そもそも彼女は死んだはず
加藤ゆたか
よみがえり
桜舞う季節。初々しい少女たちが真新しい制服に身を包み、新生活に心躍らせ、校門をくぐる季節。
夜の学校は、桜の木だけが外灯の光を白い花びらに反射させ、いっそう神秘的に存在を輝かせる。
須山美里は保健室の窓から桜の木を眺める。美里は学校に誰もいないこの時間が好きだった。少女たちの姿が消えた夜の校庭は、静かで、透き通っていて、別の世界のようだ。だから美里が彼女を見つけた時、信じられないけれど、一瞬彼女も別世界から迷い込んだのかと思った。
確かに、彼女が身につけているのはこの学校の制服だった。だが、ピンクのメッシュを入れた髪は明らかに校則違反。
背負っているバッグも学校指定のものではないし、その前に、この時間に学校に入り込んでいるなんて生徒だろうと不法侵入だ。
美里は慌てて保健室を出ると、走りにくいパンプスをひっさげ、校庭に出た。
「あなた、そこで何しているの? 帰りなさい。」
他の教員が帰った後の学校に一人残っている美里が言うのもおかしな話だが、生徒と教師では立場が違う。
誰もいない学校に不法侵入して、もしも事件が起こってしまえば、傷つくのは生徒の方だ。きつく叱って、名前とクラスも聞き出しておかなければ。
美里は少女を振り向かせようとして少女に伸ばした手を止めた。自分はこの子を知っている……?
いや、学校の生徒なら知っていて当然のはずだが、こんな目立った髪の女の子は記憶にない。いつもは髪を染めているのか、ウィッグをつけて隠しているのかもしれない。いや、それも顔と名前が分かれば判明する。
「あなた……誰?」
美里は少女に触れず、数歩離れた場所からまた少女に声をかけた。
少女は美里の呼びかけに応えてゆっくりと振り返る。
小顔のわりに大きな瞳が美里に向けられる。くっきりとした目元とは対照的に、意外にも化粧っけのない少女の顔。その鼻の頭にはソバカスの痕が目立つ……。
「先生、久しぶり。」
「あなた……山田かのん。……山田さんなの?」
「うん。よくわかったね。山田じゃなくて、かのんって呼んでよ。」
美里は目の前の少女の存在を受け入れることができなかった。
山田かのんは死んだはず。
あれは去年の初夏だった。五月にしては日差しの強い日で、熱中症への警戒を呼びかけていた最中、悲劇は起こってしまった。
体育の時間中に一人の少女が倒れたと、保健室まで応援の連絡があった。養護教諭の美里はすぐさま体を冷やすための保冷剤や冷たい飲み物を持って校庭までかけつけたが、少女の容体は驚くほど悪く、美里はすぐさま救急車を要請した。
倒れた時に頭も打ったのだろうか。ぐったりと意識を失った少女に、美里は必死で人工呼吸と心臓マッサージを行った。救急車が来て、救急隊員に少女を引き継ぐまでずっと。
多少見た目が変わろうとも、その顔を見間違えるはずがない。何度も心臓マッサージをした。何度も人工呼吸をした。記憶の中に今も強烈に焼き付いている彼女の顔。目の前にいるのはあの少女だ。
美里の介抱もむなしく、病院で死亡が確認された少女。山田かのん。
「かのんさん。まさか、本当は……生きていたの?」
かのんは悲しげに首を横に振る。
「先生は憶えてないの?」
「忘れるはずない! かのんさん、あなたは……亡くなった、熱中症で。私はあなたを助けられなかった……。」
「……私は、先生に感謝してる。」
「それじゃ、どうして? こんなところに、その姿は?」
かのんはその問いには応えず、美里に手提げの紙袋を差し出した。
「これで戦って、先生。私を救ってほしいの。実は私、熱中症じゃなかったんだ。」
「どういうこと?」
「悪霊ってわかる?」
かのんは紙袋を向けたまま、真っ直ぐに美里を見て言った。ふざけているようには見えない。
すっと風が吹き抜けて、桜の花びらが二人の間を舞う。
「私ね、悪霊に殺されたの。」
「嘘。私は確かにあなたの症状を確認したわ。」
「それが悪霊の仕業だったの。だから、先生がいくら処置してくれても私は助からなかったと思う。」
美里はかのんの言葉を信じられなかった。
しかし、それなら今、死んだはずのかのんが目の前にいるのは?
