第70話 マスカレード

 直美は夏帆の滞在している部屋で一泊していた。夜中にお腹の空いた2人は、ラウンジに行き、タパスをつまんだ。


「直美っていつもどこに住んでるの?」


「え、エジンバラにあるパパのマンション」


「……うん?」


「イギリス行くって言ったら買ってくれたんだ〜。オーディション受かったらロンドンにも買ってもらえるようにおねだりしてみる」


「それさ、素で言ってるの?」


「え、私またなんかまずいこと言った?」


「いや、むしろ申し訳なかったと思ってる」


 直美は入学式の時からこの調子だった。自慢だと思っていた。違う。そもそも天然なのだ。


「申し訳ないって何が?」


「あなたは、わからなくていい」


「そういえばさ、大丈夫なの?」と直美。「報道見たよ」


「うーん、批判の手紙が結構きてしんどかったかな」


「え、なんて書かれていたの?」と直美。いやいやなんで聞く?なんで気になる?これも天然だからなのか?


「え、いや……」夏帆は言い淀んだ。胸の奥がつかえて言葉がうまく出てこない。


「え、気になる」


「うーん……。仕事ができない、とか。日本に帰れ、とか」


 本当はもっと辛辣な言葉が書かれていた。しかし、口に出していうことができない。


「あー、それはさ、もうしょうがないよね。いいよそれ、気にしなくて。いちいち反応してたらやってらんないって」


 夏帆はもどかしい気持ちで、うん、と言った。今でも時折思い出し、夏帆はベットの上で呻いている。気にしないなんて難しい。できないからつらい。直美にそう言われることなんて想像できた。だから言いたくなかったのだ。


「そう言えば直美は、なんのオーディションなの?」


「ミュージカル。ハイド・ウィルソンの新作。まさかの最終選考に残ったの!」


 ハイド・ウィルソンの新作……。「すごい」と夏帆はワンテンポ遅れて言った。


「なんていうミュージカル?」


「マスカレード!」


「仮面舞踏会の話?」


「うーん、ワンシーン出てくるけどね。お互いに隠し事をしている男女の恋愛の物語で、どこですれ違ったかを回想していくお話かな」


 ハイドは本当にわからない人だな、と思った。三種の至宝の物語を解き明かそうとしているかと思いきや、今度は純粋な恋物語。それにウッド派が佳境のこの時に。夏帆はぼーと机の一点を見つめた。


「最終選考は何をするの?」


「この月明かりっいう曲を歌うの。歌詞だけが渡されているのだけど、楽譜はその場で配られるんだって。それで歌えるかどうか」


「それ意味ある?だって実際は何日も練習してから舞台に立つのでしょう?」


「いやむしろ、練習してないからこその役との親和性を見てるんだよ。作り込まない素を見られてるんじゃないかなぁ。ご縁ってやつだよ」


 直美は胸元から歌詞を取り出した。


ある晴れた日の 昼下がりに

紅茶を一口 紅が溶けゆく

私はまた 仮面を外す


オレンジ色の 夕日の中

ワイン片手に 映えゆく赤


ディナーとともに 会話を交わし

お互いの心 ナイフを入れる


口付け 触れ合い

我ら 心乱れ

初めてささやく 言葉を交わして


絡まり 抱きしめ

音楽が鳴りだす

そんな希望を いだいた夜


混ざり合う カクテルのよう

我ら2人 他は見えず


月明かりの 見えぬ夜に

2人きりで 煌めく街


シャフツベリー 通りには

雨が降りしきるわ

あなたのさす 傘の中で


君はただ 帰るのと

譲ることさえなく 私の夢は

つゆと消えた


明くる日も 明くる日も

ワルツを踊る 塔の上で


私と あなたは

愛と音を紡ぎ

仮面の下は 汚れのない

音楽で 脈打つ

世界崩れ落ちて

2人を残し 心酔いしれる


あなたと 私は

お互いを裏切り

お互い慰め 2人でゆく


「よくわからない」と夏帆は無表情のまま言った。実際には心当たりがあった。この曲は私とのことを歌っている。


「ここだけだとね。最初の方で、2人でディナーをするんだけど、その後の夜に何もしない日があるの。それで、お互い最後のシーンであの日を回想するの。もしあの時2人きりの世界に逃げていたら、毎夜ワルツを踊っただろう。あの時は無知でそうはしなかった。だからそれ以上のことを知ってしまった。無知なままなら2人でいれたのに、という曲。天才よねぇ、ハイドウィルソン」


「そんなディナーのあとで2人の世界に逃げるって……そんなことできたの?今から逃げましょうと言ったって、無知なら戸惑って終わった。知ったからそんなことを言える。過去に行けても、過去は変えられない」と夏帆は思いっきり顔を顰めた。


「どうしたの夏帆。つまり、主人公はどこかに別れた理由を作りたいのだと思うのよ。でも確かにあのシーン、あの時、逃げられたから、男側は振り向いてもらおうと躍起になった。その結果、やはり、自分の心情を覆せない、仮面をつけ続ける人生を生きるしかない、そう気がついていくの。そんなこと、と思えるけれど、ほんの少しのかけ違いが悲しいすれ違いになる。つまりそういうことだと思うけれど……」と直美は戸惑っていった。


 あの時、初めてハイドと博物館に行ったあの日、夏帆は確かにそのまま帰った。あの時にもう一つの選択肢があったのだとしたら、何かが変わっていたというのだろうか。少なくとも夏帆にはない。でもハイドにはそんな何かがあったのだろうか。あったとしたらなんなのだ。


 結局、夏帆がハイドに真実を何も話していなかったように、ハイドもまた話していなかったのだ。まるで2人とも仮面をつけたまま。お互いに、お互いのことを知ろうとさえしていなかった。


 でもこの曲は、まるで私のせいだと言わんかのようだ。違う。あなたは重大な罪を犯した。あなたは自らを殺人鬼だと言わなかったのだから。ああ、それは私も一緒か。


「この曲はいつ完成した曲なの?」と夏帆。


「え、さぁ。最近だと思う。送られてきたの昨日だし」


 昨日、つまりごく最近。もしかしてハイドは、まだ私に未練があるというのか。


「ねぇ、ハイド・ウィルソンって同級生なんでしょ?どんな人なの?」


「私に聞かないで」と夏帆は言った。「あまり、深入りしない方がいい」


 直美は少しばかり驚いた顔をしたものの、ただ頷くばかりだった。

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