1B. おつかれバーテンダー
「トモくんさぁ。このあと、ホテル行かな〜い?」
冗談とも本気ともとれる声で、ミナミさんが言った。いつも通り美しくて淫靡な笑顔だった。
飲んだ酒は三杯。すべてショートカクテルだから、酔いはかなり回っているはずだ。
店内では、ザ・ナックの『My Sharona』が流れていた。その陽気なギターリフが、虚しく耳を通り過ぎていく。
「ハハハ……」
四杯目のカクテルはグラスホッパーだ。チョコミントのようなデザートカクテルはミナミさんのお気に入りで、帰る前の一杯は必ずこれだった。
智浩は内心、これ飲んで早よ帰らんかい、と思っていた。作り笑顔だって、疲れるのだ。
「はぁぁ……」
オフィスビルや飲食店の立ち並ぶ、華やかなビル街。大通りから一本離れた、静かな雑居ビルの三階に、バー『Anchor』はあった。
店の看板の明かりが消える。ようやく営業が終了した。
今日みたいに暑い日は、酒は売れるし客も多い。だが智浩はそのせいで疲れていたわけではなかった。
「相変わらず、ミナミさんグイグイ来るね〜」
後ろでロックグラスを拭きながら、店長の
南陽の趣味で、店内は営業中も閉店後も陽気なオールドロックが流れている。海辺のパブをイメージした内装にはよく合っているが、智浩の気分にはそぐわない。
「しんどいっす……」
カウンターを拭く手が重い。落ちてくる眼鏡を直し、再びため息をつく。
「可哀想に。結構来てるよね。何回目だっけ?」
「さぁ……三回目くらいですかね?」
「きれいな子だけどね〜。でも楠、男しか好きになれないんだったよね」
「それもありますけど。単純に性的な目で見られるのがしんどいっす」
「へぇー」
疲労の原因は、常連の女性客ミナミさんだった。彼女は智浩のことをやや過剰に気に入っていた。
同じ三十代くらいの、バリバリと仕事をこなしていそうな会社員風の女だった。しょっちゅうこのバーに訪れてはカウンターに座り、やや踏み込んだ話をしていく。
仕事の話。同僚の話。最近始めた投資の話、それに、恋人の愚痴。その話を聞くのはバーテンダーの勤めのうちだが、放っておくとそれがそのままベッドへのお誘いに転じていく。
『トモさんって、なんか困らせたくなっちゃうんだよねぇ』
そういう客は、ミナミさんの他にも何人もいた。
それは女子大生のときもあれば、サラリーマン風の男のときもある。智浩の人気は男女を問わなかった。
彼自身、別に特別顔が良いわけではない。体格もごくごく一般的だ。
むしろそれが良いのだろう、とは南陽の談である。智浩の気さくで親しみやすい雰囲気。バーテンダーとしての「傾聴」というポジション。それらが悪魔的な融合をして、孤独な人々を惹きつけるのだ、そうだ。
だがそれだけなら別に南陽だって変わらない。彼だって気さくだし、話の聞き方がうまい。なのになぜ智浩だけがこんなに面倒な客にモテるのか。
「楠、笑顔にちょっと影があるしなぁ」
「影ですか」
「ほら。昔クスリやってたでしょ」
人聞きの悪いことを。別に違法薬物に手を出していたわけではない。飲んでいたのは抗うつ剤や抗不安薬、睡眠薬だ。智浩は数年前まで精神科通いをしていた。
それをこうして冗談交じりでネタにしてくるのは南陽ぐらいだし、彼なりの励ましでもあった。
「昔から、精神的に参ってる男はモテるんだよ。太宰とかさ、」
そいうものなんだろうか。納得しきれないまま、客席側の清掃を終えた。
『――ホテル行こうよ』
客の情欲が自分のその影とやらから来るのだとしたら、絶望的だ、と思った。
智浩はセックスが嫌いだった。自ら望んで寝たのは、12年前に死んだ恋人の薫で最後だった。それ以降、他人と寝ることが嫌になった。
別に不能になったわけではない。だが請われて義務のようにこなす行為は、退屈を通り越して苦痛だった。だから誘われることも嫌いだったし、それを断る際の精神的消耗は本当に無駄だと思っていた。
「――それよりさ、俺はお前のその顔が心配だね。いっつもポーカーフェイスっていうかさ。読めない笑顔してんじゃん。」