かのんが言う通りなら、かのんは幽霊となって美里の前に立っていることになる。
「とてもじゃないけど、受け入れられない……。」
美里は無意識に、かのんの差し出されていた手を掴もうとした。それは現実にすがるかのような、かのんの存在を確かめようとするかのような行動だった。
しかし、美里の手は空を切った。かのんの腕をすり抜け、美里は何も掴めなかった。
「これでわかったでしょ?」
「かのんさん、あなた本当に……。」
美里はやっと目の前のかのんが幽霊だと確信した。
「先生。さ、これを受け取って。」
かのんが紙袋を美里に押しつけるように渡す。なぜかその紙袋は実体を持って美里でも触れることができた。ずっしりと重い。
「これはいったい?」
美里は渡された紙袋の中を確認した。紙袋の中には紐、厳重にテープを巻かれた玉、包丁、ナイフ、ライター。可愛らしいデザインのブランドの紙袋には似つかわしくないほど、中身は物騒だ。そして袋のいちばん奥から出てきたのは銃……。
「それで悪霊を倒して。」
「戦うの? 私が?」
「そう言ってるでしょ。」
「無理よ!」
かのんは悲しそうに言った。
「先生にしか頼めない。でなきゃ、私はもう一度死んでしまう。」
「死ぬって!?」
いつの間にか辺りを冷気が包む。
夜の校庭。確かにまだ肌寒い季節だが、まるで冬のようだ。美里の吐いた息が白くなった。その時、美里はかのんの着ている制服が夏服であることに今更ながら気付いて不思議に思った。いや、幽霊なら季節は関係ないか。
「ほら、先生。あっちを見て。悪霊が私に気付いた。」
かのんが指差す方向。美里の背後を。冷気はそちらから流れてくる。美里は恐る恐る振り向いた。
そこに立っていたのはまるで生気のない中年の男性だった。痩せた手足を不自然に震わせて美里たちに近づいてくる。美里は恐怖と嫌悪感で後ずさった。
「もう逃げられない。」
「あれが悪霊なの?」
「そう。覚悟を決めて。これはチュートリアルだよ。」
美里の背中に冷たい少女の手が触れる。かのんの手だ。嘘、さっきは触れられなかったのに……。
「先生。私を救って。もう一度。」
耳元にかのんの声が響く。
美里は目を瞑った。まぶたの裏には、あの時、美里の人工呼吸を受ける苦しそうなかのんの顔が浮かび上がる。助けたかった。助けられなかった。
それが今、彼女が再び自分に助けを求めているというのか。
目を開けた美里は、悪霊の男を見据えた。それならせめて自分に出来ることはやろう。
「わかったわ、かのんさん。」
美里は紙袋から銃を手に取った。ナイフや紐で接近戦をして勝てるイメージができなかったからだ。
「弾を込めて。」
「ど、どうやるの?」
「この部分をずらして弾を入れる。そして安全装置を外して、引き金を引いて。」
「こう?」
美里の背中ごしにかのんが手を伸ばし、美里に指示をする。
かのんの白く細い指が美里の腕を這うように動いた。
「狙って。」
ドン! ドン!
