6.きえゆく
東京での日々は、慌ただしく過ぎていった。
ゴールデンウィークに入る直前だった。俺は普段より念入りに店内を整理した。明日から、店も俺も長期休暇に入る。俺はその休暇の殆どを、内津山に割くつもりだった。
店を閉め、鷹之に電話をかける。彼は出なかった。風呂にでも入ってるのだろうと思った。
家に帰ってもう一度かけたが、駄目だった。
翌朝、山へ向かう前にもう一度かけた。一向に彼に繋がらなかった。こんなことは初めてだ。ある予感が頭をよぎる。俺はジリジリと不安が体を支配していくのを感じながら、山へ向かった。
彼の家には車がなかった。一応玄関の戸を叩いたものの、物音一つ返ってこない。急いで小幡さんの事務所に向かった。
「おお!レージくん、急にどうしたぁ?」
小幡さんはいつもの金歯で出迎えてくれた。事務所の奥にはリョウくんたち三人がいたが、やはり鷹之の姿はなかった。
「あの、鷹之は……」
小幡さんはそれを聞くと、急に真剣な顔をして「タカユキ……」と言った。どこか驚きが滲んでいる。
「誰だ、そりゃ?」
それは冗談でもなんでもなかった。リョウくんも、あっちゃんも、だいちゃんも……誰もかも、口を揃えてそんな人は知らない、と言った。その顔に嘘はなかった。
俺の頭は真っ白だった。小幡さんは笑いながら、
「なんだぁ!まだ頭のエンジンが冷えとるか?もう春だでよ!」
と言った。男たちはみんなどっと笑った。俺の視界がぐにゃりと曲がった。
俺は一縷の望みを託して、小幡さんの家に行った。何かを知っているとしたら、奥さん以外ありえない。
突然の来訪に「よく来たねぇ」と言って出迎えてくれた奥さんの顔は、どこが思い詰めたように強張っていた。俺は居間に通された。居間には暖かな春の光が差し込んでいる。
奥さんは熱いお茶を俺の前に置いた。
「タカちゃんを、探しに来たのよね。」
俺は小さく頷いた。
「タカちゃんはね、神様に連れて行かれちゃったの」
呪い。俺の頭にその言葉がよぎる。
奥さんはゆっくり、運命を語るように続きを語る。
「それがいつだったのか、どういう状況だったのか、具体的なことはわからない。
この日曜日……タカちゃんと一緒に夕飯を食べようと思って。帰ってきてたアキちゃんに、タカちゃんも呼びましょうよって聞いたの。
そのときに初めて気づいたわ。誰もタカちゃんのこと、知らない。この山から、みんなの記憶から、突然消えてしまったって。
ねぇ、嘘みたいでしょう?今でもまだ……信じられないわ。こうしてるうちに、マキちゃん、って言って、この家の戸を叩くんじゃないかって……」
奥さんの目から涙がこぼれ落ちる。彼女はしばらく口をつぐんで、指で涙を拭った。俺はハンカチを出したが、奥さんは断った。
「呪いの話は聞いた?」
「……少しだけ。」
「呪いはね、本当にあるのよ。山から出られない呪いが。出ようとしたら、山が――神様が、その人を連れて行ってしまう。そして周りから、その人の記憶を消し去ってしまう。今までこうして、何人も消えているの。
タカちゃんのご両親もそうだった。あの人たちはね、もうここに越してきた直後に呪われてたの。秋の山で鳥を獲ったんだって。外の人だったから知らなかったのね。呪いのことも信じてなかった。
だから、車で出かけようとして、神様に連れて行かれたのよ」
「でも奥さんは、覚えてるじゃないですか……鷹之のこと、なんで、他のみんなは……」
「その人のことを覚えているのは、同じように呪われた人間だけ。
――ええ、私も、呪われてるの。私はそういう役割なのよ。山の中の誰かひとりは、こうして呪いの生き証人になるの。ずっと昔から、続いてきたこと。
あなたは山の外の人だから、神様の力が強くは及ばないかもしれない。しばらくはタカちゃんのこと、覚えてるかもしれない。でもねぇ、もうじきに忘れる。思い出せなくなる。顔も名前も全部。」
――全部、忘れる。
「いつ、忘れるんですか。俺はどうすればいいんですか、」