南陽が言いながら店のBGMを切る。『Roundabout』が途中で止まり、深い静寂があたりを包んだ。
薄暗い部屋の中で、南陽は智浩に向き合った。しばらく真剣な顔で睨んだかと思うと、突然頬を鷲掴みにしてくる。
「表情筋!」
掴んだ頬をムニムニと動かして、笑った。
「ま、あんまり根詰めるなよ。」
そう言って、店の裏口を開けた。
熱帯夜だった。
ビルやマンションが黒々としてひしめき合い、あたりに熱気を閉じ込めている。今吐いた空気も明日まで残っているんじゃないかとすら思えるほど、つくづく風通しの悪い街だった。
智浩は店の近くに停めていたビアンキのクロスバイクの鍵を解いた。
別に店から自分のアパートへは歩いてでも帰れる。自転車は単純に、客よけだった。歩いて帰ると、待ち伏せされることが多い。以前何度かトラブルになり、自転車を買って解決することにした。
その経緯については南陽も知っている。南陽は智浩を心配して、店から自転車までいつも付き添ってくれている。
智浩は南陽に頭が上がらなかった。自転車の件だけではない。大昔にホテルバーテンダーの先輩と後輩だった頃から今に至るまで、数々の難所を南陽に助けられながらくぐってきた。南陽がいなければ、今頃智浩はどうなっていたかわからない。
特に、薫を事故で失ったあの冬は。
ふと、ポケットに入れた携帯がなる。淳からだった。
『トモ。今何してんの?』
いつも通りぶっきらぼうな物言いだった。だが、どこか元気がない。
「店しめたとこ。どうしたの?」
『ちょっとさ。付き合ってよ。今からそっち行くから』
隣で南陽が「やばいやつ?」と小声で囁く。智浩は苦笑いをしながら顔の前で手を振って、否定した。
淳はこうして真夜中に突然、智浩を訪ねることがあった。それが許されるのは、彼が特別な存在だからである。唯一、頼まれれば寝る、特別な相手。
南陽と別れ、クロスバイクを五分も走らせると、すぐに智浩のアパートが見えた。
――昼食の食器がまだ流しにあったな。淳が来るなら少し片付けておかなければ。それにベッドの準備も必要だ。浴室は綺麗にしてあっただろうか。
あれこれ考えながら走っていたのがよくなかったのかもしれない。気づくと智浩は、いつもは決して通らない道を通っていた。
工事現場の横だった。古い一軒家を取り壊して、アパートを作っている。すでに鉄骨は組み終わっていて、そのアパートが三階建てになることが簡単に予想できた。
智浩はしまったと思った。
見てはいけない。
ふと、鉄骨を保護する灰色のシートが、風で膨らむ。
その音に、智浩は反射的に顔を上げてしまう。
途端に血の気が引くのを感じた。
――落ちてくる。
思わず息を止める。
見開いた目に、鉄骨が飛び込んでくる。
だが、頭上は水を打ったように静かだった。相変わらず灰色のシートは揺れるばかりで、鉄骨はびくともしない。
智浩は肩で大きく息をしながら自転車を降り、その場に座り込んだ。心臓が強くまたたいて、苦しい。
こういう、「何かが落ちてくるかもしれないという状況」が異常に怖くなったのは、12年前からだった。
恋人の薫が、工事現場の資材落下事故に巻き込まれて死んだことに端を発しているのだと思う。長い通院によって他のあらゆる障害は寛解したのに、これだけは残り続けていた。
その恐怖はふとした時に頭をもたげる。
例えばこうして近所の工事現場を通るとき。カフェの照明が細いワイヤーで吊るされていたとき。ビルの屋上に、人影が見えたとき。
そういったものごとを意識した瞬間、智浩は震えて動けなくなるのだ。
そんなことは起こり得ないと頭ではわかっているのに、体は彼の言うことを聞かなかった。
四十手前にもなって、恐怖一つ手懐けられない。智浩はそういう自分が、情けなくてみっともなくて、死ぬほど嫌いだった。
嫌悪感とともに呼吸を必死で整えているとき、背後から声がした。
「トモ、」
暗闇の中で、小柄な狼のような男がひとり立っていた。淳だった。智浩に向かって片手をひらひらさせている。
「だいじょーぶ?」
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