3.神様
翌朝、奥さんがカフェオレとトーストを用意して待っていてくれた。
いちごジャムを塗って食べる俺の横で、鷹之はまずメープルシロップを塗り、そこにハムとチーズをのせるという暴力的なトッピングを施していく。
試してみるかと言われたので一口だけ貰った。それはとても蠱惑的な味がした。奥さんは笑って、
「タカちゃん、昔からこれ好きなの。鬼みたいに色々のせるでしょ」
と言った。二人はこれを鬼トーストと呼んでいた。
朝食を済ませて事務所に向かうと、すでに昨日の男たちが集まって、ココアを飲んだりしてくつろいでいた。俺たち一行が最後だったようだ。
小幡さんは大きな声で挨拶をすると、俺にストーブ近くの椅子を勧め、自らも座ってスマホを取り出した。
「んじゃ、始めますか」
それを聞いた猟師たちが、小幡さんの机に集まっていく。机の真ん中に置かれた小幡さんのスマホを囲む形だ。
「今日はこの辺な、」
表示されていたのはマップアプリの画面だった。今日の狩り場らしい。猟師たちも次々と自分のスマホで地図を確認し、ルートを細かく打ち合わせはじめる。昨日まではただの陽気な山男だったその場の全員が――鷹之も含め、今、完全に猟師の顔をしていた。
一通りの打ち合わせが済んだあと、小幡さんは顔をあげてこっちを向いた。
「レージくん、初めてだよな。軽く今日の説明をしようか。
俺たちは『巻き狩り』って方法で狩りをするんだ。セコ役とイヌが、山中で鹿を追う。追われて飛び出た鹿を、待ち伏せしている四人が撃つ。そんな流れだ。いいかな?
セコはリョウくんがやる。あとは全員待ち伏せする待子だ。レージくんは、だいちゃんについていくといい。」
斜め向かいで、熊のような髭のいかにもベテラン風の猟師が、俺に向かって手を振った。あれがだいちゃんだろう。
じゃ、そういうことで。小幡さんがそういったのを皮切りに、全員が立ち上がり、ジャケットや帽子、それに猟銃を準備し始めた。
表に出ると、冷たい風が頬を打った。薄い雲がたなびく空の下、小幡さんが祠のようなものに何かを供えている。男たちも順々にそこに手を合わせていった。
遠目でそれを見ていると、眼鏡の猟師が山に挨拶しているのだと教えてくれた。
「この辺には山岳信仰が残ってるんだよ。
山の人間にとって、山そのものが神様なんだ。シカもイノシシも全部、神様のもの。それを今から少しばかりもらうよ、どうか恵んでね、っていう挨拶を、こうやって狩りの最初にやるんだ」
「へぇ……」
「レージくんもやるといいよ」
促されてその祠に立ち寄ると、周りを真似て手を合わせ、挨拶とやらを済ませた。
「おぉい!バイクはここに置いてきな!うるさくって逃げられちまう」
小幡さんが軽トラの窓から身を乗り出して、大声で叫んでから道路に出た。
俺はだいちゃんの車に乗って、指示された場所に向かった。
深い森へと続く林道に入る手前で、車を降りる。誰かの軽トラの荷台から、一匹の犬が降りてきた。真っ白な紀州犬だ。尻尾を降って男たちに駆け寄る。
「マリー、頼むぞ」
小幡さんが犬の背をポンと叩いた。昨日鷹之になついているといっていたマリーは、この猟犬のことだったのか。なるほど、たしかにやたら鷹之の回りをぐるぐると回っている。
マリーは男たちに挨拶を済ますと、眼鏡の猟師のところへ戻っていった。どうやら彼が飼い主のようだ。
それから全員で無線を確認し、小幡さんの合図で、眼鏡とマリー以外が山に入った。
「あの人たちはいいんすか?」
俺はだいちゃんの背中に問いかけた。
「リョウくんはセコだからな。俺たちが持ち場につくまでは山に入らないんだ。」
そういって枯れ木や草を分けて進んでいく。この道もないような険しい山の中で、彼の足取りははっきりしていて、しかもかなり速かった。だんだんと息が上がる。
「……速いっすね……」
「はは。リョウくんとマリーの方が、もっと速いよ。」
だいちゃんの息は全く乱れがない。
