2・重要参考人
紗栄子は眠れなかった。
留置場に入れられてからすでに10時間以上が過ぎている。深夜3時頃に思える。
だが、眠気すら感じない。
気は張り詰めたままだ。
3畳の部屋は細長く狭く、ただでさえ圧迫感がある。単独室だったことはせめてもの救いだった。部屋の角に布団が畳んで重ねられているが、それを広げる気力もない。
薄暗がりの中、ただ畳の上に座り込んだきり動けないでいる。消灯してから数時間、じっとそのままだった。
たくさんの白い扉が並んだ留置場も、数時間前から静まり返っている。
だが、不意に鉄格子の外の廊下に灯りが灯った。
紗栄子は眩い光に目を細める。
誰かが近づく気配があった。複数の足音らしい。足音は紗栄子の部屋の前で止まり、扉が開いた。
入ってきたのは高山だった。紗栄子の姿を見て、つぶやく。
「ずっとそうしていたのか?」
紗栄子は高山を見つめる。
「眠れると思うんですか?」
「済まないことをした」
その返事は意外だった。かすかにだが、頭まで下げている。
明らかな謝罪だ。
紗栄子にとって留置は不快で異常な事態だが、高山が職務を遂行しただけだという程度の理解はある。謝る理由が分からない。
なにより、高山が被疑者に対して非を認める男だとも思えない。
「犯人じゃないって分かったんですか?」
そう言葉にはしたが、紗栄子自身が容疑が晴れたとは信じられない。
本当に児童の死体に紗栄子の髪が付着していたなら、その原因を容易に解明できるはずがないと覚悟を決めていたのだ。
だが高山の表情は、なぜかこわばっている。
「そうではないが……君に見て欲しいものがある。付いてきてもらう」
「はい? どこへ?」
「霊安室……死体安置室に同行していただきたい」
紗栄子は一瞬息を呑んだ。
「なぜ……?」そして気づく。「まだわたしが犯人だと⁉」
高山の顔色が一層曇っていく。
「そうじゃない。詳しいことは行ってからだ」
高山が紗栄子を非難しているわけではないことは感じられた。だが、暴力的とも思えた刑事が困惑を隠さない理由は思いつけない。
別の場所に連れて行かれるらしい。だが、行った先で何をされるかも分からない。
激しい不安が湧き上がる。
「……行くって、どこへ?」
「神田。こんな時間だ、すぐに着く」
「はい? なんでわたしが……? 何をしろと……?」
高山はため息と共にか細い声を絞り出した。
「別の仏さんが、また捨てられた」
✳︎
紗栄子が連れてこられたのは、寒々とした物置のような部屋だった。神田警察署の霊安室だ。
それが普通なのか、強い塩素の匂いが鼻を突く。
煌々と灯りがついている。ダークスーツ姿の男が、背中を向けて立っていた。その先に、金属製のテーブルに横たえられた全裸の女児がいた。
身体中に傷を負った女児は、明らかに息絶えている。
背後の気配に気づいた男が場所を開ける。
高山が紗栄子の背中を軽く押して、死体の前に進ませた。そしてドアを閉め、両手を合わせて黙祷した。
初めて見る男が言った。
「僕は篠原直之と言います。一連の事件を担当することになりました。あなたが尾上紗栄子さんですね」
紗栄子は篠原を見つめた。
若い男だった。背広が、リクルートスーツのように馴染んでいない。髪も長めで、しかも寝起きのままのように整っていない。まるでひ弱な、文学部の大学生を思わせた。
とうてい子供の死体の前に立つべき警察官には見えない。
なのに高山は、明らかに緊張感を漂わせている。
紗栄子は戸惑いながら言った。
「そうですけど……なんでわたしをこんな場所に?」
紗栄子は意識して死体から目をそらしていた。というより、直視することができないでいた。
その表情を、篠原はじっと観察している。そして背後の高山に問う。
「高山さん、お久しぶりです。事件の内容、尾上さんにどの程度お話ししました?」
高山は直立不動で応える。
「詳しくは何も。管理官がご説明くださると聞いていたもので」
篠原がかすかに笑みを漏らす。
「僕は管理官〝補佐〟に格下げです。こう続いて仏さんが出てきたんじゃ、僕程度には任せられないということらしいです」
「え? じゃあ管理官は誰に?」
「さあ、誰が貧乏くじを引かされるんでしょうね……。今、上は大騒ぎみたいです。初っ端から、意味不明な事件ですからね。しかも所轄を跨ぎましたので、帳場は本庁に立ちます」
高山はほっとしたように言った。
「俺はお役御免ですか」
