ断ち切れずにいた。
彼らの恩に報いるためにも、もう辞めにしなければいけない。そう思えば思うほど、智浩は身動きが取れなくなった。
智浩は、自分自身に価値があるのか、ずっと悩み続けていた。あるいはそんなこと考える必要もないぐらい、もっと素直に、もっと真っ直ぐに、生きてみたかった。
例えば淳のように。
『なんか自分が置いてけぼりになった感じがしちゃうなぁ』
あの日の陽一の一言は、智浩のコンプレックスそのものだった。
――携帯がなる。
淳から、メッセージが届いていた。
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