第3章・わたしと同じ、誰か。

14・取調室

 篠原は1人、警視庁内に設置された取調室で待機していた。

 窓もなく、コンクリート剥き出しの部屋は飾り気がない。完全可視化対応のこの部屋では、通常は全ての画像と音声が記録される規定になっている。そして取り調べは、必ず複数の警察官で当たる。

 だが、その日は全てが規則に反していた。

 ダークスーツを着込んだ篠原以外は、誰もいない。

 そして、テーブルには臨時に大型モニターが設置されていた。取調室内に固定された6台のカメラの映像が、6分割されたモニターに映し出されている。テーブルの角には、2箇所にカメラが固定されている。

 篠原の前には、大型の黒い書類ケースが置かれていた。

 背面の壁の半分は、大きなマジックミラーになっていた。その向こうの記録室では、小宮山管理官をはじめ、篠原が指定した〝関係者〟たちが室内を注視しているのだ。

 扉は2つ。1つは廊下との出入りに使われ、もう1つはマジックミラーの横にあって記録室に直接繋がっている。

 小宮山は篠原が依頼した通りに記録を取らず、ポリグラフなどの電子的補助装置の電源も切らせているはずだった。

 篠原は誰にともなく言った。

「榊さん1人だけを案内してください」

 榊美幸は児童を殺害した〝儀式の巫女〟として、逃亡準備中に逮捕されている。直接の逮捕容疑は、尾上紗栄子の殺人幇助だ。

 他に数人が重要参考人として確保されたが、教団の根幹には関与していないと判断されて別の取調室で聴取を続けられている。幹部は、すでに姿を消した後だったのだ。

 司教を〝演じた〟田中の行方も分からない。

 榊美幸もまた名前を告げたきり、丸3日間、一言も言葉を発していないという。

 廊下側の扉が開き、若い警察官が美幸を押してくる。美幸を篠原の正面に座らせると、警官はそのまま取調室を去っていった。

 これも規定違反だ。

 篠原が笑顔を浮かべる。

「僕は篠原直之といいます。たまたまあなたと一卵性双生児である尾上紗栄子さんと行動をともにすることになって、この事件に関わることになりました」

 篠原はじっと美幸の表情を観察していた。が、全く表情を崩さない態度から読み取れるものは少ない。まるで、アレキサイミア――感情を失う病気を患った患者にしか見えない。

 だが、美幸はポツリと言った。

「話すことはありません」

 篠原も笑顔を崩さないまま続ける。紳士的な態度も変わらない。

「お名前、教えていただけますか」

「榊美幸です」

「話すこと、あるじゃありませんか」そしてマジックミラーの方を振り替える。「僕でさえお名前はすぐに聞き出せましたよ」

 美幸は表情を変えずにうつむいた。

 視線を戻した篠原は説明した。

「知っておられるでしょうけど、そこの鏡はマジックミラーです。こちらからは向こうが見えませんが、あっちの部屋にいる人たちには僕たちの姿が確認できます。そして……」テーブル上の大型モニターを指差す。「今は僕たちの映像が写っていますが、通常はずっと記録される規則になっています。可視化といって、不当な取り調べから被疑者を守る対策です。でも僕たちは、これからその規則を破ります。いえ、こうして1対1でお話ししていること自体、すでに違反行為なんですけどね。あなたが了解するまでは、記録は一切残しません」

 美幸の顎がわずかに上がった。

「拷問とかされても、話すことはありません」

 篠原は大袈裟に驚いて見せる。

「いやですね、今時の警察はそんなことはしません。日本は独裁国家ではありませんからね。記録しないのは、あなたに自由に話していただくためです。もちろん、最終的に記録は残しておかないとなりませんから、あなたの了解をいただいた後に改めて聴取を繰り返すことになります。二度手間になりますが、ご了承ください」そして再びマジックミラーへ指示する。「カメラの電源を切ってください」