美里はかのんに言われたとおりに銃を撃った。弾の当たった悪霊の男の体が弾けるように霧散して、男が「うぅ」とうねり声をあげる。
「当たった! これで効いてるの!?」
「うん。悪霊用の特製の弾だから。」
「いったいどうして、こんなもの——」
「あっ! 先生、あいつ向かってきた!」
「きゃあ!!」
悪霊の男がよだれを垂らしながら口を大きく開けて美里たちに襲いかかってきた。
美里は慌てて更に何発か男に向けて発射した。
美里の銃に撃たれて悪霊の男は消えた。
「はぁ、はぁ……。倒した?」
「うん。今度はちゃんとやれたね。」
美里は銃を握る自分の手が汗でべっとりと濡れていることに気付いた。
「恐かった……。」
今にも腰が抜けてその場にへたり込みそうだった。
美里の前にまわったかのんが「ふふふ」と笑って言う。
「才能あるよ、先生。次もよろしくね。」
「次もって、これで終わりじゃないの!?」
「こんなザコで終わりなわけないじゃん。」
「そんな……。」
かのんは絶望する美里から銃を受け取って紙袋に入れた。
「これは預かっておくね。私を狙う悪霊はこの学校全体に巣くっているの。明日は校舎の方に行こう。」
「明日も!?」
「そうだよ、先生。さっきから驚いてばかりだね。」
「当たり前じゃない。こんなわけもわからないことに巻き込まれて。」
「そんなんじゃ悪霊には勝てないから明日はもうちょっと落ち着いてね。」
そう言ってかのんが美里に微笑む。何も知らなければ、それは幼い少女の無邪気な笑みだ。それなのにかのんは死者だと言う。美里はズキリと胸が痛んだ。
「先生は私を助けてくれる。私は先生を信じてるから。」
ずるい。そう言いかけて美里は言葉を飲み込んだ。かのんは美里が教師であることを思い出させるように言う。目の前の少女は守らなければならない対象なのだと突きつける。
「わかったわ……。」
「じゃ、また明日ね。先生。」
気付くとかのんの姿は消えていた。月明かりの下、静寂に包まれた学校に桜の木と美里だけが取り残されていた。
◇
そして翌日の夜。
美里はどう昼を過ごしたのかも憶えていないくらい憔悴している自分に驚いた。それでも足は学校の桜の木に向いていた。
「先生。待ってたよ。」
昨日と変わらない姿のかのんが美里を出迎える。かのんは昨日と同じように紙袋を美里に手渡すと言った。
「それじゃ今日は校舎ね。」
「……校舎はここへ来る前に見たわ。何もなかった。」
「さすが、先生。予習済みってこと? でも私がいなければ悪霊は出てこないよ。」
「そうなのね……。」
青い顔をした美里に対して、かのんは楽しそうに答える。悪霊に狙われて命の危機を感じている女の子にはとても見えない。いや、かのんはもう死んでいるのだけど。
「まずは職員室から行ってみようか。」
職員室は校舎の一階だ。一階にあるのは職員室、校長室、給食室、多目的ルームに保健室。生徒たちが使う教室は二階以降にある。
美里は銃を手に持ちながらも、緊張で手が震えている。
「悪霊って、みんな昨日の奴みたいに人の姿をしているの?」
「ううん。いろいろだよ。」
「いろいろ……。」
先行するかのんが職員室のドアを開けた。
「私、職員室に入るの久しぶり。先生は?」
「そういえば、私もあまりここに入る機会はないわね。」
養護教諭の美里の席は保健室にあるからだ。
「先生、どこが誰の席かわかる? 私、国語の古木先生のことちょっと好きだったんだ……。」
「そうなの?」
古木先生は四十代の男性教諭で、たしか奥さんもいたはず。美里の記憶にある亡くなる前のかのんは三つ編みでメガネ、ソバカスを恥ずかしそうに隠すしぐさをする引っ込み思案な少女だった。今のピンク色のメッシュの入った髪の姿とはかなり違う。
「って言っても、憧れ、って感じ? 私に勇気を出せって言ってくれたの。」
「へぇ、あの古木先生が。」
「それで、今の私は本当になりたかった姿になってるってわけ。」
「え? その姿はそういうこと?」
「そうだよ。何だと思ったの? 先生、何にも言わないから不思議だった。」
「いえ、ずっと驚くことばかりで、確かにかのんさんの姿は気になってはいたけれど。……ごめんなさい。」
「ははは、いいよ、先生。無理しないで。」
かのんが職員室の真ん中に立って美里に向き直り、指を一本立てる。
「それよりほら、構えて。」
美里はかのんの指の先を……天井を見上げた。
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