幸せを運ぶライ麦パン
増田朋美
幸せを運ぶライ麦パン
11月というのに暑い日が続いている。この時期なのにエアコン無しではいられないというのだから、なんだか世の中どうなってしまうのだろうか。そんな中でも、食べるということは永遠に続いていくのだろう。そのために人は生きているのだから。それがうまくできないとなると、やはり重大な物事が、その中に潜んでいるということになるようなのだ。例えば、摂食障害の根底には対人関係の問題があるという。もちろん本人のせいということもない訳では無いが、社会や家族が原因ということも十分考えられる。
その日。
「さあ今日は、というか、今日こそ、思いっきり食べてもらうぞ。今日はぱくちゃんにお願いして、ラーメンを作ってもらった。以前ぱくちゃんの店で食べたことがあったよな。そういうわけだから今日はしっかり食べてもらう。よろしく頼むよ。」
杉ちゃんがまるで選挙演説する人みたいに、気合を入れていった。それと同時に、今西由紀子は、水穂の体を起こして布団の上に座らせた。また倒れてしまうといけないので、由紀子は背中に座布団を五枚当ててやり、水穂さんの体を支えて上げた。
「右城くん頑張ってね。結核は、昔ほど怖い病気じゃなくなってるし、抗生物質もちゃんとあるから、あとはしっかり食べることが大事よ。」
サザエさんの花沢さんの声とよく似た声で浜島咲が言った。咲の一言はだいたい余計な一言であることが多いのであるが、でも強烈なので、インパクトに残ることがある。
「やっほー!ラーメンを持ってきたよ!」
そう言いながら、ぱくちゃんこと、鈴木イシュメイルさんがラーメンを持ってやってきた。咲が用意したテーブルの上に、ラーメンがドサリと置かれる。
「さあ食べろ食べろ。しっかり食べろよ。それで力つけて、もう一度歩けるようになろうね。」
杉ちゃんが水穂さんに箸を渡した。水穂さんは箸を受け取って、
「頂きます。」
と細い声で言って、ラーメンを食べ始めた。口にラーメンを入れると、すぐに咳き込んでしまい、吐き出してしまうのだった。杉ちゃんがラーメンを食べるように指示を出すのを、10回くらい繰り返した。その通りにトライしてくれたのであるが、いずれもラーメンを口に入れると、すぐに咳き込んで吐いてしまうことを繰り返した。
「おかしいわねえ。明治とか大正だったらあり得るかもしれないけど、なんで今になってこうなっちゃうのかな。右城くん、頑張って食べてよ。」
咲はとても不思議そうな顔で言った。確かに今は結核も対した病気ではないというのが当たり前になっているが、口に食べ物を入れるたびにこうして激しく咳き込んでしまうというのはまた違う病気を疑う事もあるきがする。
「食べてよ。」
由紀子は水穂さんの箸をもぎ取り、ラーメンを取って、無理やり水穂さんの口へ突っ込んだ。すると、水穂さんはラーメンを飲み込むことができず、とうとう口元から赤い液体が噴出した。由紀子はそれをタオルで拭き取ったが、水穂さんはさらに咳き込み続ける。杉ちゃんが枕元にあった吸い飲みを水穂さんの口へ突っ込み、中身を飲ませた。それは鎮血のために出された漢方薬で、即効性はないのであるが、しばらくして、水穂さんは、咳き込むのをやめてくれた。しかし、その薬は眠気をもたらす成分が入っていたようで、水穂さんは、座布団の上に倒れ込み、そのまま眠り始めてしまった。
「ああ、もうしょうがないな。ラーメンじゃだめか。何か他のものを食べさせないと、本当に力尽きてしまうぞ。」
杉ちゃんは、由紀子が静かに座布団を撤去し、水穂さんを布団に寝かせて掛ふとんをかけてやるのを眺めながら言った。
「病院に行けば、点滴してくれるかと思うけど。」
咲がいうと、
「ああ、それは無理だ。多分銘仙の着物を着ているやつはお断りって、病院をたらい回しにされるだけだよ。だからそれはやめたほうがいいね。」
と、杉ちゃんは言った。
「そうだねえ。僕も中国ではウイグル族としてそれは経験済み。だけどねえ。」
ぱくちゃんが腕組みをしてそんな発言をした。
「そうかも知れないけど、人種差別があるからと言って、ご飯を食べなくなるのとは、また理由が違うと思うぞ。それに人が作ったものだから喜んで食べると思うんだけど?どんな人間だって食べることが苦痛な人間はいないはず。水穂さんが、人種差別されていたとしても、ご飯を食べない理由にはならないのでは?」
「そうなんだけどねえ、ぱくちゃん。」
杉ちゃんがぱくちゃんに言った。
