襲われる

「きゃああ!」


 教室にかのんの悲鳴がこだました。校長がかのんの胸ぐらを掴んでいる。豹変した校長を押しのけようと必死に抵抗するかのんだったが、体格差が大きくてどうすることも出来ないでいた。

 美里が校長に向かって叫ぶ。


「校長! やめてください!」

 

 しかし、美里がどんなに呼びかけても校長はかのんを離してはくれなかった。

 美里はわけがわからなかった。なぜ、先ほどから二人は自分を無視するのか。校長にもかのんにも自分の声がまったく届いていないようだった。

 かのんの顔が次第に青く、苦痛に満ちた表情に変わっていく。


「かのんさんを離して!」


 だが、美里の手は校長の体をすり抜けてしまう。


「なぜ触れないの!?」


 また美里の心にあの不安感と恐怖が湧き上がってきた。美里の呼吸が荒くなる。次第に美里の体に表れ始める傷あと。首元の手形。美里の頭からはタラリと血が垂れ始めていた。

 美里は思わず自分の首に手をやった。なんだろう? この掻きむしりたくなるような感触は。苦しい……!



 目を血走らせた校長がかのんにのしかかっていた。苦しそうなかのんと目が合った。


「かのんさん!」

「助けて……、先生……。」

「今さら生徒ヅラするんじゃない!」

「先生……。」

「言え! 何を知っている!?」


 美里は再び校長をかのんから引き剥がそうと手を伸ばしたが、やはり美里の手は校長の体をすり抜けてしまった。


「どうして触れないの! かのんさんを助けられない!」


 校長を掴もうとして美里はバランスを崩し、教室の床に倒れ込んだ。床に落ちていた新聞の切り抜きが美里の目に入った。


「……女性教諭の殺人事件……被害者は……須山美里……? 衣服に乱れた跡はなく、犯人の手がかり無し……。これは……!?」


 その記事を読んだ美里の脳裏に突如としてフラッシュバックする記憶があった。

 机や棚が散乱した保健室。後頭部から流れる血。倒れた校長……。ふらふらと保健室を出て、そして……。


「私……、首を絞められた……。」


 美里の髪の色に急激な変化が現れていた。美里は目を大きく見開き、一点を見つめている。


「そうよ……。私は校長にやめてほしいと言っただけなのに……。生徒からの相談……告発……。私は穏便に済ませようと……。それがよくなかったんだわ……。校長は私にツラく当たるようになって……。そしてあの日……。」

「先生……待って……。ダメ……やめて……。」


 美里の体は大きく変容していった。大粒の涙を流すその瞳は紅く光り、その頭にはツノが生え始めていた。爪が伸び、口には牙が伸びる。


「誰が……私を殺したの! あの日、私は警察に相談しようとした! 校長が保健室に入ってきて私を止めようと! 私は校長に押されて頭を打った! 気付くと校長が倒れていて……! 助けを求めようと外に出たら後ろから! 首を絞められた! 私はあの時死んだ! 殺された!」


 美里の涙は赤い血に変わり、美里は声にならない声を発した。

 今や悪霊に堕ちつつある美里の悲しい咆哮が教室の窓ガラスを震わせる。


「ダメ……、先生……!」

「な、なんだ!?」


 美里を見ることができない校長にも教室に起きた異変は感じられたらしい。

 教室の灯りがプツッと切れた。教室が再び闇に包まれる。


「美里先生……、それ以上はダメ……!」

「……なんだと?」


 次の瞬間、校長の体がヒュッと宙に舞った。続いてガシャガシャンという音と共に、校長は教室の机の中に突っ込んだ。

 鬼と化した美里のするどい爪が、恰幅のいい校長の体を軽く放り投げたのだ。校長は痛みで動けず「うぅ」と呻いている。


「先生! ダメ! 殺さないで! 戻れなくなっちゃう! 悪霊になっちゃう!」


 変わり果てた美里が校長に近づき、爪を振り上げようとしていた。

 かのんは後ろから美里にすがりついて叫んだ。しかし、今の美里にかのんの言葉がどれだけ届くのだろうか。


「先生! お願い! 元に戻って! 鬼にならないで!」


 鬼化した美里にもかのんの言葉は届いていた。美里はまだ完全に悪霊になってしまったわけではなかった。しかし、美里はどうしても悲しみの洪水を止められなかった。自分が死んでいた事実も受け入れられないし、自分の姿が鬼のように変わってしまったこともつらいし、目の前には自分を殺した校長がいる。