「所轄からも人出は貸していただくことになるでしょう。高山さんもぜひ加わってください。地元の事情に詳しいベテランの知識は貴重ですから」
「それはそうですが……俺はここで何をすれば? よその縄張りなんで、手は出したくないんですけど」
「今は、その辺で聞いててくだされば結構。鑑識からの現状報告もお話ししますから」
「はい……」
高山は部屋の隅に移動した。
そして篠原は紗栄子に向き直った。
「このお子さんは、5時間ほど前に発見されました。犬の散歩に出ていたご老人が、外神田の宮本公園に投げ出されていたのを見つけたのです。顔に見覚えとかはありませんか?」
紗栄子はやはり目を伏せたまま、死体を直視できない。
「なぜわたしが……?」
「ちゃんと見てもらえませんか? もう血は流していませんから」
「だから、どうして……?」
篠原がため息をもらす。
「背中に何箇所か刃物で切り付けた深い傷があるんです。鞭で打ったような浅い傷は無数にあるんですがね。先日発見された死体と全く同じです。しかも、傷口の奥に誰かの髪の毛が付着しているのを鑑識が発見しました。先ほどDNA鑑定が終わったんですが……」
篠原は、なぜか口ごもって先を続けられない。
紗栄子は顔を上げた。
「え? どうしたんですか?」
篠原はまたため息をついた。
「鑑定の結果、あなたと全く同一のDNAだと判定されました」
紗栄子は思わず叫んだ。
「うそ!」
篠原が困ったようにうなずく。
「嘘だったらいいんですけどね」
「またわたしが犯人だっていうんですか⁉」
「そう言えないから困惑しているんです」
それもまた、紗栄子には意外な返事だった。
「どういうこと……?」
篠原は覚悟を決めたように話し始めた。
「検死は朝になって先生が来てからになりますが……このご遺体、発見時にはまだ死後硬直が始まっていなかったんです。つまり死んでから2時間も経っていなかったことになります。しかも髪が発見された傷は、息絶えてから付けられたようだと……。その頃あなたは留置場にいた。絶対に殺害できるはずがないわけでして……」
紗栄子も息を呑んだ。
「だったら検査が間違いなんじゃ……」
「再検査でも結果は変わりませんでした」
「どういうこと……?」
「それを知りたいんです。仏さんのお顔、見てくれませんか?」
紗栄子の唇がわずかに引きつる。死体に弾かれるように顔が壁を向いていく。呼吸も荒くなっていく。
「なんでわたしに……そんなこと……」
「お知り合いかどうかを確認しなければならないんです」
「だから、どうして……」
「少なくともあなたは、この子を殺した犯人ではないはずです。それなのに、2つの死体にあなたの髪の毛が付着していた。あなたのDNAが証拠として残されているんですから、その理由があるはずなんです。僕たちはそれを知らなくちゃならない」
「そんなこと言ったって……」
2人の様子を見ていた高山がどすの利いた声で言った。
「篠原さん、それじゃ甘いでしょう」
篠原は悠然と応える。
「尾上さんはまだ犯人だと決まったわけじゃありません。今はまた重要参考人に戻ったと考えてください。僕はこの不可解な現象の理由を知りたいんです」
言葉遣いは穏やかだったが、やんわりとした叱責にしか聞こえなかった。
高山は黙ってうつむいた。
紗栄子が息を整える。
「子供の知り合いなんて……いません……」
「ちゃんと見てもらえますか? 近所の子供だとか、知り合いのお母さんの子供だとか、見覚えがあるかもしれないので」
「だから……なんでわたしが……」
「今は重要参考人だからです。状況によっては、また被疑者に逆戻りするかもしれません。犯人ではないというなら、是非協力してください」
紗栄子はさらに何度も深呼吸した。血糊の匂いを感じたのか、顔をしかめる。
ゆっくりと死体に目を向けた。
小学校高学年程度の女児だった。髪型はボーイッシュな短髪で、顔は青あざで覆われている。明らかに虐待された跡だ。左肩には、大きく深そうな傷跡があった。
何より目を引くのは、全身が湿疹に覆われたように赤く爛れていたことだった。
自然と顔が横を向いていく。
「ひどい……なんでこんな姿に……」
「塩素系の漂白剤――それも高濃度のものを塗りたくられたようです。臭うでしょう?」
臭いの正体は死体だったのだ。
「なぜそんなことを……?」