「日本と中国の人種差別あまた違うのでねえ。」
「そうかなあ。それなら余計に嫌だなあ。いくら人種差別をされていたとしても、食事を取るということは普通にすると思うよ。それを食べて、明日も元気に働いてくれるってこともあるんだし、また意味が違うんじゃないのかな?」
「ハンガーストライキとでもいいたいのかな?」
ぱくちゃんの話に杉ちゃんがすぐいった。
「まあ確かにそうしているようにも見えるよね。それだけ水穂さんは、差別されてきたでしょうしね。そうかも知れないけどさ。やっぱり食べてほしいよ。作った人間としては。」
ぱくちゃんは大きなため息を付いた。
「ねえ提案があるんだけど。」
不意に咲が言った。
「今回はラーメンだから失敗したんだと思うの。もっと食べやすいもの。例えばパンなんかどうかしら?それのほうが、ラーメンよりも食べやすいと思うんだけどなあ。」
「パンねえ。」
すぐに杉ちゃんは言った。
「パンはパンでも中身によっては、食べられないこともあるからね。肉さかなは一切抜きだから。ウインナーロールとかは絶対に駄目だぜ。」
「それなら、アンパンとかメロンパンとかは?可愛いパンなら食べる気になるかな?」
「うーんそうだねえ。それだとラーメンよりも栄養価が落ちてしまうのでは?」
咲が発言するとすぐにぱくちゃんが言った。
「そういうことなら、パンはパンでも特殊なパンのほうが良いのではないかしら?例えば、ライ麦のパンにはちみつを塗って食べるとか。パン粥にして食べるとか?」
由紀子がタブレットを開きながら言った。
「いわゆるドイツパンね。確かに栄養もあって、それはすごいんだよな。他のパンよりも。」
杉ちゃんがそう言うと、
「ここで売っているみたいだわ。」
由紀子はタブレットを杉ちゃんたちに見せた。そこにはライ麦パン専門店パンの店阿部と書いてあった。
「じゃあ二人でいってきましょうか。」
咲がすぐに言うと、
「わかりました。咲さんはバスですよね。私、車だしますから乗ってください。ここから10分くらいの距離で、そんなに遠くありません。」
由紀子はすぐに言った。多分パンを食べてもらいたいと思ったのだろう。二人の女性たちは、すぐに出かける支度を始めてしまった。
「水穂さんは幸せだねえ。こんなに大勢の人が、パンを食べようと躍起になってくれるんだから。それに本人が気がついてくれたら、もう少し、幸せになってくれるんじゃないの?」
テーブルを拭いていたぱくちゃんがそう呟いた。杉ちゃんもそうだねえといった。その間にしても、水穂さんは静かに眠り続けていた。そこが杉ちゃんたちにとって、皮肉なものであった。
一方由紀子と咲の方は、由紀子が運転する車に乗ってカーナビを頼りにパンの店阿部に向かっていった。パンの店とは言うけれど、小さな家にちょっと、店舗部分を追加したようなだけの建物であった。でも店の入口のドアを開けるとサワークリームの匂いが充満しているので、やはりライ麦パン専門店であることがわかった。
「いらっしゃいませ。」
パンの粉がついた手を洗いながら、パン職人の阿部慎一さんが二人を出迎えた。
「あの、こちらでライ麦のパンを売っているということですが、どんなパンを売っているのでしょうか?」
由紀子が、慎一さんに聞くと、
「はい、うちのパンは、すべてのパンにライ麦を利用しています。白パンではありません。食事パンもありますし、お菓子パンもありますが、全てライ麦パンです。」
と慎一さんは答えた。確かに、いわゆる中の白いパンはなく、灰色や茶色のパンばかりである。
「わかりました。じゃあ、重い病気でずっと寝たきりの人に、栄養をつけたいのですが、ライ麦パンは体に良いそうですね。そういう事に使えるパンはありませんか?」
咲は緊張しながら慎一さんに言った。
「つまり、主食にしたいわけですか。それなら、プンパニッケルとかいかがですか?ちょっと硬いですけど、牛乳に浸して柔らかくして食べることもできますよ。」
慎一さんは、近くにあった、四角い箱のような形をした茶色いパンを指さした。
「それは食パンと同じようなものですか?」
由紀子が聞くと、
「はい。先程いいました通り、牛乳に浸して食べるのもよし、野菜などを挟んで食べてもいいです。バターを塗って、水分が多い野菜と一緒に食べるのが良いのではないでしょうか。硬いパンなので、野菜と相性がいいですよ。」
慎一さんはにこやかに言った。
「他にもフォルコンブロートとか、いろんなパンがありますが、ライ麦パンの一番の基本は、やはりプンパニッケルです。食パンと同様の形で親しみやすいと他のお客さんにも言われます。」
