第74話 呪文取引

 目が覚めると、夏帆は石造の荒屋の一室で寝ていた。


 昨日の記憶が少しだけ残っている。机の上のショットグラスを倒してして中身が机の上に溢れ、やばくない?って声が聞こえ始めた。すぐにバーテンダーが飛んできて、なぜか直美の声が聞こえた。青年に名前を聞かれたが断り、青年は舌打ちしてバーを出ていく。うっすらながらもそこまでは覚えている。しかしそのあとがわからない。まるで、明かりを消した時のように、パシッと記憶が途切れているのだ。


「あら、おはよう」直美がにこりと笑って、部屋に入ってきた。


「ここは?」


「ポーションプリンスよ。ここの店主がバーの常連客なんだけど、あなたのことを覚えていたの。昨日たまたま店にいて、それで、連れてきてくれた」


「えええ」と夏帆は乾いた声を出した。


「昨日、バーテンダーに呼び出されてね。至急来てくれって。まぁそれで、あなたをここに連れてきた」


「ほんとごめん……」


 直美はいいのいいのって言って笑った。「私もごめんね、昨日。あの……」


「いや、別に」


「でも、本気でやるつもりなら、ちゃんとネゴした方がいいと思う。そうやって、無理してうまくいなかった例、いくつも見たことあるから」


 直美は、店主呼んでくるね、と言って部屋を出て行った。


 しばらくすると、店主が入ってきた。店主は温かいパンと、ホットミルクを夏帆に出してくれた。


「これしかなくて申し訳ない」


「すみませんでした」と夏帆。


「君が謝ることではない」と店主は言った。夏帆のその意味がよくわからなかった。


 夏帆はパンを小さく千切って食べると、ミルクを飲んだ。


「おひさま薬は使われましたか?」と老人は言った。


「あ、忘れていました」


「一番の使い所でお使いなさい。あれはもう手に入らない。材料はあちら派に高値で買い占められてしまった」


「魔法薬の材料が……」


「呪文もだよ」と店主はため息をついた。「私は新たな呪文を使っては売っていた。それも買い占められた。政府は呪文の新創設を許可制に変えてしまった。上の人たちがあやつらの手に落ちたのだろう」


「そんなふうには見えません。親衛隊の会議で議論にさえならなかった」


「水面下で動いていることはわからない。それに、申し訳ないが、日本人が踏み入ることのできる領域ではないのだろう。イギリス人だけで、いや、もっといえば、老人たちの会議室だけで物事を決めてきたつけが回ってきた。私の小さな意見など届かない。政府の役人は、違和感にも気づかなかったか、あるいは多額の金を積まれたか」と店主。


「なんにせよ、世の生活を見ていないから起きたことですね」という夏帆はミルクを飲んだ。


「上が指示しないと下はどうも動けない。それでいいのかと若い頃は争った。でも、変えられない。ならば上に取りいって、上になる。その方がずっと世を変えられた。悲しいがそれが現実だ」


「顔色がだいぶ良くなったね。気分はどうかな?」と店主。


「気持ち悪さがなくなりました」


「そのミルクには、二日酔いのための薬を混ぜておいた。君はセンチメンタルかもしれないが、アルコールは魔力を鈍くする。飲み物には十分気をつけなさい」と店主は言った。


「そういえば昔、私は、告白錠の無効化薬を作りました。紅茶に混ざっていると、レモンティーの味がするんです」


 ふふふと店主が笑った。夏帆はこの話を前にもしたことを思い出した。


「君の論文を読んだよ。実際に使ってもみたがうまくいなかった。日本とイギリスでは気候や材料といった条件が違うからね。ただ、理論はギルド・ストラッドフォードの開発したものと似ていた」と店主は夏帆の目を見るようにしていった。


「往々にして発想は似るものですから」


「どうやってギルド君の論文を手に入れたか疑問に思わないのかな?まぁいい。ギルド君が亡くなったあと、彼の家によく盗人が入るようになってね。彼の開発した呪文がいくつか闇市で売られるようになったのだよ。あの時代は第一次ウッド派台頭期。靴磨きの子供達まで呪文取引に手を出すような、ちょっと危ない時代だった」


 店主は窓の外を見つめた。


「ずっと店主にお聞きしたいことがありました。血が噴き出る呪文をご存知ですか?」と夏帆。


 店主はメガネの奥の瞳を大きくさせた。


「昔、闇市で売られていた。私は競りに負けた」


「買った方をご存知で?」


「よく覚えている。けして、良い魔法とは言えないが、複雑な構造の割には、簡便で誰にでも扱えそうなものだった。いかにもギルド伯爵が考えそうな呪文だ。だからこそ、私は誰の手にも渡らないように潤沢な資金を用意した。しかし負けた。競り勝ったのはアジア訛りの老人だった。その呪文を、最近アメリカで見かけた。あちこちで売り買いをされている。世も末だ」


「世も末?」


「ああ。呪文とは本来、高値で買われるべき情報ではない。そのような世は健全とはいえない。これは私の持論だが、呪文が売られれば、魔法は無くなる」と店主は言った。



「風が吹いたら桶屋が儲かるみたいな話ですね」


「それはどんな諺かな?」


「些細な出来事でも、巡り巡って、大きな事象につながる例えです」


 昼過ぎになり、夏帆はお礼を言って、直美と外に出た。久しぶりに来たロンドンの繁華街は、まるで嘘のように閑散としていた。時折、小さな男の子が走ってくる。


「親を亡くした子たちね」と直美。


「なぜわかるの?」


「靴下が左右違った」と直美はつぶやいた。


 街並みを歩いてゆく。かさこそという枯葉の音が鳴る。「もうすぐクリスマスというのに、セールをする気配がない」


「ねぇ、直美」と夏帆。「私、日本に帰りたい」


「え?」


「竹内春人に会いたい」


「またとんでもないことを。まだ酔ってるの?」と直美。


「今な気がするの。夏海にはやめとけと言われた。みんな洗脳されたと。でも逆にいえば、それだけの発言力を持つ。彼は意外と、話を聞いてくれる人かも」


「夏海さんとまだ付き合いがあるの?それに、会って何を聞くの?」直美は怪訝そうな顔をした。


「わからない。でもこのどうしようもない状況では、そうするしかない。やっぱり結局、上に話を通すしかない。それにもしかしたら、血の出る魔法は……」


「待って……」


「直美が止める理由って、竹内家が私の両親の死に絡んでいるから?」


「……」


「気づいていた。薄々。J.M.C.が私の両親の死に絡んでいる。だから秘匿されている。でも怖くない。私の命も未来などもどうでもいい。竹内家は落ちぶれ、春人は軟禁中。きっと大丈夫。洗脳していたというのなら、それを私は利用する。でも直美、私は今、イギリスから帰国できない。どうしたらいい」


「ドラゴンに乗って帰るのがいいんじゃないかな」と直美はつぶやいた。「昔の人たちはそうやって長距離移動をしていた。よくハイド・ウィルソンの舞台に出てくるよ……。夏帆、やっぱりあなたはすごいわ。だてに首席じゃない。ついでに聞いてきてよ。なんで私の兄は死なないといけなかったのか」

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