6B. Anchorの夜
T.Rexの古いアルバムが流れている。
智浩はカウンターの奥で氷の仕込みをしていた。最後の一つに差し掛かるところで、店の扉が開く。ミナミさんだった。
「こんばんは。」
残念ながら智浩の前の席は空いていた。彼女は空いていたその席に座り、スティンガーを注文した。
相変わらず、知性のある美貌だ。
嫣然と一笑する彼女の目の奥に、あの黒くて獰猛な気配を感じる。一気に気が重くなる。南陽に助けを求めようとするも、彼は彼で、話の長い客に絡まれていた。
「トモくん久しぶりじゃない?」
「一ヶ月ぐらいかな。ミナミさん元気でした?」
あくまで客と店員、という態度で。失礼のないように、かつ、気さくに。
バランスの難しい会話の舵取りに、智浩は神経をすり減らした。
恐ろしいことに、三十分を過ぎても新しい客は誰も来なかった上、南陽の接客も終わらなかった。
仕事の話。同僚の話。投資の話。ここまではいい。この先には行かないでくれ。そう思ったときだった。
店の扉が開いた。
「……ちわー……」
その細長いシルエットには見覚えがあった。
「……陽一くん?」
「あっ!」
智浩の姿を見て、陽一が顔をパッと明るくした。
「智浩さん、ども!遊びに来ちゃいました」
「おー!嬉しいね!いらっしゃい」
久しぶりに『嬉しい』という言葉を嬉しいときに使った。いや、嬉しいというよりも、助かった、という気持ちか。
営業スマイルと安堵の笑みを織り交ぜながら陽一を迎える。
陽一はミナミさんの隣に座ろうとして、
「あっ、一個開けたほうがよかったかな?」
慌てて彼女に確認した。わざわざ聞く必要もないのに。ミナミさんもおかしそうに笑う。
「いいよ。隣どうぞ」
じゃ、と言ってそのまま座る。
女性慣れしている、と思った。まあ美容師なのだから当然なのかもしれないが、その妙に手慣れた態度といい、一つに結った髪型といい、ライブハウスで会ったときとは少し印象が異なっている。なんというか、猫をかぶっている。あるいはこれが本来の彼なのだろうか。
彼に何を飲むか聞くと、「酒に詳しくなくって、」と言った。
「そうだなぁ、せっかくだし、なんかシャカシャカするやつがいいっす」
「シェイカー使うやつ?一番バーっぽいもんね。結構強めのお酒になっちゃうけどいい?」
陽一は「うーん、」と言いながらも、
「今日はしっかり酔いたいので。」
と答えた。
智浩は迷って、アップルブランデーを手に取った。
詳しくないのなら、あまり奇抜でないのがいいだろう。ライブハウスで甘いのが好きだと言っていたから、グレナデンシロップは少しだけ多めにしてやるか。
シェイカーを振ると陽一が目を輝かせ、静かに歓声を上げる。
「はい、どーぞ。『ジャックローズ』ね。」
「うわっ、いまセリーヌ・ディオンが聴こえた気がする」
それを聞いたミナミさんが吹き出した。その表情は今までにないくらいに自然で、彼女が初めて見せた素のような気がした。
智浩は初めて、ミナミさんのことが少し可愛いと思った。
思ってすぐ、不思議な気分になった。ミナミさんも智浩も、まるで陽一に魔法をかけられたように武装解除している。
「お兄さん面白いね」
「そうっすか?だってジャックローズっすよ。タイタニック、見たことあります?」
「ない人なんているの?」
そう言って二人はしばしばタイタニックの話に興じた。
智浩はカウンターの向こうでその話を聞きながら感心していた。陽一は驚くほど女性の扱いが上手かった。
話し方ひとつ、雰囲気ひとつとっても、過剰なところがない。むしろ少し寂しいぐらいで、それがより相手にもっと話していたいと思わせる。
心地よい会話のリズムだ。
ミナミさんからのボディータッチにも動揺しない。相手が踏み込もうとするのを優しく受け入れていてすらいる。
智浩自身、話し方や聞き方はそれなりに勉強してきた方だった。客商売としてのプロ意識がある。
その智浩から見ても、陽一は接客に関して天賦の才能を持っていると思った。
彼がもし美容師でなくもっと別の、例えば夜の仕事をやっていたとしたら、一時代築いていたかもしれない。
ミナミさんが三杯飲んで帰るまで、陽一はずっと彼女と話していた。ちゃっかり一杯ご馳走してもらっている。
智浩は難を逃れた。彼にはこのままずっと店にいてほしいくらいだった。
「陽一くん、」
他の客に聞こえないように、彼の耳元で囁く。
「助かったよ。今の子、ちょっと苦手でさ。」
彼はヘラ、と笑った。