「じゃあ、それでお願いしようかな。パンの事は私は詳しくないのですが、体力の元にもなるし、野菜を入れれば、栄養価もあるでしょうからね。食べ方は牛乳で浸して、柔らかくして食べさせればいいのですね。」
咲は、慎一さんの説明にそう答えた。由紀子はそのパンが硬そうなのが心配だったが、比較的手軽に入手できそうな価格でもあったので、それを買うことにした。慎一さんは、プンパニッケルを一つ取り、ビニール袋に入れて、さらに紙袋に入れた。咲がお金を払うと、初めてうちの店に着てくれたからと言って、消費税をまけてくれた。
「誰か親御さんを介護でもしているのですか?うちの店に来るのは、そういう人ばかりなんですよ。あるいは小さな子どもさんのいるお母様で、小麦のパンを食べられない子供さんがいるので、その代わりのパンを食べさせたいと言って。」
慎一さんがそう言うと、
「いえ、親御さんではないんですけどね。ちょっと、事情があって寝たきりの人なんですけど、あたしたちは彼が大好きですし、彼があたしたちのそばにいてくれることが何よりも大事なことになりますから、それで私達は、栄養をつけてもらいたいと思って、ライ麦のパンを買いに来たと言うわけです。」
と、咲はにこやかに言った。
「そうですか。そういう事は、たしかに珍しいケースですね。多分大変だと思うけど、そういうときは、決して怒らないでやってくださいね。体力のない人の事を、責めても可哀想ですから。それはいけませんよ。」
慎一さんは、にこやかに笑って由紀子と咲にアドバイスした。二人はそうですかと言って、ありがとうございましたと言ってパンを受け取り、店を出ていった。店を出ると、二人は夕食として、牛乳とプンパニッケルでパン粥を作り、水穂さんに食べさせる計画を立てた。うまく行けば吐き出さないで、食べてくれるかもしれないと由紀子も咲も嬉しそうだった。
二人は、喜び勇んで製鉄所に戻った。水穂さんはまだ眠っていた。そこで咲と由紀子は、プンパニッケルを冷蔵庫にしまって、しばらく休憩することにした。二人はお茶を飲みながら、お互いのことを話した。咲は由紀子の話を聞いて、由紀子さんは本当に水穂さんが好きなんだなと言うことを感じ取った。咲も水穂さんが好きだったが、由紀子は本当に水穂さんを思っていることが切ない気がした。
それと同時に冷蔵庫のドアを開ける音がした。単なるお茶でも飲もうと思って冷蔵庫を開けたのだろうと由紀子も咲も思ったので、あまり気にしなかったが、30分経っても、冷蔵庫を閉める音が聞こえてこないので、咲と由紀子は、台所に行ってみた。
すると、台所の冷蔵庫の前で、手当たり次第に食料を食べ漁っているクマのような女性がそこにいた。女性と言うより、冷蔵庫の前にでんと生えている、おばけキノコのような感じであった。女性は由紀子と咲がやってきたのに気がついて後ろを振り向いたが、その手には先程買ってきた、プンパニッケルを持っていた。
「衣笠さんまたやったの?これではまた困るでしょ?」
咲がいいかけると、由紀子が、
「水穂さんのプンパニッケル!」
と思わず叫んだ。咲も彼女がそれを食べてしまったのに気がついた。二人は驚きや失望というより、怒りを感じでしまって、
「どうしてそんな事するのよ!」
「水穂さんに食べさせるために買ったパンなのに!」
と二人して、衣笠陽子さんを怒鳴りつけた。衣笠さんも二人がいることと、パンが水穂さんのために買ったものであって、それを自分が食べてしまった事に気が付き、
「ご、ごめんなさい!私何をやっているんでしょう。ごめんなさい!」
と泣きながら謝罪したが、由紀子もそれに負けず、
「あれは水穂さんのために、買ってあげたパンなのよ!」
と、彼女を怒鳴りつけた。
「ごめんなさい、私、どうしても、食べたい気持ちを抑えられなくて、ものすごく食べてしまうことがあって、、、!」
そういう衣笠陽子さんも悪い人ではなかった。今月から利用し始めた利用者の一人だけど、酷い過食症になってしまっていて、時々発作的に食べ物を食べてしまうことがあった。以前は、店に売っていた弁当を全部食べようとして、警察沙汰になったこともある。その割に、体型をやたら気にしていており、下剤などを大量に飲んだり、浣腸液を万引きしたこともあった。最も、そのようなことで体重が減るということはなく、衣笠陽子はえらく太っていた。そして嘔吐も繰り返していたから、こぶとり爺さんのように、唾液腺が膨らんでいた。精神関係であれば、これを頬袋にひまわりの種を詰め込んだ「シマリス」と呼ぶ可能性があった。