 モニターに映る映像がざらつくノイズで埋め尽くされる。

 篠原は立ち上がると、ダークスーツのポケットからレンズキャップを取り出してテーブルに固定された2台のカメラにはめた。

「念のための措置です。榊さんには安心していただかないとなりませんので」

 そして室内を巡って他のカメラにキャップを嵌めていく。2ヶ所は天井の上部に設置されていたが、あらかじめ準備されていた脚立を使ってそれらのレンズも塞いでいく。

 美幸は、篠原の行動を不思議そうに追っていた。

 作業を終えた篠原が席に戻る。

「これで録画はしていないと分かっていただけましたね。録音の方は証明しようがないので、信じていただくしかありませんが――」

 榊は返事をしなかった。

 だが篠原は、美幸の硬さがかすかに緩んだことを見逃していない。

「さて、榊さん、質問を続けさせていただきます。あなたは子供たちを犠牲にした非人道的な儀式の巫女として、その現場に立っていたのではありませんか? あなたに与えられた役目はなんだったのでしょうか?」

 美幸は答えない。再び表情が固く戻る。

 篠原はかすかな笑顔を保っている。

「お答えがない……まあ、当然でしょうね。では、しばらく僕の独り言に付き合っていただきましょうか」

 そして篠原は、テーブルに置いてあった書類ケースを開いて1枚の写真を出した。A4サイズにプリントされた写真を伏せて、美幸の前に滑らせる。

「その写真、見ていただけますか?」

 美幸は動かない。

 そのまま1分が過ぎる。

「仕方ないですね……」

 そしてテーブルに身を乗り出すと、美幸の目をじっと見つめたまま写真を裏返した。

 美幸の視線は、反発されながらも写真に向かっていく。わずかに目をそらした。

 全裸の女児の死体だった。斜め上部から解剖台を写した、仰向けの画像だ。

 篠原はその動きを見逃さなかった。

「犠牲になった女児の写真です。ご遺体は台東区の鳥越神社の近くに遺棄されていました。まだ身元も判明していません。おそらく小学校低学年でしょうが、報告されている行方不明者の誰とも一致しません。この子供は一体どこから連れてこられたのでしょう?」

 美幸に反応はない。

 篠原が2枚目の写真を出す。今度は表を見せたまま、美幸の前に押し出して行く。

「この女児の陰部の拡大写真です。明らかにひどい裂傷があり、強制性交の痕跡だということです。体内には複数の性液が残っていました。分離してDNA鑑定も行っていますが、今のところ警察が手に入れられる記録と一致するものはありません」

 今度は、美幸は明らかに顔を背けた。残虐な犯行を淡々と語る篠原の無神経さを嫌悪しているようにも見える。

 篠原は3枚目の写真を出した。

「これは同じ女児の背中です。無数の傷が見てとれます。何度も鞭打ったのでしょう。中にいくつか、特別深い傷があります。その形を分析しました。東方正教会で用いられる十字架の形を、上下逆にして刻み込んだようです。余談ですが、この女児の唇は大きなダブルクリップ状のもので強く挟まれていたようです。同時に痛み止めとして微量のモルヒネも投与されていたといいます。それでもおそらく暴れたりしたのだと思います。意識を失うほどの量ではなかったようで、恐怖は感じたのでしょう。唇を塞いだのは、叫び声を少しでも小さくするためだと思います」

 美幸が固く歯を食いしばったのが感じられた。

 さらに4枚目を出す。

「後頭部、首筋の下の部分です。ここに大きな傷があることがお分かりになりますか? ここを入り口にして、傷は脳の深くにまで届いています。脳の中央に松果体という各種のホルモンを分泌する部位があります。〝第3の目〟とか呼ばれることもある器官です。この傷は、松果体を摘出する際につけられたものでした。儀式が行われたのは老人ホームの地下で、レントゲン装置や手術用具を用意していた部屋もありました。手術と言っても治療が目的ではないので、脳の他の部位はひどく傷つけられていました」

