大蜘蛛との戦い

 暗い職員室の天井に何かがへばりついていた。カサカサと動いている。美里を見つめる八つの目。


「きゃあああ!!」


 それが人よりも大きな蜘蛛だとわかるのと同時に、美里は天井のそれに向けて銃を発射した。美里の撃った弾は天井に穴を空けたが、素早く動いた大蜘蛛の体にはかすりもしない。

 

「あ、あれも悪霊!?」

「そうだよ。」


 かのんは落ち着いた声で返事をした。対して美里は想定外の相手の登場に完全にパニックに陥っている。大蜘蛛の動きの先を読まずに何発も撃ってしまい愚かにも弾を無駄にしてしまった。


「無理よ! 当たらないわ!」

「そうかな? もっとよく狙って。」


 しかし何度撃っても悪霊の大蜘蛛は飛び跳ねるように動いて弾を避けてしまって同じだった。それどころか、大蜘蛛は天井いっぱいに張り巡らされた蜘蛛の糸をつたい、徐々に美里たちとの距離を詰めてきていた。


「先生。弾が無くなっちゃうよ。」

「あっ!」


 足下が見えづらい場所で美里は大蜘蛛から逃れようと椅子につまづき倒れてしまった。テーブルの上に置かれていたかのんの紙袋に手が触れて、袋に入っていた武器が床に散らばる。

 大蜘蛛はもう美里の頭の上にやってきていた。

 もうダメだ。自分がバカだった。悪霊退治なんて自分には無理だったのだ。美里は完全に戦意を喪失していた。

 だが、大蜘蛛はしばらく経っても美里を襲ってはこなかった。美里は大蜘蛛の目の先を追った。自分の後ろで立ち尽くすかのんの足が見える。そうだ、悪霊が狙っているのはかのんだ。


「かのんさん! 逃げて!」


 美里の呼びかけにかのんはぽつりと言った。


「無理だよ、先生。」

「な、なんで!?」

「だって、足が震えて動けないし。」

「えぇ!?」


 倒れた体勢のままだった美里はゆっくりと頭を上げてかのんの顔を覗いた。そこには今にも泣き出しそうな少女の顔があった。


「先生……、諦めないでよ。」


 なんなの!? そんな顔されたら立ち上がらないわけにいかないじゃない!

 美里は怒りにも似た言い様のない感情に突き動かされて、床に落ちていたナイフを手に立ち上がった。

 大蜘蛛の八つの目に美里の姿が映る。


「こうなったらやってやるわ! 悪霊だろうが蜘蛛だろうが関係ない!」


 美里は大蜘蛛めがけてナイフを振りかぶった。美里のナイフが大蜘蛛の目に突き刺さり、その隙間から黒いモヤが吹き出してくる。

 大蜘蛛は足をモゾモゾとせわしなく動かして、職員室の机の上の物を散らかしながら悶え苦しんだ。


「き、きもい……。」

「先生。動かなくなったらトドメを刺して。」

「そうね……。」



 やがて動かなくなった大蜘蛛に美里たちは恐る恐る近づいた。念のため、美里の背中にかのんは隠れている。


「先生、はやく。」

「ちょっと、押さないでくれる?」


 だらりと伸びた大蜘蛛の足はこんなに長かったのかというほど床いっぱいに広がっていた。銃の弾はもう無かった。大蜘蛛に刺したナイフを取って、今度は胴体に刺さなければならない。