「どうしようもないの。あなたは忘れてしまうしかないのよ。明日か、来週か、ひと月後かもしれない。それは神様の気まぐれよ。それでも、いつかはすっかり忘れるの。
だから、今までと同じように……タカちゃんに出会う前のように、東京で暮らしなさい。」
何もできずにいる俺に、奥さんはひっそりと、彼との思い出話を紡いでくれた。一緒に春の野を歩いた話。彼の好きだったテレビの話。明さんとケンカした話。懐かしそうに微笑み、涙を流している。それはまるで、密かに彼の葬式をしているようだった。俺はその話を聞きながら、奥さんが鷹之と過ごした二十年以上の月日の前で、俺達の時間などあまりにもちっぽけだったのではないかと感じていた。
奥さんは一通り話し終わると、不意に俺の方を見た。
「……礼司くんは、タカちゃんと特別な関係だったの?」
「え……」
「別に誰かが言ってたわけじゃないわ。でも、そうなのね。
……よかった。あの子、そういうこと、臆病だったから……。少しでも、誰かと好き合うことができて、本当に良かった。
先月もね、川で釣ったからって魚を持ってきてくれたの。そのとき、最近楽しそうねって言ったら、タカちゃん、笑ったのよ。
いつもならそんな話嫌がるのに。照れくさそうに、「うん、」って言って笑ったの。私なんとなくね、礼司くんだなって、思った。
あなたの話をするときは、いつも……幸せそうだったから。ありがとうねぇ、礼司くん、本当にありがとう」
鷹之の車は、思わぬところに停めてあった。
彼の家から少し離れた場所。川に降りる道のある、空き地だった。他にも釣り人のものと思しき車がいくつか停めてある。
俺は川に降りて、辺りを散策した。
川の水は穏やかで、水面が暮れゆく春の陽の光を反射して眩いばかりに輝いている。何人かが川辺で釣り糸を垂らしていたが、大方片付けを済ましたような者が多かった。川の向こう側には、山の外の国道が見える。
少し下流に行ったところで、俺は打ち捨てられた釣具を見つけた。その側に、見慣れた鍵が落ちている。鷹之の車と家の鍵だ。鍵は俺の贈ったキーケースに繋がれていた。それを拾い上げようとした瞬間、不意に背後から小石を踏む男がした。
「お兄さん釣り人?そんなに川に寄っちゃ危ないよ」
初老の男だった。山の住人だろう。
「ついこないだも、ここで子供が流されたばっかだからな。見回ってんの。その時は大事にならなかったから良かったけどよ、危ねえことはするもんじゃねえ」
俺は男に頭を下げると、散らばった道具を集めて空き地に戻り、鷹之の車を開けた。
トランクに荷物を詰め、助手席へ座る。運転席には、まだ彼がいるような気がしていた。
フロントガラスから見える山の端に、黄色い光が漏れ出ている。夕暮れが近い。霞んだ空の中を、数匹の鳥が連れ立って飛んでいる。
――あなたは忘れてしまうしかないのよ。
忘れたらどうなるんだろうか。
何も残らないのだ。痛みはない。失った苦しみも、この体に染み付いた彼の体温も、何もかもなくなるだろう。
人生は長い。恐らくこの先、また誰か素晴らしい人が現れる。鷹之の代わりに。俺は代わりだと思うことすらない。
彼は最初からいなかった。
俺は東京で店を続けるだろう。
彼の記憶以外、失うものはなにもない。
生きていくには丁度いい。
けれど、
『覚えててくれよ。俺のこと』
俺へ語りかける彼の声を、記憶を、愛情を全て忘れた俺は、本当に俺なんだろうか?
車の中から、もう一度川を見る。
夕暮れの川面。水の流れに浮かぶ枯れ木や枯れ葉。
――彼が流した雛もこんなふうに流れていったのだろうか。
男は川に流された子供がいると言っていた。
もしそこに彼がいたのなら、今度こそ、救おうとしたに違いない。
その時俺は、川辺に立つ彼の姿が、一瞬だけ見えたような気がした。
オレンジ色に輝く川の流れに吸い込まれていく、鷹之の小さな背中。
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