【理系警視1】 わたしと同じ、誰か。
岡 辰郎
第1章・児童連続死体遺棄
1・被疑者
尾上紗栄子は、狭い取調室のパイプ椅子から腰を浮かせて叫んだ。
「何度言ったら分かるんですか⁉ わたしはどこにも行ってません! ずっと家にいたんだから!」
ドアの横で記録を取る若い制服警官が、語気の強さに肩をすくめる。
部屋の奥に座らされた紗栄子には、警官の怯えたような表情がはっきり見えていた。
室内の空気が張り詰める。
格子がはめられた窓から入る春の西日も、紗栄子の背中には届かない。
だが机を挟んで対面する中年の刑事は、目を伏せたまま動かなかった。高山と名乗ったその刑事は、うんざりしたようにつぶやいた。
「だいたいそう言うんだよ、犯人は――」
「やめてください! 犯人だなんて!」
高山は顔を上げて紗栄子をにらんだ。
「ことは死体遺棄だ。捜査次第で殺人に切り替わるかもしれん。若いお嬢さん相手にこんなことは言いたくないが、あまり粘るのも考えものだよ。印象が悪くなるだけだから」
紗栄子は、初めて自分にかけられた〝容疑〟を知らされた。
「死体遺棄って……」
ドア横の警官が、目を丸くして高山を見つめている。
紗栄子もそれに気づいた。
外出から帰った紗栄子をマンションで待ち構えていた交番警官は、『参考人としてお話を聞きたいので、ご同行いただけないでしょうか?』と言った。
それは、おそらく嘘だ。
紗栄子は押し問答の末に了解したが、行き先は交番ではなかった。パトカーに押し込められて連れてこられたのは、蔵前警察署の取調室だった。
最初から〝犯人〟として捕えられたことは疑いようがない。
若い警官は、高山がいきなり建前をかなぐり捨てたことに驚いたようだ。警察の規定に反することなのかもしれない、とも思える。
だが、高山には何らかの計算がある様子だ。ゆっくりと話し始める。
「鳥越神社の近くでね、子供の死体が捨てられてたんだ。小学校の高学年ぐらいの女の子かな。素っ裸でね……しかも全身傷だらけだった。死後、数日は経っていたようだ。どこに置かれていたのか……内蔵は腐れ始めていたよ」
若い刑事がたまりかねたように叫ぶ。
「そんなこと喋ったら――」
高山は振り返った。穏やかに応える。
「いいんだ、この程度なら。どうせ俺の責任になるだけだしな。〝うっかりのタカ〟で通ってるんだから、笑われるだけだ」
「でも、自分だっているんだし――」
「ちょっとだけでいいから、見ないフリしててくれや」
「そんな――」
高山が唐突に声を荒げる。
「お前も仏さんを見ただろうが! 俺の娘にだってあんな頃があったんだ! 何がなんでも犯人は挙げる!」
「そりゃそうですけど……」
「お前が黙ってりゃ、これぐらいの違反は誰も咎めん。どうせ事件はすぐ公表されるだろうからな」
若造は黙っていろ――という、高圧的な〝命令〟だ。そして再び紗栄子に対面する。
紗栄子はその眼光に気圧された。
「なんなんですか、それ……」
高山は紗栄子の表情に、怯えを見出したようだ。
「怖いかい、お嬢さん? 美人が台無しだよ」
紗栄子は不意に怒りを剥き出す。
「怖いに決まってるじゃないですか! いきなり人殺しだなんて!」
「俺も怖いよ。何度見たって、仏さんには慣れない。しかも、尋常な姿じゃなかった。あんなことができる人間ってやつが、怖くてたまらない。並の神経じゃ、あんなひどい殺し方はできやしない……」
紗栄子は声を絞り出す。
「だからって、犯人扱いだなんて……」
「証拠はある。少なくとも、これぐらいの詰問を正当化するぐらいの確証はある」
「証拠って、なんですか……? 神社なんかに行ってないって言ってるじゃないですか……」
「証拠はあるが、まだ言えない」
「そんな! 一方的すぎます!」
高山は一呼吸おいてから、つぶやいた。
「知りたいか?」
「もちろんです! 不当な言いがかりだって、証明します!」
「だったら、髪の毛を1本提出してほしい」
「はい?」
「仏さんの口の中に、他人の毛髪が付着していた。今、DNA鑑定を進めているところだ。お嬢さんの毛髪と照合したい」
「それ……なんかの脅迫ですか⁉ 勝手に犯人だと決めつけて……警察がそんなことしていいんですか⁉ それに、お嬢さんはやめてください! もう25歳なんですよ。馬鹿にしてるんですか⁉」
高山は鼻で笑った。
「それはすまなかった。定年間近のジジイにとっちゃ、20歳も30歳も〝お嬢さん〟なものでね。だが、髪の毛は必要だ。今はまだ強制ができないから、こうしてお願いしている。腹は立つがね」
「わたしだって怒ります!」
「君はあくまで重要参考人だ。だが、犯罪に加担していると疑う正当な理由がある。このままだと近いうちに被疑者に切り替わる。そうなれば、検体の採取も強制的に行える。弁護士を呼んでも構わんが、状況は変えられない」
「ひぎしゃ……?」
「犯罪を犯したと疑われる者、世間では容疑者ともいう」
「容疑者って……」
「この場で検体を提出してくれれば、すぐに容疑は晴れるかもしれない。君が本当のことを話しているなら、だがね。『1人暮らしのマンションから出ていなかった』なんていう不確かなアリバイを確認するには、もっと時間がかかるだろう。その間は、この部屋で過ごしてもらうことになるかもしれない。そもそも無関係なら、鑑定を恐れる必要はないはずだろう?」
