7B. 救いとは何かについて


『だいじょうぶ?』


 ステージから、薫がこちらを覗き込んでいた。


 陽一はフロアの上で仰向けに寝そべっている。

 天井からクリスマスツリーに飾るようなオーナメントや豆電球が無数に垂れ下がっていた。

 今夜はミラーボールが回らない代わりに、そのきらびやかなオーナメント達がカーテンのように揺れている。


『家に帰れてよかったね。』


 家?ここはいつものライブハウスじゃないか。

 いや、夢だっけ。


『トモを助けようとして、助けられちゃった感じ』

「……薫くん、助けるって言ったって、どうすればいいのか全然わかんないよ」

『そうだね、』


 途端、ライブハウスがミシミシと音をたて揺れる。

 地震だ。

 オーナメントがいくつか落下し、煙のようなホコリが陽一の肺を汚した。


『わかんないよねぇ。僕もわかんないな。きっと誰もわかんないよ。だからトモもこんなに長く苦しんでる』


 雷のような轟音が響き渡る。

 とともに、ステージに何かが落下した。

 ものすごいスピードだった。


 一体何が起きたのか。陽一は体を動かして、確認しようとする。

 が、起き上がれない。金縛りだ。


 耳には轟音の余韻に混じって、ぴちゃり、ぴちゃりという水温が小さく飛び込んできた。

 ステージから、濃く赤い液体が流れ落ちる。


 やがてそれは陽一の顔の横で大きな赤い水溜りになる。まるで意思を持ったように、目の前でゆっくりと広がって――。



 思わず飛び起きた。

「……陽一くん?」

 聞き慣れた声。エアコンの冷気。暗い部屋に散らかった漫画。陽一のアパートだ。


「大丈夫?少し、うなされてたみたいだけど」

 ベッドの横から顔を出す形で、智浩がこっちを見ていた。

「ワッッッッッ」

 想像していなかった状況に、陽一は思わず叫び声をあげる。なぜ彼が自分の部屋に?


「あ、ごめん。ホントは陽一くんを送ったら帰るつもりだったんだけど……心配だったから、ちょっと上がっちゃった。すぐ帰るから」

「おくる……?しんぱい……??」

 寝起きで記憶が曖昧だった。確か昨夜は合コンに行って、帰りにAnchorで酒を飲み、女の人とタイタニックの話をして、それから身体が急に重くなって――。


 少しずつ、事態が飲み込めてくる。

 ――これは……とんでもない迷惑をかけてしまったのではないか?

 陽一は急に、智浩に支えられながら乗ったタクシーの匂いを思い出した。

「すみませんっ」

 その場で深く頭を下げる。


「そんな、全然。それより体は大丈夫なの?すごく疲れてたみたいだけど、少しは良くなった?」

「だ、だ、大丈夫っす」

 と言っては見たものの、体調にさして変わりはなかった。夢を見たせいで、相変わらず気分が悪く、体も重い。昨晩ほどではない、という程度だ。


「良かった。じゃ、帰るね。」

 すっと立ち上がる智浩に、慌てて聞いた。

「今何時っすか?」

 智浩が携帯を確認する。

「四時半、」

 最寄り駅の始発はまだ一時間も先だった。陽一は始発まで彼にゆっくりしてもらうことにした。



 熱いシャワーを浴びると、体も頭もさっぱりした。


 冷静になってみると、智浩をおいてきたあの部屋の散らかりようが徐々に克明に蘇ってくる。くつろいでくれ、とは言ったものの、あんな部屋ではくつろげるはずもないし、引いているかもしれない。


 恐る恐る部屋に戻る。

 汚い部屋の中で、智浩がベッドに背を預けながら、うつらうつらとしていた。陽一は初めて、智浩のこんな無防備な姿を見た気がした。

 彼のそばによって、肩を撫でた。


「智浩さん、すみません。眠いっすよね。僕のせいで起きっぱなしで……」

 智浩はゆっくりと顔を上げた。

「……あ、ごめん。そうじゃなくて。……俺、いつも五時とか六時ぐらいに寝てるから。そろそろ寝る時間で、つい」

 昼夜逆転生活というやつだろうか。


「……あの、ベッド貸しますよ。僕八時には仕事に出るんで、好きなだけ寝ててください。」

 智浩は困ったような顔で笑う。

「悪いよ、風呂入ってないし」

「シャワーもどうぞ。せめてものお詫びっす」

「そう……?」

 じゃあお言葉に甘えて、そう言うと、彼はおずおずと風呂場に歩いていった。


 彼が風呂場の扉を締めたことを確認すると、急いであたりを片付けにかかる。

 机には、前日使ったヘアワックスやコテ、いつ買ったか分からないミントタブレットなどに紛れ、妹に借りた『パラダイス・キス』が読みかけのまま伏せてあった。やや際どいシーンだった。よりによって。青くなりながら脇に寄せる。


 やがて智浩が風呂から戻ってくる頃には、さっきよりはマシな部屋になっていた。ドライヤーを貸してやりながら、最後のベッドメイキングも済ます。

「じゃあ、ごめんね。」

 智浩はきれいに整えられた陽一のベッドに入っていった。


 横たわる彼と、目があった。眼鏡を外した彼の目は、バーで見た姿と違って、とても素朴だ。ねぇ、と言いながら、少しいたずらっぽく笑っている。


「……陽一くん、漫画好きなんだね……」

 おそらく、さっきのパラキスのことを言っている。

「あっ…あの、その、妹がいるんで、よく一緒に……読んだり……」

「映画化したやつだよね。面白いの?」

「お、面白いっす……」

 クスクスと笑いながら、それでもなお、智浩は陽一のことを見ている。陽一は気恥ずかしさのあまりしばらく何も言えなかった。沈黙が流れる。ふと、智浩が真剣な目をした。


「……陽一くん、薫のこと、……」

「へ?」

「いいや。なんでもない。おやすみ」


 やがて目は完全に閉じられた。


 明け方の部屋の中で、自分でない人間が自分のベッドに寝ているのを、陽一は不思議な気持ちで眺めていた。



 結局、どうすれば彼が助かるのか、微塵もわからないままだ。


 そもそも、薫と智浩がどういう間柄なのかすら、陽一にはわからなかった。普通に考えれば友人だろう。だがそれならなぜ、智浩はずっと苦しんでいるのだろうか。


――恋。それは単なる直感であり、根拠はない。ただ、陽一のこういう直感は、だいたい当たった。少女漫画の読みすぎなのか、なんなのか。


 もし仮に、薫が死んだ恋人なのだとしたら。


 陽一の脳裏に父の死に顔がよぎる。


 父は五年前に病で他界した。陽一は未だにあの黄土色の死に顔が頭に焼き付いている。

 その側で、お父さん、お父さん、と叫ぶ、痛々しい母の姿が、やがて智浩に重なっていく。


 これは妄想に過ぎない。だが、死別は人を変える。母を見て、そう思っていた。元通りになることはないのだ。

 それと同じ思いを智浩もしているのなら、陽一には救いようがなかった。母すら、救えていないのに。


 陽一はベッドに近づき、寝ている智浩の顔を間近で見た。子供のような顔だった。

 薫もこうして彼の寝顔を見ていたのだろうか。


 手を伸ばして、そっと智浩の頬を撫でてみる。


 だが、それ以上はどうしていいのか分からなかった。


 陽一は朝食を済ますと、合鍵を机に置いて部屋をあとにした。


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