3B. ふらふら美容師
「いいなぁ、その色。オレも今度陽一さんみたいにしよっかな」
客に自分の髪色を褒められて、
少し長めの髪にのせたパープルシルバーの色も、それを褒めるこの客も、彼の大のお気に入りなのだ。
お気に入りがお気に入りを褒める。シナジー大爆発である。
「お、いいんじゃないすか?淳くんも似合うと思うよ〜」
ともかく顔がタイプだ。ツリ目に薄い唇。それに、ちょっと背が低いところなんかが、全体的にハスキー犬みたいで可愛いのだ。筋肉だってそこそこあるし。
一応客と美容師なので、付き合いたいとは思わない。
だが、間違いなく来店が楽しみな客の一人だった。
浮かれた気分を諌めるように、店の冷房が陽一の首筋を撫でていった。ワックスを広げた手が震えそうだ。最近やや効きすぎている気がするのだが、オーナーが暑がりで温度を上げてくれない。
最後の毛束を整え終える。すっと指を抜き取ると、陽一のイメージ通りの髪型が完成した。
色もパーマもスタイリングも、過不足なし。我ながらいい仕事をした。
「はいっ、完成でーす」
淳が鏡台の前で右を向いたり左を向いたりしながら、新しい髪型をチェックしている。
「簡単でしょ?今みたいな感じでセットしてみてくださいね。
ライブ、明日でしたっけ?今日のカラー、ステージ映えしそー。楽しみっすね!」
「んー……」
淳の返事は意外にも暗い。曇った顔もかわいいのだが、何か気に入らない箇所でもあっただろうか。
「今回チケットが全然さばけなくってさー。ちょっと困り気味。まぁ、対バン相手が余分にさばくんだろうけど……ねぇ、陽一さんさぁ、ライブ来ない?」
「へ?」
「明日。場所も新栄で近いしさ。陽一さんってバンド好きだっけ?」
全くだ。
音楽は好きだが、陽一のプレイリストはK-POPまみれだった。ロックの入る隙など一分もない。ましてやメジャーデビューすらしていないバンドなど、陽一はまるで興味がなかった。
「ええー。僕ライブなんて行ったことないっすよぉ。なんか怖そうじゃん、ライブハウスって。」
「別に怖くないよ。お酒飲めるし。壁に張り付いて見とけば、なんにも問題ないから。無理にとは言わないけど、来てくれると嬉しいなぁー」
そう言うと、ねだるような顔をちらつかせ、椅子を降りた。可愛い。
会計を済ませ、見送りに出た店の駐車場は、砂利でも炒めてるんじゃないかと思うほど暑かった。「3031」と書かれた店の看板は、強い日差しを反射して文字が半分見えなくなっている。
「じゃ!」
抜けるような青空の下、淳の姿が隣の住宅の角に消えた。
陽一は結局、チケットを受け取ってしまった。金は当日、淳に直接渡せばいいからとまで言われては、受け取らないわけには行かなかった。
――行くべきだろうか?
仕事を終え、一人暮らしのアパートでカップ麺用の湯を沸かす。淳からもらったチケットは、散らかった机の上に置かれていた。
いくら淳がタイプとはいえ、興味のないものに時間を費やすのは面倒だ。
だが嘘をつくのも苦手だった。
明日は休みだし、個人的な予定もゼロだ。ここ数年恋人はおらず、友人はみんな結婚して付き合いが悪い。
行かない言い訳が考えられない。
逡巡しながら麺に湯を注ぐ最中に、陽一の携帯が鳴った。画面には、
『沙織からの1件の未読メッセージ』
とだけあった。
げぇ。
陽一はカップ麺のせいにしてそのメッセージの開封を後回しにした。
食事を終え、風呂に入り、借りてきた『ご近所物語』を一冊読んだあと、とうとうすることがなくなってメッセージを見た。
『お兄、合コンいくよ』
妹の沙織はいつも話に無駄がなく、唐突だった。
陽一は『×』の札を掲げるネコのスタンプを送信した。すぐに既読になる。
『私も仲人役で行くから。頑張りなよ』
『メイちゃんは?』
『リュウくんがみてくれる』
リュウくんは沙織の夫である。陽一のタイプではないが、大手企業に務める真面目な男で、兄としては信頼している。
四年ほど前に二人は結婚し、すぐにかわいい子供をもうけた。二年前には陽一の実家を二世帯住宅に改築して、母と一緒に暮らしている。
陽一の地元では、だいたいそんな感じだ――25歳を迎える頃にみんな結婚し、30歳になる頃には家を買う。沙織の生き方はまさにモデルケースだった。逆にそこから逸れていくと、知らない人にまで「なんで?」と言われてしまう。なんで結婚しないの、とか、まだ賃貸なの、とか。
窮屈だ。
家から職場に通えるのに、陽一がわざわざ一人暮らしをしている理由の一つが、この窮屈な雰囲気だった。それに。
『兄ちゃんまだ女の子のこと好きになれないよ。やっても意味ないと思うけどな〜』
陽一は男が好きだった。家族もそれは知っているし、文句は言わなかった。ただ、妹も母も、陽一のことはバイだと思っていた。高校時代には彼女がいたからだ。当時は陽一自身も自分のことがよくわかっていなかたった。
今になって言えることだが、陽一はゲイだ。それがうまく家族に伝わらない。
既読からしばらく返事がなかった。そのまま黙るかと思って携帯を伏せたものの、一分ほどで『ポン』という通知音が鳴った。
説教のような長文だった。
『お兄、もう30歳でしょ?そろそろ結婚して、お母さんを安心させてあげなきゃいけないじゃん?