紗栄子もうなずく。
「いいですよ。その代わり、どんな証拠があるのか教えてもらえるんですよね」
「それは約束する。ただし、最低でも鑑定が終わるまではここにいていただく」
紗栄子はいきなりショートボブの髪に手櫛を差し入れた。軽く握った腕を抜くと、数本の髪が指に絡んでいる。
高山が振り返って言った。
「この髪、鑑識へ」
若い警官が机から小さなビニール袋を取り出し、紗栄子の横に来る。その表情からは、不安が拭い去られていない。
紗栄子の目には、高山の強引さに怯えているようにしか見えなかった。
警官は無言のまま、白い手袋をはめて髪を受け取る。それを袋に入れて部屋を出ていった。
紗栄子は言った。
「時間、どれぐらいかかるんですか?」
「まずはスピード重視の簡易鑑定だ。同一かどうかを確定するには、通常なら最低でも5、6時間はかかる。だが、容疑者の髪と別物かどうかの判断だけなら数10分で可能らしい」
「そんなに早く⁉」
「君が無関係なら、の話だ」
「もちろん関係ありません! で、証拠ってなんなんですか⁉」
高山はわずかに間を置いてから、穏やかに話し始めた。
「防犯カメラ映像だ。死体遺棄現場にカメラはなかったが、近くのビルの駐車場のカメラの端っこに黒いワゴン車の映像が写っていた。ナンバーは泥で隠されていたがね。ワゴン車は真夜中に神社の裏手に一瞬だけ停まって、死体を投棄していった。その際に女の姿が映った。女はパーカーのフードをかぶっていたが、顔がチラリと見えた。それを交番に回した。君にそっくりだという報告が上がってきたんだ」
「誰がそんなことを言ったの⁉」
「それは問題ではない。中国と違って住民の顔のほとんどはデータ化されていないが、中には記憶力のいい警官もいるんだよ。捜査線上に容疑者が上がれば、当然確認する。君の顔写真を画像分析した結果、AIが80パーセント以上同一人物だと判定した」
「80パーセント……100パーセントじゃないんですよね⁉」
「防犯カメラの画像は、鮮明だとはいえなかったからな」
「それなのに犯人扱いって⁉」
「重要参考人、だ。だから、検体の提出をお願いした」
「でも……他人の空似ってことだって!」
「だから、さっきの髪でそれを確認する。別物だと確認されれば即解放だ。しかし類似性が認められれば本鑑定に移ることになる」
「真夜中って、何時のことですか⁉」
「深夜2時近くだ」
「そんな遅く……とっくに寝てました!」
「それは何度も聞いた」
「だったら!」
「証明できなければ意味はない」
「だから、外にも出てないんですって! 見た目が似てるってだけじゃないですか!」
「今はそれで充分な手がかりだ」
「アリバイだって捜査してください! マンションにだって、お隣さんはいるんだし。そうだ、廊下とかにも防犯カメラがあるはず!」
「むろん、裏付け捜査はしている。だが、眠ってたんだろう? 1人暮らしなら証明は難しい。それとも、横に男でもいたのか?」
「それは……」
「たとえいたとしても、君の男の証言じゃ証拠にならない」
紗栄子は爆発しそうになった怒りを堪えた様子で、つぶやく。
「この世には同じ姿の人間が3人いるっていうし……」
高山はまた鼻を鳴らした。
「ふん……ドッペルゲンガー、とかか? ……そういう戯言で誤魔化そうとするやつ、最近多いんだ。今の若いもんは、アニメを見過ぎなんだよ」
「でも、わたしはそんなことしてません!」
高山は無表情に戻って言った。
「だったらそうムキになるな。DNA鑑定が終わればすぐ解放できるかもしれないんだから」
そこに、髪を持って出ていった警官が戻る。高山の耳元でささやいた。
「鑑識からです」
そして2枚の紙を差し出した。鑑定結果だ。
高山の表情が曇った。
「早すぎないか?」
文書の内容を見た瞬間、高山の呼吸が止まった。しばらく間を置いてから、紗栄子を見つめる。
「これで君を解放できなくなった」
紗栄子が驚きの声をあげる。
「どうして⁉」
「君の部屋から採取した髪の毛が、仏さんに付着していたものと一致した」
紗栄子が戸惑う。
「わたしの部屋? ……って、いつ入ったんですか⁉」
「マスターキーを持った管理人に同行してもらった。ガサ状――いや、捜索差押許可状を取った上での正式な捜査だ」
「いつ……?」
「今日の昼頃、君が外出している間だ」
「何時間も前に……?」
「だからこの検査結果は、正式な本鑑定だ。DNAが完全に一致した」
「じゃあ、さっき渡した髪の毛はなんのために?」
「最終確認だよ。あれも一致すれば君の容疑は確定だ。すでに被疑者だがな」
「そんな! 勝手に部屋まで押し入って⁉」
「だからそれは、正当な捜査だ。もう言い逃れはできない。弁護士に知り合いはいるか? 国選弁護人を呼ぶ権利はあるが?」
そして高山はもう1枚の紙を突き出した。
逮捕状だった。
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