「これは内緒だけどな、リョウくんは手もはやいんだぜ。こないだの離婚騒ぎだって女遊びが原因なの。
それよりさ、レージくん、昨日タカと一緒に泊まったんだって?あいつ、とっつきにくくてびっくりしたろう」
「えぇ、……まぁ……」
息を切らしながら答える。この人は案外他人の色んな所に踏み込むのが好きそうだ。俺は、ジビエをイタリア語だと思っていた鷹之に親しみのようなものを感じている、ということは黙っておいた。
「コウちゃんも、あいつが友達を作らないのを心配してるんだ。色々事情があってね。タカ、ここから出れないから……山の外の人をみるとあんな感じなんだよ。嫉妬っていうかさ。」
――山から出られない。
「特にレージくんはさ、俺から見たって、なんていうかすごく……自由に見える。タカからしたら、本当に、憧れるんだと思うよ」
「憧れ、っすか」
だいちゃんは歩きながら振り向いて、ニコリと笑った。
「さ、そろそろ、おしゃべりもおしまいだね。獲物に勘付かれる」
俺はそれ以降口をつぐんだ。
しばらく歩いて岩場の陰につくと、だいちゃんは荷物をおろし、猟銃の準備を始めた。息を殺してその場に潜む。
張りつめた山の空気の中で、彼は無線をつかってなにかやり取りしているようだ。だが、音はすべてイヤホンを通していて、俺には何を話しているのかわからなかった。
暗号のようなやり取りがあったあと、急にだいちゃんが銃を構えた。
訳もわからず前を見た瞬間、遠くでマリーの勇ましい声が聞こえた。
俺は思わず息を呑んだ。
向こうの方で銃声が3発聞こえる。
「二匹……一匹こっちにくるぞ、」
枯れ木の間から、一匹の鹿が飛び出してきた。しなやかな体躯で、山中を縫うように逃げ惑う。
直後、彼が二発撃ち込む。
「……しくじった!」
鹿は山の下に向かって勢いよく駆けていった。すると、またすぐ側で銃声が聞こえた。
「タカだ、」
――銃の残響があたりに拡散する。尾を引く残響は少しずつ山に吸い込まれ、やがて森は静けさを取り戻した。
俺は喉から飛び出そうな心臓を押さえながら、だいちゃんの顔を見た。
彼の目は、鹿の逃げた方向を捉えている。その瞳に、向かいから差し込む乾いた陽の光がギラギラと反射していた。
しばらくして彼の合図でイヤーマフを外し、タカが仕留めたという場所に向かった。斜面を降りると、撃たれた鹿の側で鷹之が立っていた。横たわっている鹿のしっとりした毛並みが、妙に生々しい。上から眼鏡のリョウくんも降りてきた。マリーは少し興奮しているようだ。
「さすがタカだね。急所を綺麗に撃ち抜いてる。これがね、腹に当たると、大変なんだよ。」
そういうとリョウくんはおもむろにナイフを取り出した。しゃがんで鹿の頭をつかみ、柔らかな喉にナイフを当て、切り裂く。血液が勢いよく流れ出て、獣の匂いが充満した。
その血の赤さに、俺は思わず顔をしかめる。
「こわい?」
リョウくんが俺を見た。
「肉食べるってのは、こういうことだよ。あんたも料理人ならわかるでしょ」
顔はあくまでも笑っている。だが、その口ぶりは俺を試しているようだった。
俺が何も言わないのを確認すると、リョウくんは鹿に向き直り、首を押さえたまま、すうっと目を閉じた。
祈りだ、と思った。
だいちゃんと鷹之も、跪いて同じように目を閉じる。それはこの鹿の失われた命に対して捧げられているのか、それともそれを下賜した山に捧げられているのか、俺にはわからなかった。ただ、真摯に祈る三人の姿に、俺はこの山に生きる人間だけが持ちうる魂の一端を見た気がした。
遅れて他の猟師たちも次々に姿を表す。彼らの手にはもう一匹の鹿が繋がれていた。彼らもまた、俺たちの前にいる鹿に近づくと、目を閉じ、祈りを捧げた。
山を降りる直前、小幡さんが腰につけていたほら貝を取り出して吹いた。遠吠えのような滑らかな響きが、山じゅうにこだまする。
「神様への挨拶だよ、」