「あれは、水穂さんに食べてもらって、栄養をつけてもらうための大事なものだったのよ、それをあなたが食べてしまうなんて!」
由紀子はそう彼女を責めるが、咲は仕方ないと思うしかないとおもった。この二人の考えの差は何なのだろう?ある人は事象に対して許せないと言い、またある人は許してやろうと考えることができる。少なくともそれに対して、許してあげられるから偉いのだなどと、順位をつけてしまうのが一番行けない。
「失礼いたします。」
不意に玄関から男性の声がして、由紀子も咲もハッとした。
「すみません。浜島咲さんはいらっしゃいますか?店に財布を忘れて帰っていかれましたよね?」
ということは、ここに来たのは安部慎一さんである。
「はいはいここにいますよ。」
咲は急いで玄関先に行くと、阿部慎一さんその人が立っていた。
「ああやはりこちらでしたか。このお財布、浜島咲さんのお財布ですよね?中にクレジットカードがはいってましたのでそれでわかりました。あ、中身をどうしようとかそんな事は全然していませんから安心してくださいね。それで、パンは水穂さんに、無事にわたりましたか?」
慎一さんに言われて、咲は泣き出してしまった。本当は咲も衣笠陽子に、パンを食べられて悔しかったのである。
「どうしたんですか?」
慎一さんに言われて、咲は事件の一部始終を話した。
「なんでこんなふうに、食べられてしまうんでしょうね。そして、あの女性を許してあげなければ行けないなんて。こっちが悪いと言うふうにしなければならないなんて、どうしてこんなに世の中は理不尽なのでしょうか!」
思わず咲は壁を叩いてしまいそうになった。
「まあ、落ち着いてください。咲さん。パンなんて、こちらにはたくさんあります。また買うこともできますよ。それでいいじゃないですか。それともお金がかかって嫌ですか?そうならないように、うちのパンは手頃な値段で提供しているんだけどな。」
慎一さんは優しく言った。
「そうですね。またやればいいと思ってやり直すしかないんですね。でも、なんであの女性を許さなければならないんでしょう。確かにあの女性は、ここにきた当初から過食症で、本当に、つらいんだろうなと言うことはわかりますけど、私が悪かったというふうに解釈しなければならないというのはちょっと。彼女を、許すとか、そういう事をしなければならないって、、、。私は、水穂さんに食べさせて、元気になってもらうっていう意味であのパンを買ってきたんですよ。それなのになんで、簡単に食べられてしまうんでしょうか。そして、それを許してあげなければならないなんて、本当にどうかしてる!」
「確かにそう思う気持ちはわかりますよ、咲さん。だけど、世の中は、本当に難しいものでね。悪いことをしていなくても、悪いと思わなければいけないことは、あるんですよね。そして、水穂さんのためになんとかしたいという気持ちも、消し去らければいけないことだって、あるんですよね。でも、大事なのはね、それを責め続けて、それを批判し続けるのではなくて、誰かがしかたないなというか、もういいやという気持ちで受け入れることじゃないかなと思うんですよね。それが、大事なことじゃないかな。それができる人って、ホント少ないから。」
慎一さんは、咲ににこやかに言った。できるだけ、にこやかに言うことで、彼女に伝えておきたいと思ったのだろう。だけど、此の事実は、非常に受け入れるのは難しいことでもある。
「幸い、パン一個じゃないですか。また買いに行けばいいことでしょう。そう解釈してまた買いに来てくださいよ。そして今度こそ、水穂さんにパンを食べさせてやってくれませんか。そうすれば良いだけですよ、咲さん。泣くよりも、そうやって次に何をするのかを考えましょう。それが、咲さんにとっても、その食べてしまった人にとっても、救いになるんですよ。」
慎一さんは、咲にそう言ってくれた。咲は、その前に泣かせてもらいたいと思ったが、でも、それでは、由紀子さんも同じことを考えているのだろうなと思いつき、慎一さんにありがとうございますと言って、由紀子と衣笠さんがいる台所に戻っていった。
幸せを運ぶライ麦パン 増田朋美 @masubuchi4996
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