理科室とその先

 すっかりお馴染みになった夜の校庭、桜の木の下。白い外灯の光を反射してヒラヒラと輝く花びら。

 そういえば、いつまでこの桜は咲き続けるのだろう?


「お待たせ。先生。」


 かのんは上機嫌で美里に声をかけた。

 気付くと自然と足が桜の木に向いていた。かのんが現れるずっと前から美里は桜の木の下で独り立って待っていたのだ。


「はい。じゃあ今日もよろしく。」


 かのんが美里にいつもの紙袋を手渡した。ずっしりと重い。袋の中に黒い銃身が覗く。


「昨日も言ったけど、今日は三階の理科室ね。ルートも昨日と同じ。」


 軽やかに前を歩くかのんの後を、美里は黙ってついていった。

 何事もなかったように静まりかえる職員室。焦げ痕ひとつ残っていない全焼したはずの図書室。それらを通り過ぎて、三階への階段を上る。


「理科室か。そうだ、先生。こんな話を知ってる? クラスにうまく馴染めない生徒がいたんだって。その子はクラスに登校する代わりに、理科室に登校してたの。理科の先生が親身になってくれてその子はまたクラスに戻れた。それがきっかけでその子は理科の先生を目指そうと思ったんだって。」

「……え?」

「理科の先生が話してくれたの。」


 かのんが階段の踊り場で振り向いてジッと美里の目を見てそう言った。時折、かのんは美里にそういう目を向ける。美里の心に穴を空けて、美里の心の奥まで見透かさんとする強い視線。美里はたまらず目を背けた。


「さあ、聞いたことない……。」

「そっか……。」


 かのんはつまらなそうに美里から視線を逸らすとその後は無言で理科室まで歩き、無遠慮に理科室のドアを開けた。


「先生。武器は持った?」

「……持ったわ。」


 美里は紙袋から銃を取り出していつでも撃てる体勢を作った。


「どこに悪霊がいるかわかる?」


 かのんに問われて美里は理科室の中を見渡した。机の下には何もいない。厚いカーテンにも何も隠れてはいなそうだ。棚の中にはビーカーが並んでいる。その横には人体模型……。


「……これ?」

「当タリダァー!!」


 美里が人体模型を指した瞬間、人体模型は美里の方を向いて叫び、襲いかかってきた。


「きゃああ!!」

 

 美里は咄嗟に銃を構えて人体模型に向けて発射する。バン、バンと美里が撃った弾は二発とも見事に人体模型の頭を撃ち抜いていた。ヘッドショットを食らった人体模型は見るも無惨に理科室の床に転がった。


「すごい、先生! 慣れてきたみたいね!」

「こ、これで終わり?」

「うん。理科室はね。ふふふ。今日はまだ時間があるし、もう少し先まで行ってみようか。」

「え?」

「次は四階、音楽室。」

「四階……。」


 四階はこの学校の校舎の一番上の階だった。順番に上がってきての最上階だ。まさかそこでゴールなのでは?


「音楽室は今の先生なら楽勝だよ。」


 いや、かのんの態度からは到底、次が最後だとは思えなかった。この悪霊退治をいつまで続ければいいのか……。

 四階に続く階段は三階の中央にある。三階の廊下を歩いて上りの階段が見え始めたと思った時、かのんが「待って」と言って美里を止めた。


「何か来る。隠れて。」


 かのんは急いで横の教室に美里を押し込めるように入ると、しゃがみ込んで身を隠し、じっと息をひそめた。

 大きな影が教室の窓を覆い、そして通りすぎていった。それがただ者ではないことは美里にもわかった。その影が遠く離れた今でもまだ震えが止まらない。


「あれは大悪霊……。どうして?」

「大悪霊って……?」

「うん。この学校の悪霊たちを操っているボスだよ。」

「それじゃ……?」

「そう。私たちはあれに勝たなくてはいけないの。」

「そんな……。」

「あっ、先生! その足の怪我はどうしたの!?」

「怪我?」


 美里はかのんに言われて初めて自分の左足から出血していることに気付いた。履いていたストッキングに穴が空き、そこから血が滲み出している。血は美里が来ていた白衣にも付着してしまっていた。

 その傷はまるでどこかで転んだような……。なんだろう? 思い出してはいけない……。何が大事なことを忘れているような……。


「大丈夫!? 先生!?」


 かのんが心配そうな顔で美里に近づく。どこで怪我をしたのか。理科室では一撃で悪霊を倒した。大悪霊には触れられてもいない。

 かのんは美里の足の怪我の状態をもっとよく見ようと、美里の足に手を伸ばした。


「触らないで!」

「先生?」


 思いがけず美里に拒絶され、かのんはビクリと肩を振るわせ硬直した。かのんが見た美里の表情は青ざめていて、どう見ても普通ではない。


「かのんさん、私から離れて!」

「なんで……? 先生?」

「早く!」

「……わかったよ。」


 かのんは美里から数歩離れ、教室の前方の机の間に立って美里を見た。美里もかのんから目を逸らさないで黒板の前で立ち上がった。ちょうど、かのんと美里との間に教壇が置かれた配置になり、教壇を挟んでかのんと美里は対峙した。