だいちゃんが小さく教えてくれた。
枯れ葉の上を、鹿を引きずって男たちが歩く。俺は彼らの後ろを静かについていった。
鹿は、事務所に隣接した施設で解体される。
「肉の旨さはバラしの上手さだ。俺たちはそこにも自信があるのよ。みんな手練れだし、免許もある。もちろんちゃーんと保健所に登録してあるからな、安心して食材に使うと良い、」
バラすの見る?と言われたものの、俺はさすがに気が進まず、解体小屋の手前で待つことにした。鷹之たちが、俺を一瞥して小屋のなかに消えていった。
その日は昼から盛大な酒盛りとなった。
今日の狩りの反省会、兼、俺の歓迎会という名目で、猟師たちが皆小幡さんの家に集まり、居間も客間も開放する騒ぎだった。
奥さんと美沙子さんが、慌ただしく料理の準備をする。俺も参戦した。3人も台所に立つと統率が取れなくなりそうだったが、案外奥さんはそういう状況が得意らしい。美沙子さんも俺も、奥さんの的確な指示で次々と料理を作りあげていった。俺は下準備と洗い物の他に、あり物でいくつかのつまみを作った。これがなかなか好評だった。今度作り方教えてねぇ、と奥さんが可愛く言った。
あっちゃんの差し入れてくれた日本酒は上等で、あっという間に一升瓶が空になった。次から次へと新しい酒が開いていく。鷹之だけは一滴も飲めないということだったので、奥さんに出されたバヤリースを子どもたちと一緒に飲んでいた。
俺はだいちゃんに新しい日本酒を注がれながら、
「うそでしょ?レージくん、その顔で板前なの?」
と詰め寄られた。デジャヴだ。鷹之がこっちを見ながら笑った。
あまりにも盛り上がったので、俺は帰るタイミングを逃してしまった。本当は12時を過ぎたら一滴も飲まないつもりだった。今夜遅くにバイクでここを出るには、そうしなければならなかった。だが、勧められるがまま飲み続け、気づいたらもう15時だ。
結局、俺は出発を翌朝にずらすことにした。泊まる場所はどうしようかと思っていると、奥さんがもう一泊していけと言った。
「一泊も二泊も一緒よぉ。タカちゃんもよかったらおいで」
鷹之は返事を渋っていたが、結局また同じ部屋に二人でいた。
深い夜だった。外では終わりがけの虫の音がか細く聞こえた。
鷹之の部屋で、俺は昨日と同じ机にノートパソコンを出して作業をしていた。明日やる予定だった事務仕事を、今のうちに済ませておきたい。暗い部屋に、俺のパソコンの画面だけが青白い光を放っていた。
鷹之は後ろで布団にもぐり、俺に背を向けている。時折スマホを出して何かを確認していたから、寝ているわけではないようだ。
キリがついたところで伸びをすると、鷹之が「終わったのか」と聞いた。いつの間にか、俺のことをじっと見ている。
「悪い、寝るの邪魔した?」
彼は別に、と言って、また横を向いた。その横顔を見ながら、俺は昨日の夜の会話を思い出した。
「……なあ、昨日さ、呪われてるから誰も好きにならない、って言ったじゃん。あれどういうこと?」
「べつに、そのままの意味だ。鳥を殺して……」
「山から出られなくなった。まぁ、その辺は置いといてさ、呪いって何?なんで好きにならないの?」
彼の口が少し開いたが、言葉はなかった。俺は彼が何か言うまで、ベッドの中で待つことにした。
今日は月がとても明るい。カーテン越しに差し込む光に清涼感がある。月光はゆったりと部屋に満ちた。
「……なんでそんなこと聞くんだ。」
「なんとなく、」
「お前には関係ないだろ、」
まあその通りだった。呪いのことも、彼が人を好きにならないことも、俺に関係はない。言いたくないと言うならそれまでだ。けれど俺は今、できる限り彼のことが知りたいと思っていた。俺は返事をせずに黙った。彼の内側から出る言葉が聞きたい。
静寂があたりを包む。
「……忘れられるのが怖い」
根負けした彼が口を開いた。かすれた声が月光に吸い込まれていく。