「そんな気がしてました。助かって何よりっす」
案外察しはいいようである。
「――そういえば今日はなんかあったの?なんか、元気なさそうだけど。」
「ああ、」
陽一は少し迷ったように言葉を切ると、
「合コン疲れっす」
と苦笑した。意外だった。さっきの感じで、いくらでも喋れるだろうに。
「それ、詳しく聞いてもいいやつ?」
「うーん……」
グラスに口をつけながら目をそらす。
「また今度で。今日は喋りすぎちゃって、喉ガラガラなんです。ちょっと一人で休憩していいすか?」
そう言ってレーズンバターに手を伸ばした。
なんだか上手く躱されてしまった。
彼にも話したくないことがあるのだ。だが、それを聞いていいような関係でないと線引きされたことは、さり気なく智浩の心を傷つけていった。
なぜ彼はここに来たのだろう。
疲れているのに、わざわざここに寄っていく意図はなんなのか。グラスを持つ陽一の手を見ながら考える。詮索したところで何にもならないのに。
客は一人、また一人と帰っていった。
BGMは一周し、店の中には南陽と智浩、それに陽一だけが残っていた。
彼は頬杖をついて店の奥を見ている。
「陽一くん、終電大丈夫?」
声をかけると、彼はハッとしたように体を震わせた。さっきは気づかなかったが、彼の目元にはうっすら隈が出来ていた。そのせいか、ひどく疲れているように見える。
「え、そんな時間?やば。僕寝てたかも」
「なんかだいぶお疲れだね。タクシー呼ぼうか?」
陽一は「いや、大丈夫っすよ、」と言い、挨拶をして会計を済ませた。そのままノソノソと歩き、店の扉に手をかける。
智浩はなぜか、本当になぜなのか、彼を追って店の外に出た。
きっと彼が疲れて見えたからだ。一人で帰すのが不安だったからだ。そう言い聞かせながら、扉のすぐ外にいた彼の手首をとった。
彼は驚いていた。
「あの……今日……」
「え?」
来てくれてありがとう。そう言うつもりだった。
「今日、なんで来てくれたの?……何か、言いたいことがあってきたんじゃないの?」
口が勝手に動く。
陽一は困った顔をしながら、だがずっと智浩の目を見続けていた。湿気た空気が、二人をその場にピタリと貼り付けている。
戸惑うようにして、陽一が小さく口を開く。
「……薫、って人、知らないっすか?」
一瞬、二人の時間が止まる。
なんで、と聞こうとした途端。
陽一の体が不意に傾いた。そのまま壁にぶつかる。
智浩はあわてて掴んでいた腕を引いて、支えようとする。
だが一歩間に合わず、彼に引きずりこまれるようにして二人で地面に倒れこんだ。
「救急車……」
言いかけた智浩を、陽一が制する。
「ね……眠いだけっす、すんません、大丈夫……」
大丈夫、と繰り返す彼の体は重く、力がまるで入っていなかった。
智浩は彼を抱き起こして店に戻ると、南陽に頭を下げた。
「南陽さん、すみません。知り合いが倒れちゃって。タクシーで送ってきます」
「え、だいじょうぶなの?救急車呼ぶ?」
「いえ、なんかすごく疲れてるみたいで」
「じゃあ送ってあげて。今日はもうこのまま上がりでいいから」
南陽は心配そうにこっちを見ていた。礼を言い、携帯でタクシーを呼んだ。
彼がなぜ、薫の名を知っているのかは全くわからなかった。
昔の友人なのだろうか。だが薫からは陽一の名前を聞いたことがないし、年は一回り違う。なぜ――。陽一の背を支えながら、ビルの一階まで降りていく。
タクシーはすぐに到着した。ハザードランプの点滅に、青白い額がうかびあがる。二人で乗り込むと、目的地を問われた。
「家、どこ?住所言える?」
「……。」
陽一は苦しそうに目を瞑っている。運転手がバックミラー越しに、怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
なんとか住所らしきものをつぶやく。陽一はそのまま倒れるように眠った。
揺れる車内で彼の体があちこちに傾く。一度ゴンという音を立てて頭を窓にぶつけていたので、智浩はその肩を抱き寄せて倒れないように支えてやった。
彼からは、消えかけの香水の香りがした。
携帯を見ると、知らないうちに淳から着信があった。
智浩はかけ直さなかった。メッセージで、陽一を家まで送るところだと説明する。既読のまま、返信はなかった。
タクシーは光の海のような繁華街を抜け、闇に寝静まった住宅街に入っていく。
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