 美幸は明らかに目を伏せた。

「これは俗説に過ぎませんが、恐怖や痛みを感じると松果体で血液が形を変えてアドレノクロムという物質になるといいます。この物質を摂取すると、強力な麻薬のような快感を得られるらしいのです。それだけではなく、身体能力が強化されたり若返ったりするとも言われています。まあ、オカルトの類でしょうがね。しかし儀式はそれを信じるものたちの手で行われました。だからこの少女は、犯され、鞭打たれ、十字架を刻まれ、そしておそらく生きながら脳をえぐられ、息たえてまで無惨に捨てられた。それが一連の儀式です。そこにあなたもいた。そしていつ始終を見守っていた……。違いますか?」

 美幸は目を伏せたまま、唇を硬く結ぶばかりだった。

 篠原は穏やかに言った。

「写真をちゃんと見ていただけませんか? この女児は、全身を漂白剤で洗浄されていました。表面の油分を分解して少しでも犯人たちの手がかりを消そうとしたのでしょう。それにしては体内に精液を残すという粗雑さが不自然だとは思いますがね。ただ、1つだけ重要な証拠物件が得られました。背中の最も深い傷の中から、あなたの毛髪の断片が発見できたのです。あなたはご自分の手でこの少女に傷を与えたのではありませんか?」

 美幸はついにピクリと動いた。まるで、堅牢なはずのダムが許容量を超える水を貯めてヒビが入ったように――。

 美幸にも人並みの感情が残っている可能性はあった。

 しかしそれを確認しても、篠原の口調は変わらない。

「少なくともあなたは、目前で虐待される女児を見ていたはずです。女児が複数の男たちに囲まれ、犯される現場も見たのではありませんか? 女児は麻薬で意識を喪失していたのですか? いや、そんなはずはない。虐待を楽しむ者は、相手の苦しむ姿を見なければ優越感を得られないものです。たとえアドレノクロムが得られようと、蹂躙される被害者の泣き叫ぶ声を聞かなければ精神的に満足できないでしょう。唇を塞がれていても、うめき声は漏れます。あなたはそれをどう見ていたのですか? 仕事だと割り切って見ないふりをしていたのですか? そうではないですよね。僕らが手に入れた複数の写真を分析すると、仮面をつけていた巫女は積極的に儀式を進行しているようでした。ご遺体の1つは……恐ろしいことですが、心臓の肉も抉られていました。儀式の一部として、参加者はその肉を口にしたのではありませんか? あなたはその給仕役だったのではありませんか?」

 篠原は話ながら、じっと美幸を観察していた。

 美幸は再び動きを止めている。しかし、呼吸が速くなっていることは隠しようがなかった。

 篠原はかすかなため息を漏らす。

「僕……実は畑違いなところから警察に入ったんですよね。量子物理学を研究していたんです。量子って、調べれば調べるほど奇妙な振る舞いを見せて、新しい疑問を突きつけてくるんです。でもね、人間って、それ以上に奇妙だと思います。怒っているのに笑ったり、悲しいのに笑ったり……笑っているのに楽しくないって、変でしょう? でも、それが人間なんだっていう現実を認めたら、なんか気が軽くなって……もっと人間のことが知りたくなったんですよね」

 美幸はようやく口を開いた。

「何が言いたいんですか……」

「あなたのことが知りたいんです。少なくとも、あなたは僕の言葉を否定しない。巫女役として子供たちの死に関わったことを否定しない。なぜですか?」

 美幸はまた口を閉ざし、挑むように篠原をにらむ。

「否定しないのは、ある意味、罪を認めているからだと思います。あなたは虐待を楽しむような人間じゃない。この程度の写真すら直視できないのですからね。どれだけ大金が得られようと、こんな役目に耐えられる神経の持ち主ではないと思います。僕の直感が間違っていなければ、ですがね……。それともあなたは、巫女の役目に心酔していたのですか? 心からあの儀式が正しいものだと信じていたのですか? それもきっと違いますね。すめらぎ正教会の教義は、あちこちの宗教の寄せ集めです。キリスト教や神道や、それどころかヒンズー教の神様まで混じっていました。理性的な人間が見たら整合性も無視したデタラメにしか思えません。宗教の衣をかぶってはいますが、ただのお飾りです。最初からこの儀式――オカルト的な力を得るための悪魔信仰を隠す目的で作られたダミーなのでしょう。ならば儀式を最前列で仕切っていたあなたもまた、悪魔を信じる異端者なのですか? 傷の深くに毛髪が残っていたのですから、あなたも共に少女を切り刻んでのですか? あなた自身も悪魔の力を得るために巫女になっていたのですか?」