 美里が大蜘蛛に刺さったナイフを手に取り、大蜘蛛の頭から引き抜いて、もう一度胴体に向けて突き刺そうとしたその時。


「先生!!」

「はっ!?」


 かのんに言われて美里は気付いた。さっきまで床に伸びていた大蜘蛛の足が天に向けて持ち上がっていた。大きな影が美里たちを捕らえようとしていた。


「ぎゃああああ!!」


 美里は渾身の力を込めてナイフを大蜘蛛の腹に何度も何度も刺した。


「無理、無理、無理、無理!!」


 気付くと大蜘蛛は黒い霧になって消えていた。あれは最後の悪あがきだったのかもしれなかった。後には放心状態の美里だけが残されていた。


「もうやだ……。」

「ううん。先生、カッコ良かったよ! ありがとう、先生!」

「……。」

「よっ、悪霊バスター!」

「嬉しくない……。」


 美里は恨めしそうな目でかのんを見た。

 かのんは苦笑いを浮かべながら、どうやって美里の機嫌を取ろうかと考えていた。


「悪霊はね、先生には攻撃してこないんだよ。」

「え!?」


 今日はここまでにしようと言った後、職員室を出て桜の木まで戻る途中にかのんが言った。


「だから、もっと落ち着いて狙えばよかったんだよ。」

「そういうことは早く教えて!」


 校庭の桜の木は変わらず外灯に照らされて白い光を放っていた。


「まぁまぁ。勝てたからいいでしょ。それじゃね、先生。また明日。」


 かのんは桜の木の下で満面の笑みを作ると美里に手を振った。そしてまた、瞬きの間に消えていなくなった。


「また……明日……。」


 美里はガックリとその場にへたり込んだ。


     ◇


 次の日の夜も美里たちは桜の木からスタートして、校舎の一階から職員室に入った。


「今日は二階の図書室までね。」

「図書室……。」


 図書室は職員室を抜けた先の階段を上がるのが近道だった。

 職員室は昨日の騒乱が嘘のように整然と片付けられている。昼間、誰も問題にしなかったということは、大蜘蛛を倒した後すぐに元通り片付いたということなのだろうか? 美里は釈然としないまま、ずらりと並んだ職員室の机を見た。そのうちひとつの机に目を留める。


「そうそう。かのんさん。古木先生の机、ここよ。」


 美里は思い出したように机を指差して言った。

 しかし、かのんは机を一べつしただけで、立ち止まりもせずに職員室の逆側のドアに向かっていった。

 

「そんなのはどうでもいいよ。さっさと上の階に行こう。」

「ええ……?」

「夜は短いんだから。」


 そう言ってかのんはどんどん先に行ってしまう。

 美里は慌ててかのんの後を追った。

 図書室はいつも鍵がかかっているはずだが、なぜかかのんは図書室のドアを開けることができた。


「かのんさん、鍵は?」

「んー? さっき職員室で借りたんだよ。」


 かのんはさも当たり前のように言うと、図書室の本棚から本を適当に引き抜いてパラパラとめくり始めた。

 ずらりと背の高い本棚が図書室の奥の方まで立ち並んでいる。腑に落ちない気持ちを押し込めて、美里もかのんにならい適当に本を開いてみた。おかしな点は見当たらない。

 夜の静かな図書室で、二人はしばらくそうやって本の中身を確かめて回った。まさか朝までこの調子なのだろうか? 美里は思い切ってかのんに聞いてみた。


「かのんさん。図書室にはどんな悪霊がいるの?」

「先生。……なんで私に聞くの?」

「もしかしたら知ってるのかなと思って……。」

「先生。そんなことより、私ね。ここで貧血になって倒れちゃったことがあって。そしたら図書室の司書さんが貧血にはチョコレートがいいって言って内緒でくれたんだ。」

「へえ……、そんなことがあったのね……。知らなかったわ。」

「……。」


 かのんがパタリと音を立てて開いていた本を閉じた。図書室の静寂を破ったその音は、驚くくらい部屋に響いた気がした。


「……先生。あれ見て。」


 かのんが指差す先、本棚と本棚の間に小さくうずくまる影があった。


「犬?」

「違うよ。餓鬼だ。」


 うずくまっていた影はギロリと光る目を美里たちに向けると、地面を這うように移動し美里たちに飛びかかろうとしていた。


「撃って、先生!」

「じゅ、銃!?」


 美里は紙袋から急いで銃を取り出し餓鬼に向ける。


「よく狙って。」

「う、うん。」


 ドン! ドン!