「やっぱりおかしい。どうしてかのんさんはそんなに詳しいの?」

「どうしてって……。」

「かのんさんは学校のどこに悪霊がいるかもわかっているし、どんな悪霊がいるかも知っている。」

「敵のことを調べるのは当然じゃない?」

「じゃあ、悪霊ってなんなの? なぜかのんさんは悪霊に狙われているの?」

「それは……。」


 かのんが言いよどむ。かのんは美里から目を逸らした。しばしの沈黙。時間としては数秒だったかもしれない。

 だが、それで美里はかのんが自分に隠し事をしていると確信した。

 

「かのんさん。本当のことを話して。」

「本当のことって……。」

「かのんさんと一緒にいると不思議なことばかり。悪霊もそうだけど、ずっと咲き続けているあの桜の木も変よ。荒らされた職員室や燃えた図書室が元通りになるのはどういう仕組みなの!?」

「先生、ちょっと落ち着こう?」


 今、銃は美里の手元にある。美里は教壇の下に隠すように持った銃の重みを感じていた。

 美里の目の前にいる少女は本当に自分が知っているあの山田かのんなのだろうか? メイクアップして髪色も変えていて、当時と見た目も違う。確かに目元も声もソバカスも記憶の中のかのんのままだ。でも、今、目の前にいるかのんは死者なのだ。死者がこんなに校舎の中を元気に歩き回り、感情豊かに人間と話すのだろうか? 悪霊と戦うためと渡された武器はいったいどこから持ってきたのだろうか? 桜の木も、校舎が元通りに戻るのも、本当はかのんの力なのではないか?

 かのんは普通の死者ではないのでは?



 美里はそっと銃に弾を込めようと動いた。かのんが何者だろうと、万が一の時、自分の身を守る準備が必要だ。あともう少し時間を稼ぎたい。焦りから美里は不用意に言ってしまった。


「かのんさん……、あなたは悪霊とどんな関係なの?」


 かのんは美里のその問いを聞いて驚いたのか少し目を見開いたあと、ふふっと息を漏らすように笑った。

 

「そっか、先生。私を疑ってるのね?」

「う、疑うっていうか……。」


 かのんが一歩、教壇に近づいた。美里は咄嗟に身構えようとして、自分の体が自由に動かせないことに気付いた。まるで金縛りだった。


「先生。私が悪霊なんじゃないかって思ってるんでしょ?」


 かのんは更に一歩前に出て教壇に肘をついて頬杖をつくと、動けない美里の顔を覗き込んで微笑み言った。


「もしもそうだって言ったらどうするの? 私を撃つの?」


     ◇


 その日、高柳校長は妙な話を聞かされた。なんでも昨夜、校舎の教室が燃えているところを見た住民がいたという。だが、消防隊が出動し、すべての教室を確認しても火事どころか荒らされた形跡も見当たらなかった。このところ、おかしな噂ばかり耳に入る。

 夏なのに桜の木が満開で咲いているところを見ただとか、深夜の校舎に人影を見ただとか。

 生徒たちは怪談話として面白がっているが冗談ではない。この学校では二年前、本当に人が亡くなっているのだ。


「だからといってなぜ俺が夜の学校の見回りなどせねばならんのだ……。」


 緊急会議が開かれ、噂を否定するために夜の見回りをすることが決まった。問題は誰がやるか。本来なら若手の教員にやらせるところだったが、噂の中にひとつ引っかかることがあった。

 会議の席で一人の教員が発言した。


「夜の校舎を歩いていた人影。白衣を着ていたとか……。」


 校長の脳裏にとある女性の後ろ姿が思い浮かぶ。


「ええ。聞きましたよ。美里先生に似てるって。」


 別の教員が答えた。

 それを聞いた校長の額には冷や汗が浮かび上がっていた。



 夜の校舎。静まりかえり人の気配なんてどこにもなかった。さっさと異常がないことを確認して帰宅しようと校長は思った。懐中電灯を取り出して点灯する。


「養護教諭が夜の学校に侵入? バカバカしい。」


 そんなわけがない。


「……そもそも彼女は死んだはず。」


 二年前、学校内で起こった凄惨な事件。被害者は女性教員一人。

 まだその犯人は捕まっていない。


     ◇


「先生は混乱してる。」


 美里は一ミリも体を動かせない。美里の額から汗が流れる。かのんが悪霊か否か? かのんの問いが頭の中を巡る。かのんを撃ちたいなんて思うはずがない。彼女がどんな存在であったとしても、美里はこれまでの彼女を信じたかった。しかし、洪水のように不安感が押し寄せる。