「呪われると、山から出られないだけじゃない。最後に、忘れられる」
最後?と聞くと、彼は少し間を置いて言った。
「死ぬとき」
それはまるで大人が子供へ言い聞かせるための脅し文句のようだった。おばけがくるよ、のような類の。
「死んだら、みんな俺のこと忘れるんだ。まるで最初からいなかったみたいに。それなら好きになったりしたって意味がないだろう、」
「そういうもんかねぇ」
その呪いの真偽についてはどうでもよかった。ただ、彼が忘却への恐怖を理由に誰のことも好きならないのだとしたら、あまりにも寂しいと思った。
「お前だって、俺のことなんかどうせすぐに忘れるんだろ、」
多分、昨日の晩の俺の話を言っているんだろう。あれは恋人のことを言ったのだが、彼にとっては恋人だろうがなんだろうが人間は全てそうだ、と言っているように聞こえた。だが一方で、その拒絶するような鷹之の声の中に、どこか切ない希望のようなものが宿るのを感じていた。本当は、忘れないよ、と言って欲しいのかもしれない。
「……わかんないけど」
今はそれで濁すことにした。
「俺さぁ、確かに色々付き合ってその都度忘れてくけど……好きにならないほうが良かったなんて一度も思ったことないね。付き合ってるときはめちゃめちゃ楽しかったし、もし相手がおんなじように俺を忘れたとしても、楽しい時間が共有できたんならそれで良しって思っちゃうなぁ」
「……、前向きだな」
感心しているのかバカにしているのかわからないような返事を寄越す。彼はそのまま仰向けになり、沈黙した。
俺はベッドの中で、密かにこの告白に驚いていた。
――「怖い」。
俺にはそれが言えない。無論俺にだって怖いことは山ほどある。だがそれを誰かに知られるのは、弱みを握られることと同義だと思っていた。彼はどういう気持ちで俺に「怖い」と言ったのだろう。他人に弱みを握られても平気なほど強いのか。それとも。
「こういう話、よくするの」
「……しない。今日お前に初めて言った」
「なんで?」
「わからない。」
その言葉に、自分の胸が誰かに握られたような息苦しさを感じた。それは同情のような優しい苦しみではなかった。
ベッドから上体を起こす。
――今、何も話さないほうがいい。口を開くと、言わなくてもいい言葉が出てしまいそうだ。
けれど、俺の意に反して口が動いていく。
「なあ鷹之、人を好きになるなんて簡単だよ」
彼の目がちら、とこちらを見る。
「俺とキスしてみよっか、」
「……なんで、」
「なんでだろうね。断ってもいいよ。だめならもう寝るから」
「……」
鷹之は俺の目を見たまま長く沈黙した。それから、ためらいがちに布団から手を出し、ベッドに置く。
俺は彼の手を取りながら下に降りた。屈んでその顔をまっすぐ見下ろす。横たわる彼の頬に右手を当て、親指で撫でる。触れた皮膚が熱い。
月に照らされた彼の顔は美しかった。
別に好みだとかではない。それなのにどうしてこんなにも気分が高揚しているのか、自分自身よくわからない。
それは同情なのか恋慕なのか、惹かれているのか好奇心なのか、薬なのか毒なのか。
――確かめる必要があった。
初めて見る果実に口をつけるように、触れるだけのキスをした。鷹之は触れる瞬間に一度肩を震わせたが、素直にそれを受け入れた。
きっとほんの数秒だっただろう。時間の感覚はとっくに消えていた。ゆっくり唇を離す。
「おやすみ、」
俺は自分の気持ちが悟られないよう、ベッドに戻って背を向けた。甘い感覚が体中を支配していた。
朝は凍るように寒かった。小幡さんいわく、真冬は実際に家のあちこちが凍るらしい。
早朝にも関わらず、小幡さん一家はみんな外まで見送りに出てきてくれた。俺のバイクに、笑顔で手を振る。その中で鷹之はひとり、手をポケットに入れたまま、焼き付くような視線を俺に送っていた。
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