 美里の撃った弾は餓鬼の足と腹に当たり、餓鬼はその場に倒れた。


「や、やった!」

「……ウゥ、イテェ、……イテェヨ……。」

「え? え!?」


 餓鬼は撃たれた足をさすりながら、うめき声をあげていた。


「しゃべってる……?」

「あれはしゃべってるんじゃないよ。そういう音を出しているだけ。先生、悪霊と話をしちゃだめ。早くトドメを刺して。」

「で、でも……。」

「……イテェヨ……。」


 餓鬼が美里を恨めしそうに見上げた。


「先生! 早く撃って!」

「できないわ……!」

「くっ……。」


 かのんは図書室の奥に目をやった。無数の光る目がチラチラとこちらを見ているのがわかる。餓鬼はこいつ一匹じゃない。かのんは順番を間違えたと後悔した。


「先生! 図書室を出るよ!」


 かのんが美里の腕を引いて図書室のドアまで走る。ドアに手をかける。餓鬼たちは追って来ていない。しかし、図書室から漂う悪霊の気は先ほどよりもずっと大きく膨れ上がっていた。


「先生! 先生!?」

 

 図書室を出ようとして、かのんは美里が自分に付いてきていないことに気付いた。後ろを振り向くと、美里は数メートル離れたところで腰を抜かして床に尻餅をついていた。


「先生、立って! 走って!」


 だが、かのんの声は美里まで届いていない。美里の意識は図書館いっぱいに充満した悪霊の気に捕らわれてしまっている。先ほど美里が傷を負わせた餓鬼が立ち上がり、美里にじりじりと忍び寄ろうとしているのが見える。


「先生ぇ!」


 かのんは意を決して図書室に舞い戻り美里の腕を取った。美里がようやくかのんに気づき、怯えた表情でかのんを見た。


「か、かのんさん……。」

「先生、しっかりして!」


 ぞろぞろと図書室の暗闇から這い出てきた餓鬼たちが、かのんたちの足下のすぐ先まで迫っていた。

 かのんは紙袋からテープを巻かれた玉とライターを取り出すと美里に手渡した。


「これに火をつけて!」

「ひ? 火?」

「そう! 早く!」

 

 美里はかのんと迫り来る餓鬼たちを交互に見た後、かのんに言われるままに玉から飛び出た紐にライターで火をつけた。


「投げて!」

「こう……?」


 美里が火をつけた玉は餓鬼たちの中心に投げ込まれ、地面に落ちたかと思った瞬間、バァンという大きな音を立てて爆発した。「ぎゃあぎゃあ」という声を上げて餓鬼たちが逃げまどう。爆発の炎で図書室の壁が赤く照らされる。やがて炎は図書室の本に燃え移り、熱を帯びて餓鬼たちを包み込んで焼いた。


「おお……。」


 阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

 いや眺めている場合ではない。巻き込まれてはたまらない。かのんは放心している美里の手を取って図書室の出口に向かった。

 図書室の本は次々に延焼していく。火にまかれて右往左往する餓鬼たち。餓鬼たちに逃げ場はない。

 図書室を出て、少し離れたところでかのんたちは振り返った。ぼうぼうと図書室から火が吹き出ている。こんな光景、初めて見た。火の光に照らされた美里の横顔を見てかのんは笑って言った。


「やるじゃん、先生。」

「火事……放火してしまうなんて……私。」

「大丈夫。朝になったら戻ってるよ。」

「そういう問題じゃない……。」

「まぁまぁ。今日は疲れたでしょ? 帰ろう?」


 美里の手前、抑えているが、かのんは飛び跳ねたいくらいの気持ちだった。逃げるしかないと思っていたのに図書室を攻略できるなんて。


「先生。明日は三階。理科室に行こうね。」


 かのんの言葉が、美里の頭の奥に沈むように響いた——。

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