 美幸はとうとう目をつぶった。

 まるで、世界から自分を切り離すかのように――。

「あなたにも、被害者と同じ年齢の頃があったはずです。その頃あなたは、何を考えて過ごしていましたか? 毎日は楽しかったですか? 被害者になった子供たちは全員、学校に通ったこともなさそうです。どこの誰とも分からないので、記録の調べようがないんですけどね。子供たちが閉じ込められていた東亜曙会の施設には、独房のような小部屋が数多く作られていました。そこから数人の子供たちが救出されました。そんな子供たちは、毎日何を考えて過ごしていたのだと思いますか?」

 篠原は、改めて美幸の反応を観察する。

 やはり、美幸は押し黙ったまま動かない。

 篠原はテーブルに並べた写真を書類ケースに戻した。

「では、質問を変えましょう。あなたは尾上さんが双生児だと、いつ知ったのですか? そもそも自分に双子の姉妹がいると誰かから教えられたのでしょうか? テレパシーで居所まで感知することができると分かったのは、いつですか? どうしてですか? 尾上さんを殺したのはなぜですか?」

 立て続けに質問を重ねる篠原は、返事を期待してはいないようだった。ただ、美幸から反応を引き出す方便にしか見えない。

「これは僕の推測に過ぎませんが、自分が尾上さんの居場所が分かるなら、向こうもこっちが分かるはずだ――今はまだそのことに気づいていなくとも、いつかは危険になる――しかも、警官と行動を共にしている――命取りになる前に、殺しておかなければ――と、そう考えたのではありませんか? そしてテレパシーで居場所を探り出し、僕の目の前で殺すことになった……」

 やはり美幸は、なんの反応も示さない。

「尾上さんを見つけ出すために、あなた自身も車にいたのでしょう? そして、瀕死の尾上さんを車に引き込む手伝いまでした……。その時、テレパシーでは何も感じなかったのでしょうか? 心臓を刺されて大量に出血する尾上さんの苦痛を、一切共有しなかったのでしょうか? そして何より、亡くなった尾上さんの遺体をどうしたのですか? 僕ら警察は今も東亜曙会が関係する場所を探し続けていますが、遺体は発見されていません。血痕が残った車は簡単に見つかったのに、遺体の情報は皆無です。人間の死体を消すことは簡単ではありません。安易に捨てれば誰かに見つかりかねない。埋めれば痕跡が残る。切り刻んでも血痕を完全に消すことは難しい。たくさんの所轄の鑑識員を騙し切るのは、困難です。子供たちの遺体はすぐに見つかるように投棄しているのに、なぜ尾上さんにはそんな手間をかけたのですか? 納得できる理屈が見つからないのですが――」

 篠原は、困りきったように頭を掻いた。

 その時、天井に据え付けられたスピーカーから管理官の声が割り込んだ。

 驚いた美幸の肩が、びくりと跳ね上がる。

『篠原君、今報告が届いた。東亜曙会の組長がバンコクで逮捕された。取り巻きの幹部たちも一緒だったそうだ。これで東亜曙会は完全に壊滅した。残る半グレどもも、所轄の手練れが処理している最中だ』

 美幸はわずかに――ほんのわずかに肩の力を落として、固く結んでいた唇を緩めた。

 その変化を、篠原は見逃さなかった。それこそが、篠原が求めた反応だったのだ。

 篠原は相変わらずの穏やかな口調で断言した。

「あなたは榊美幸ではありませんね」

 美幸は不意に顔を上げて口を開いた。

「何を言っているんですか⁉」

「嘘ついてはいけません。あなたは尾上紗栄子さんだ」

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