 かのんは優しい声で美里に言った。


「私は先生に助けてほしいだけ。言ったでしょ。」

 

 かのんは慎重に言葉を選んでいた。

 かのんの目にもハッキリと見える。美里の首に浮かび上がった痛ましい手の痕。美里の体に起こっている異変。美里の体は思い出しつつあった。あの日の惨状を。

 かのんは悲痛な気持ちを抑え、美里の手から銃を取り上げて教壇の上に置いた。まだ美里に思い出させるのは早い。かのんは美里の背中をさすった。少しずつ美里の緊張が解けていった。


「ごめんね、急ぎすぎたね。今日は休んで。」

「……ごめんなさい、かのんさん。」

「いいの。目を閉じて。」


 美里の呼吸が穏やかになるにつれ、美里の体の傷も消えていった。

 気付くと美里の体はまた自由に動かせるようになっていた。金縛り……。かのんがやったことではなかった。いったい自分の身に何が起こっているのか、美里にはまったく判断がつかなかった。ただ、恐怖に支配されつつあった自分の心がかのんによって癒やされ、落ち着きを取り戻しつつあるのを実感していた。


「帰ろう、先生。今日のことは忘れていいから。」

「……。」


 かのんは寂しげな表情を浮かべて言う。このまま続けるのは危険だった。明日になったら美里は今日の記憶を失っているだろうが仕方がない。こうして何度もやり直してきたのだ。美里のために。少しぐらいの後戻りは今さら気にならない。



 その時、カツーン、カツーンという革靴の足音が廊下に響いた。かのんたちのいる教室の方に近づいてきている。


「誰か来ている……。」

「え……?」

「先生。隠れよう。」


 かのんは美里をしゃがませると自分も教壇の影に隠れた。

 足音は教室の前で止まり、懐中電灯の光がさっと教室の中を照らす。


「ん? 誰かいるのか?」


 男性の声が聞こえてかのんは息を飲んだ。懐中電灯は教壇の上を照らしている。


「なんだ? よく見えないな。」


 カチッという音と共に教室の灯りが点いた。男性が電気を付けたのだ。男性が教室に足を踏み入れる。


「……折り紙? あっ! 誰だ!?」


 教壇の上にある物を見ようとした男性は、その影に隠れていたかのんを見つけると大声をあげた。

 見つかってしまった。かのんは観念してゆっくりと立ち上がるとその男性の顔を見た。見覚えのある顔……。男性は高柳校長だった。


「あ、あの……お久しぶりです。校長先生。」

「……君はうちの生徒か? ビックリしたぞ。こんなところで何をしている?」

「懐かしくなっちゃって、つい……。」

「卒業生か? 不法侵入だぞ。」

「す、すみません……。」

「一人か?」

「はい、そうです……。」


 どうやら校長には美里を見る力は無いらしい。それならばこのまま無難に話を合わせて帰ってもらおうとかのんは思った。美里のいるところで都合の悪い話をされたくなかった。


「学校に忍び込んだのは今日だけか?」

「えーっと、今日だけです。もう帰ります。」

「おい待て。誤魔化そうとしてもわかるぞ。」


 深夜の校内に制服で侵入している卒業生。明らかに怪しい。今日だけというのも疑わしい。この少女が噂の正体なのではないか?

 だが、高柳校長は不法侵入の少女の容姿をジロジロと見てから「うーむ」と唸った。ピンク色の混じった髪に学校の制服。短いヒラヒラとしたスカートから伸びる白い二本の足。目立つ姿だ。……これをあの養護教諭と見間違えるだろうか?


「本当に他に誰もいないのか?」

「他に? そうですね……。」

「噂になっておるのだ。真夜中に長い髪の女性を見たとか。白い白衣を来ていたとか。」

「え?」


 それを聞いたかのんの目が一瞬泳いだのを校長は見逃さなかった。


「お前、知っているな? どういうつもりだ? 何のいたずらだ!?」

「い、いたずらって……。」


 血相を変えた校長がかのんに詰め寄る。校長は窓際までかのんを押し込め、かのんは壁に体を打ち付けてしまった。かのんの背負っていたカバンからパラパラと中身が落ちる。

 その中には美里の写真と事件に関する新聞の切り抜きがあった。校長はそれを見つけると鬼の形相でかのんを睨んで言った。


「やはり……! まさかお前!?」

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