 このまま校長に恨みをすべてぶつけてしまえばどれだけ楽になるだろうか。


「私は先生に感謝してるの!」


 かのんの声はとても遠い場所から辛うじて聞こえているように感じられていた。だが、今の言葉は美里の耳にハッキリと聞こえた。


「私は先生に助けてもらった! 私、死んでないの! 先生のおかげで息を吹き返したの! 先生は憶えてなかったけど……。」

「……かのんさん……?」


 美里の心に光が差した。自分はかのんを助けられた?


「思い出してよ、先生! 他のことは忘れていいから! 私を思い出してよ!」


 かのんの体温を背中に感じる。生きている人間の温かさ。

 いつか見たかのんの笑った顔が心に開いた穴の向こうに見えた。

 どうして忘れていたのだろうか?

 熱中症で倒れたかのんに必死で心臓マッサージをして救急車に引き渡したあの日。かのんは一命を取り留めたのだ。後日、退院したかのんからお礼を言われたはずなのに。

 保健室通いをしていた子供の頃、保健室の先生に憧れて先生になったのは自分だった。それをかのんに話したことがあった。

 貧血で倒れて保健室で寝ていたかのんにチョコレートを渡して「内緒ね」と笑ったのも自分だ。

 引っ込み思案だったかのんに「勇気を出して」と言ったのも自分だ。かのんは美里との思い出を語っていたのだ。

 なのに自分はひとつも思い出せなかった。いくら聞かされても自分のことだと認識できていなかった。


「ごめんなさい、かのんさん……。」

「先生……。」


 美里の体から力が抜ける。心が光で満たされていた。美里の鬼化が戻っていく。ツノが消え、爪も牙も元に戻った。


「先生、よかった。元に戻って。」

「かのんさん、私、全部思い出したわ。チョコレートのこともあの言葉も全部私だった。」

「……そうだよ。でも、ここで私が見つけた先生は何も憶えてなかった。それどころか昔のことを思い出そうとすると苦しんで……。だから手探りだったの。どうやったら先生を取り戻せるかって。」

「ふふふ……それにしたって回りくどかったわね。」

「えへへ。ごめんなさい、先生。」


 美里はかのんの頬をそっと撫でてかのんの涙を拭った。温かかった。かのんは生きている。生きて成長した姿で自分の目の前にいる。自分が生かしたのだ。一人の少女の未来を救っていたのだ。美里は誇らしい気持ちになっていた。



「うぅ……。」


 倒れた机の下で校長が小さな声を発した。校長は気を失っているようだった。


「どうしよう。校長先生のこと。警察に言わなきゃ……。」

「そうね……。」

「ビックリした。まさか校長先生が美里先生を殺した犯人だなんて。」

「……。」


 冷静になってみると本当に校長が自分の首を絞めたのかどうか、美里には確信がなかった。確かにあの場にいたのは校長だけだったが、美里が最後に見た校長は今と同じように倒れて気を失っていたのだ。


「本当に校長が私を殺したのかしら……?」

「何言ってるの? 先生? 校長先生は私も殺そうとしたんだよ?」

「でも……。」


 もう少しで何か思い出せそうだった。あの時、美里の身に何が起こったのか。

 美里は自分の肩を抱きさすった。自然にそう行動したのは美里が寒さを感じていたからだ。

 吐いた息が白くなる。


「……冷気が来ている! 大悪霊が近づいてる!」


 かのんがそう叫んだ。


「大悪霊……!」

「覚悟を決めなきゃ……。」

「そんな……。」


 かのんは周囲を見渡した。目に入るのは教室に散らかった机と椅子。校長に襲われて散らばったカバンの中身。かのんはどこにいったかわからない美里の武器を探した。一番近いのは教壇の上に置いたはずの銃だったが……。