「皮脂を分解するためでしょうね。証拠の隠滅だと考えていいと思います。死体を遺棄した犯人は自分のDNAとかが付着しているかもしれない――とでも考えたのでしょう。しかも、まだ息があるうちに。気管や食道にも漂白剤が入り込んでいました」
「息がある、って……」
「外側だけではありません。体内にも特徴的な痕跡がありました」
「なんですか、それ……」
「心臓の一部が切り取られています。肩の傷が深くて、心臓にまで届いているんです。鑑識がファイバースコープで確認しました。特殊な医療器具を使ったらしく、心臓の肉がかなり抉り取られていました。後頭部にも深い傷があって、脳の奥深くが切除されていました。鳥越神社で発見されたご遺体にも同じ傷がありました。心臓が抉られていたのは、このご遺体が初めてですけど」
「なんでそんなことを……?」
「おそらく心臓は肉を食べるため、脳は体内で生成される物質を抽出するためだと思います」
紗栄子は吐き気を抑えるかのように、両手で口を覆った。
「まさか……」
「さらに胃の中から、特殊な薬品が検出されました。現在特定中ですが、おそらく医療用のモルヒネのようなオピオイド系の鎮静剤だろうということです」
紗栄子の視線が篠原に向かう。
「はい……? なんでそんなことを……?」
「犯人の動機を解明するのは、これからです。ただ、海外には類似の事件も散見されます。いわゆる『悪魔崇拝者の儀式』というもので、それが最も近いでしょう」
「悪魔……って?」
「オカルトじみていて、現実感がありませんよね。でも、僕ら日本人には身近ではないというだけのことです。海外では悪魔崇拝が根強く残っていますし、近年では『エプスタイン島』で大規模な猟奇事件が起きています。そもそもこのご遺体の状況……それ自体が現実感を喪失しているんです。悪魔の仕業とでも考えないと、説明がつきません」
エプスタイン島は、カリブ海のヴァージン諸島にある島の俗称だ。大富豪だったジェフリー・エプスタインが個人で所有し、その中央に立てられた寺院風の建物では悪魔崇拝の儀式が行われていたといわれている。
拉致や誘拐、あるいは人身売買で得た幼児や若い男女などを虐待、強姦したというのが真相だとして語られている。
その儀式には政財界を牛耳る大物も招かれ、生贄の脳からアドレノクロムという物質を抽出し、若返りや精力増強の〝薬品〟として飲んだともいう。人肉を食べる行為も行われていたとも推定されている。寺院の周辺からは、拷問器具や子供たちの歯を抜き去るための器具までが発見されていた。
島との行き来はボーイング727をプライベートジェットとして使用し、社会的な地位が高い〝ゲスト〟と共に年間600時間も飛行したことが確認されている。そのジェットは『ロリータ・エクスプレス』とも呼ばれた。彼らは悪魔崇拝という背徳的な〝信仰〟と〝共犯意識〟によって強く結びつき、国家や経済界を牛耳っていたのだといわれている。
エプスタイン自身は買春容疑で収監され、不審な獄中死を遂げた。当然、口封じで殺されたという噂が後を絶たない。
それが世界を震撼させた事件の概要で、悪魔崇拝が現代にも生き続けている証左でもあった。
高山がぽつりと言った。
「エプスタイン、ですか……。篠原さんは超理系だっていわれてるのに……」
篠原は真剣だ。
「悪魔崇拝は、確かにオカルトですよね。でも数学や物理を極めるような天才って、結構そっちに引っ張られるものなんです。哲学とか宗教とか、一見理工系と対立するような考え方にいつの間にか溺れてしまいます。そうでない人は、この世の深淵を咀嚼できずに狂ったりもします」
「狂う、って……」
「比喩じゃありません。例えば数学者は、謎を解いた時にとてつもない快感を得られます。それは、解けなければ底しれない欠乏感を味わうことも意味します。真理に辿り着けないという絶望は、時に心を破壊してしまうのです。だから、真理に近づける力を持った者ほど壊れやすいんです。正直に言うと、僕は狂っていく同僚たちを見て怯えました。あれって、まるで甘美な麻薬で我を忘れるような境地ですから。幸せを追いながら朽ちていくか、快感を諦めて長生きするか……選択を迫られたわけです。人間って本当に面白いですよね」
紗栄子には篠原の唐突な言葉が理解できない。思わずつぶやいた。
「だけど、オカルトなんて……」
「この仏さんがそうだとは断定できません。ただ、1体目の仏さんにも同様の痕跡がありました。連続殺人だと断定された理由です」