お母さんだって、またお薬増えたし、いつまで元気なのかわかんないよ。お父さんみたいに、急に心臓止まっちゃうことだってあるんだよ。
お兄ももう、フラフラするのは終わりにして、ちゃんと身を固めなよ』
その文字数に圧倒された。返事が打てなくなる。
沙織の気持ちも、理解はできた。
彼女にとっては、家庭をもつことこそが人生の重大事項であり、優先事項であった。別に彼女だけじゃない。リュウくんもそう思っていたから沙織と結婚したのだし、母親もそう思っていたから妹の結婚を喜んだのだ。
だが陽一はそうでなかった。
かといって、彼自身が何を一番大事にしたいのかは全くの暗闇であった。
つまるところ生きる指針がなかった。
フラフラしていると言われる所以だ。
仕事人間というわけでもないが、添い遂げたい恋人がいるわけでもない。かと言って独り身が好きだということもない。
先のことは考えたくなかった。なんとなく、今と同じような日々が過ごせればいい。それぐらいにしか思っていなかった。
妹に反論しようにも、反論できるほどの持論がない。陽一は合コンの件を渋々了承すると、部屋の電気を切り、ベッドに転がった。
流されていくままの人生だった。
周りの友人が結婚するたびに、羨ましくて仕方がなかった。それは結婚がどうとかいうより、俺はパートナーと幸せになるんだぞ、というような、その人生の確固たる目標みたいなものが定まっていることに対する羨望だった。
「はぁ……」
体も気持ちも疲れていた。目を閉じるまでもなく、意識の奥から眠気がやってくる。
――きっと、今日もあれを見るのだろう。
不安にも似た予感が陽一を襲う。
妙な夢を見始めたのは、半年ほど前からだった。
それは暗い、得体のしれない部屋に閉じ込められる夢だ。
知らない場所だった。
以前テレビか何かで見た、イギリスのパブに雰囲気は似ていると陽一は思った。
古臭い床の奥に、小さなステージのようなものが見えた。
夢の割に感覚はリアルだ。
冷房が効いていたのが肌でわかったし、匂いもあった。
タバコ、汗、それにコーラやジンのような雑多な匂いだ。
明らかに人の営みから立ち上る匂いだった。その割に、人っ子一人見当たらなかった。
陽一はそこで毎回、『薫』と会話する。
と言っても、それは人でもなんでもない。
初めて見たときは琥珀色のエレキギターだった。ステージで仰向けに転がされたギターが、話しかけてきた。
低くて、少し掠れた男の声だった。
話の内容は覚えていない。たしか、いい天気だとか、調子はどうかとか……そんな、喫煙室で居合わせた初対面同士の会話みたいな話だった。
ある日は血まみれのTシャツが話しかけてきたこともあった。またある日は、巨大な鉄骨と、その下で潰れたカバンが話しかけてきた。
彼らは常に『薫』と名乗った。声も同じだった。
だがいつも、陽一は声の主がもっと遠くにいるような気がしていた。
遠く離れた場所から、何か煙のような意識が陽一をかすめて、それが夢を見させているのだ、と。
その夢の終わりはいつも同じだった。最後に必ず、
『助けて』
と言って、ぷっつりと切れる。
掴みどころのなく、しかし悪夢とまでは行かないような内容なのだが、何故か目をさますたび、素足で虫を踏み潰したような気持ちの悪い感覚になる。
その上体力の消耗も著しいときて、その夢を見た日は午前十時には眠くなるほどだった。
一週間に一度の頻度で、その夢を見続けていた。
見るときはなぜか、見る前にそれがわかる。
そして今晩も、案の定、その夢を見た。
「……しんどっ。」
翌朝、思わず声が出た。声にしたところで、一人暮らしの部屋では誰が答えてくれるわけでもない。天井に吸い込まれるようにして、その声はあとかたもなく消えた。
不意に、机の上で一枚の紙片が冷房の風で揺れているのが見えた。淳にもらったチケットだった。
チケットには、機械的な文字で『This Squall 夏祭りNight @ 7days wonder』と書かれていた。
復活の呪文みたいだ。
日付は、今日。
陽一はチケットに書かれたライブハウスをスマホで検索し、電車を確認した。
思うようにいかない人生からの、ひとときの逃避行のつもりだった。
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