 その時、美里が声を上げた。


「あぁ! あれは!?」


 美里の声の先をかのんは目で追った。そこにあったのは教室の窓いっぱいを占める大きくて不気味な目玉だった。


「ああ……大悪霊に見つかっちゃった……。」

「あれが大悪霊なの……?」


 外から冷気が教室に吹き込んでくる。倒れた校長の回りに白い霜が積もり始めていた。

 美里とかのんが震えているのは寒さのせいだけではない。大悪霊に睨まれた時、二人の心は恐怖で支配されていた。だが、その恐怖の中で美里は感じていた。


「この目は……前に見たことがある……。」


 教室のドアが開いて、大悪霊の黒い無数の足が入り込んできた。続いて黒い無数の手が教室の壁にも天井にも、あちらこちらに手形を付ける。

 あっという間に大悪霊は教室の一角を真っ黒に染めあげてしまった。その間も大悪霊の目玉はかのんと美里を見据えている。その黒い闇の中心には倒れた校長がいた。


「校長先生……?」


 大悪霊の体の一部が黒い霧になって校長の体内に入っていくのが美里には見えた。


「私……見たことあるわ……。あの目……この黒い手を……。」

「まさか、先生。」


 美里は自分の首に手をやる。だが、その首にはもう二度とあの手形は浮き出てこなかった。今の美里は自分の死を乗り越えていた。

 かのんは真剣な面持ちで美里に言った。


「先生を殺したのは大悪霊なのね?」

「うん。そうだと思う。」

「そういうことか。先生の遺体からは犯人に繋がる物証が何も出なかったらしいの。犯人が悪霊なら何も残らなくて当然……。でも、それじゃ校長先生はなんでこんなに美里先生の事件にこだわったの?」


 かのんは校長に目をやった。気を失った校長は大悪霊の渦に飲まれつつある。


「わかった。初めから校長先生は大悪霊に取り憑かれていたんだ。」

「え?」

「校長先生と大悪霊。繋がってたから大悪霊の犯した殺人を自分の記憶のようにずっと抱え込んでいたんだ。だから、美里先生もずっとこの学校で大悪霊に縛られて……。」

「嘘……。」


 意識の無い校長の体が大悪霊に取り込まれて闇の奥に消えていく。大悪霊の準備は整ったようだった。ぞわぞわと大悪霊の黒い手足がうごめいた。


「もう、やるしかないよ! 先生!」

「やるって言っても……。」

「先生は大悪霊を倒さないと自由にならないの! また今日のことも忘れちゃう!」

「忘れるなんて……! それは嫌……!」


 ならば戦うしかない。美里は大悪霊から逃げないと誓った。自分のことを忘れるのも、かのんのことを忘れるのも死ぬよりもつらいことだった。美里は覚悟を決めた。



「銃を取って! 教壇の上!」


 美里はかのんに言われて教壇を見た。

 しかし、教壇の上に美里が悪霊退治に使っていたあの銃は見当たらない。あるのは折り紙で作られた銃のような形の……。


「これって……?」

「それだよ! それを持ってイメージして! 今までの武器は全部、先生のイメージが作ってたの! もっと強い武器をイメージして! そうすればきっと大悪霊を倒せる!」

「イメージ!?」


 美里は目を閉じ、折り紙の銃を握って願いを込めた。強い銃……大きな銃……大悪霊を倒せるような……。


「はっ!」


 美里の手にずっしりとした重さが実現され、美里は目を開けた。

 手の中にあったのは四十五口径オートマチック。


「こんなの撃てるの!?」

「撃てる。先生が作った武器なんだから撃てないはずがない! 構えて!」


 美里はかのんの言葉を信じて新しい銃を構えた。黒く光る銃を両手で持ち大悪霊に狙いを定める。

 大悪霊の影から黒い手が伸びて美里とかのんに迫ってきていた。

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