「ひどい……」
篠原は穏やかに問う。
「顔、見覚えはありませんか?」
「ありません……」
「もっとよく見て」
「ありませんってば!」
紗栄子は大きく顔を背けた。
篠原は小さなため息を漏らした。
「そうですか……。しかし、あなたのDNAが検出されたことは間違いないんです。傷口の奥から発見された髪の毛と照合した結果です。それはなぜでしょう?」そして、急に語気を強める。「尾上さん、何か企んでいませんか?」
紗栄子は意外そうに篠原を見つめた。
「企むって……?」
「何かしらの犯罪計画です。殺人を実行する共犯者がいるんじゃないんですか? 捜査を撹乱するために、あえて髪を死体に残させたんじゃありませんか?」
「そんなことしてません!」
と、紗栄子は背後の気配に気づいた。
いつの間にか高山が移動して、戸口を塞いでいた。逃亡を封じる体勢だ。
篠原は不意に話を変えた。
「尾上さん、決まった職業は持っていないそうですね」
「それが何か⁉」
「その割には高価そうな賃貸マンションに住んでいらっしゃるので、どうしてかなと思いましてね」
「そんなことまで調べたんですか⁉」
「仕事ですから。疑問を一つ一つ消していくことが僕の役目なんです。収入と不釣り合いな住居は、疑問の最たるものです」
「定職はなくても、アルバイトはいくつかしています」
紗栄子の背後で高山がつぶやく。
「たかがアルバイトで……」
紗栄子は振り返った。
「人殺しなんかしてません!」
「あんたが言ったバイトは調べた。どれも不定期で、パンデミック以降は回数もめっきり減っている。そもそも三流の水商売ばかりで、どれも大した金額にはならん。パパがいるんだろう?」
紗栄子はあからさまに不快な表情を見せる。
篠原は高山を見た。
「決めつけてはいけません。確かに尾上さんは美人ですから、支援者がいてもおかしくはないと思いますがね」
それでも高山は納得しない。
「誰に養ってもらってるのか教えてもらえないかね?」
紗栄子は唇を噛み締めて、答えなかった。
篠原が肩をすくめる。
「支援者を守らなければ罰を受ける――ということでしょうか? まあ、参考人に証言を強要することはできませんから、仕方ありません。あなたが共犯ではない可能性も認めましょう。しかしその支援者が、犯罪にあなたを利用しているという可能性は残りますよ?」
「わたしは犯罪はしていません。支援者なんかもいません」
篠原がじっと紗栄子の目を見つめながら、うなずく。
「今のところは、そういうことにしておきましょう。だとしたら、なぜ同じDNAが発見されたのでしょうか? 尾上さん、もしかしたら一卵性の双子さんがいますか?」
「そんなものは――」
紗栄子はいきなり息を呑んで、言葉を切った。
篠原が眉をひそめる。
「どうしました? いるんですか⁉」
「そうじゃなくて……実は、分からないんです……」
「はい? どういうことですか?」
「いない……とは思うんですけど……」
と、いきなりドアが開いた。若い制服警官が飛び込んでくる。
「よかった、管理官はここにいたんですね! 電話したんですよ!」
篠原がほほえむ。
「考え事をするときは、電源切ってるんです」
「連絡つくようにしていてくださいよ……」
「すみませんね。それから、管理官は交代です。僕は現場を手伝うことになりました」
高山が振り返る。
「蔵前署の高山だ」
「ああ、あなたが高山さんですか。事件資料、ありがとうございました」
「それより、慌ててどうした?」
「あ、防犯カメラ映像、ようやく見つかりました!」
篠原がわずかに安堵の色をにじませる。
「ありましたか」
逆に紗栄子を見た警官の表情が、困惑を増す。
「近所のマンションのカメラの隅の方に、映ってはいたんですが……」
「どうしたんですか?」
「蔵前署から回してもらった映像と同じワゴン車が写っていました。同じ服を着た女も、チラッと確認できました……」そして視線が紗栄子に止まる。「その方にそっくりの女です」
✳︎
紗栄子は篠原とともに、いったん蔵前署へ戻った。本庁での方針が固まるまでは、最初の死体が発見された蔵前署を捜査の中心に置くことに決まっていたのだ。
高山は所轄間の擦り合わせのために、しばらく神田署に残ることになった。捜査データなどの交換を終えた高山は、刑事たちに囲まれて篠原についてしつこく聞かれた後だった。
近隣の所轄を渡り歩いて来た高山はどこに行ってもすぐに馴染み、警戒心を起こさせない性格だった。だが高山への質問は、篠原の警視庁内での〝派閥〟や〝政治的立ち位置〟に関わることばかりだった。現場で右往左往させられる刑事たちにとって、上司の人間関係は大きな関心事でもあったのだ。
さほどの知識を持ち合わせていなかった高山は、間もなく解放された。
蔵前署へ戻ろうとした時に、篠原を探しにきた警官がお茶を出しながら尋ねた。
「篠原さんって、どんな人なんですか?」
新人らしい警官の興味は、篠原本人にあるようだった。
それなら、高山にも語れることはある。
「正真正銘の変わり者、だな」
「お付き合い、長いんですか?」
「長いというか……久々に顔を合わせた。あの人は駆け出しの頃に所轄でも研修していたんだ。とはいっても、お互いに顔を覚えているって程度だがな」
「ずば抜けて優秀だっていう噂……本当ですか?」
高山はそんな質問を何度も受けたことがある。答えもこなれている。
「見方によるが、優秀であることは間違いない。なにせ高校時代は偏差値100っていうとんでもない化け物だ。理科3類試験で全国1位、それでも医学部には行かずに理論物理学に進んだそうだ。仲間の付き合いで受けた公務員上級試験でトップを取ったのに、全省庁からの引き抜きを蹴ったという。だが何年かしてから〝面白そうな仕事〟を求めて警察を志望したんだとさ」
「はい? 理3って、医学部って決まってるんじゃないんですか?」
「決まりはないそうだ。しかも、血を見るのが嫌だからって言ってた」
「でも、理論物理学って……」
「俺も、なんで警察なんかに来たのか直接聞いたことがある。ここだって、血を見ることは多いのにな。理論そのものより、理論を追求した果てに追い込まれて狂っていく学生に関心を持ったそうだ。それからは量子の研究よりも脳の機能に関心が移って、人間の感情を解き明かすフィールドワークのつもりで警察を目指した……とか言ってた。犯罪者の心理を分析したくなったんだとさ。ついさっきも、意味深なことを言っていた。理屈を突き詰めるとオカルトに走るそうだ。実際は自分が狂うのが怖くて理系から離れたみたいだな」
「なんすか、それ……。やっぱり天才って、何考えてるか分かんないっすね」
高山は茶をすすった。
「俺ら下積みとはモノが違うからな。それでも、とっつきにくい人じゃない。俺みたいな下っ端にでも、本心を明かしてくれる。警察なんて場違いな職を選ぶには、相当な葛藤があったはずなんだがね」
「それでもやっぱ、近づき難いですよ」
「変人だが、嫌なヤツじゃない。噂ばかりが先走ってるが、普通の警官らしいこともこなせるそうだ。実際、体力はあるし運動神経もいい。学生時代は頭がいい分、時間を持て余してスポーツばかりしていたというしな。サッカーもインターハイレベルだったそうで、団体行動にも柔軟に対応できる。柔道も逮捕術も並以上だし、現場で足手まといになったっていう話は聞いたことがない。やたら記憶力がいいし、暇さえあれば過去の事件の資料を読んでいるらしい。1回で全部頭に入って、しかも忘れないって聞いた」
「それ……本物の化け物じゃないですか」
「しかも、本庁に戻ってからは難事件をいくつも片付けているらしい。最近じゃ『不可解な事件は篠原に押し付けとけ』ってのが合言葉になっているそうだ」
「そんな人、この世にいるんですね……あ、だからこの事件を担当することに?」
高山の表情が曇る。
「なのに、補佐に回されたって言ってたよな。なんでだろうな。俺としては帳場を仕切って欲しいんだが……お偉方の手柄欲しさで現場を掻き回されちゃたまらんよ」
「でも、なんか怖い感じの人でしたね……」
「先入観があったからだろう。所詮、噂だからな。篠原さんは規則破りの問題児だとかいう奴もいるが、はなっから古臭い警察のやり方に関心がないからだろう。誰だって自分の流儀を否定されたら面白くない。その上成果まで上げられたんじゃ、たまらんだろう。つまり、実力は本物だってことだ。問題解決能力は飛び抜けてている。犯罪が進化するなら、刑事だって進化なしなくちゃならない。警視庁の未来の切り札だって断言するお偉方も多いようだぞ。いずれは大臣クラスに登っていくのかもしれんな」
篠原はそれほど注目されている存在だったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます