第71話 無知の知

 体が軽くなったような気がしてきたころ、夏帆はマーガレットからもらった変装ローブを着て、政府局に向かった。


 運良くマリア・ワトソンと出会った夏帆は、新呪文創作部に行きたいと伝えてみた。ワトソンは少しだけ驚いた顔をしたのち、こちらへ、と言って部へと通してくれた。


 ダメ元で言ってみたところのあまりにスムーズな出来事に大変驚いた。もしかしたら夏帆と気がついて拘束を企んでいるのかも知れないと思ったが、それならワトソンに限って顔に出すようなことはしないだろう。黒崎リサ。今、夏帆は黒崎リサの格好に見えている。リサは、何者なのだ。


 ワトソンが通した先は、前に来た時に歩いた廊下だった。反対側からこの廊下を歩きやっと気づいたことがある。エリックアーカートが部長として名を連ねている。日本魔法魔術学校の創設者だ。


「クローカー、部長は?」とワトソン。


「今不在だ」クローカーと呼ばれた男性は夏帆をチラリとみると、やはりワトソンと同じように少しだけ眉を顰めただけで、ことの次第を把握したようだった。


 クローカーは名こそ呼ばないものの、おそらくリサと勘違いしている。このような時に、技術が世に出ていないのは素晴らしい。まさか、変装マントを着ているとは思わないだろう。特許を取得しているとは言え、世に出ている特許の全てが頭に入っている人などいない。


 変装マントの商品化にこぎつけなかった人たちの罪は大きい。このような技術が世に知られていれば、ワトソンは夏帆の正体に気がつけただろう。日本なら商品化できたというのに、ジョンソンはその頭の硬さで自らの首を絞めている。


 私の政治力の無さ。それもまた恨めしいところだ。ただなんにせよ、技術が隠されていることは今、夏帆の役に立った。情報の秘匿がどれほどおそろしいか。


「あとはよろしく」ワトソンはそういうと、どこかへ行ってしまった。


「昨日このドアが急にガタガタとなりだしたんだ」とクローカーはじっと開かずの扉を見つめた。夏帆はぐっと眉間にしわを寄せた。


「見ろ」とクローカーはバインダーを夏帆に渡す。


『10時、時の間、異常なし』

『10時、死の間、異常なし』


「これ、何ですか?」と夏帆。


 クローカーは、知っているだろうとでも言いたげに訝しがった顔をした。


「あ、いえ、そうではなくて。異常はあったと今仰ったものですから」と夏帆は取り繕ってみる。夏帆は記憶の中のリサを必死に呼び起こす。彼女なら、なんていうだろう。


「これは、扉ではなく、部屋の異常を確認するものだ」とクローカー。「少し異常があるだけでも大惨事に陥ることがある。最近は異常が多くて敵わん。魔法界の秩序が崩れだしているのかもしれないね」

 クローカーは言い過ぎた、とでも言いたげに、手で口を覆った。


「ほら、ここだよ」とクローカーは取り繕うように、バインダーの次の一枚を見せた。


 そこには『11時、開かずの間、ドアが突然揺れだす』と書かれていた。


「どうしてそうなったのか調べろ、と部長に命じられたんだ。そもそもこの中に何があるかもわからないのに、どうしろっていうんだろうね」

 クローカーは困ったように眉を顰めた。


「文献を調べることは有効ですよ。他の日に同じことが起こっていないか、とか、天文学者の資料を集めて何か異常気象が起きていないかとか……、あとかつてこちらに勤めていた人の話を聞いたり、論文を調べてみたり。人間界の資料も案外……」


「気の遠くなるような仕事だ」とクローカーの表情はますます暗くなる。「驚いたな。君が調査員が向いてそうだなんて」


 夏帆は眉を顰め、開かずの扉を見つめた。そして、何かを思いついたかのように扉へと近づいて行った。


「でも、不思議ですね。記録上、このドアに何かが起こったことはないのに、なぜ昨日急に動き出したか……」


 夏帆はドアノブに手をかけた。指に少しだけ力を込め、ドアノブを回すとカタリ、といって動き出した。夏帆は目を丸くした。


―ドアノブが……動いた……?


 なぜだか急に恐ろしくなり、手をぱっと放した。クローカーは終始バインダーに夢中だったようで、その様子に気づいていない。


「あの、クローカーさん、今なんか……」


「えっ、何があったって?」


 夏帆はもう一度ドアノブに手をかけ回してみたが、今度はピクリとも動かなかった。


「すみません、勘違いだったみたい。なんでもありません」と夏帆。「あの、このギルド・ストラッドフォードとはどのような方なのですか?」


「昔いた部長だよ。こいつのことはよく知ってる。昔はよく一緒に仕事をした。部長を歴任したのち、もっと研究がしたいと言って政府局を退局した。それでしばらくは研究所にいて引退した」


「魔法論を出版したのは?」


「老後だ」


「どう言った方と、研究なさっていたのですか」


「お前は誰だ」とクローカーが言った。「まぁ誰でも構わんが、なぜマグラのなりをする」


「たまたまリサの格好をしているだけです」


「リサか、あの子はリサっていうのか」そうかぁ、とクローカーはやけに感心したように言った。


「私は、ギルド伯爵について知りたいのです」


「それでここまで来るのは関心だ。うん。いいところに目をつけた。ん、まて、でもなぜ君は姿を隠さねばならん。何か後ろめたい事情でもおありなのかな」


「いえいえ、政府局など簡単には入れないではないですか。これが噂のあかずの扉かと一目見たかったわけですよ」


「なるほど。でも私は警備に連絡しなければならんなぁ」


「ええどうぞ。私は今はシャドー。本体は別のところにおりますから。さぁそれで、ギルド伯爵は誰と研究をしていたのです?」


「それを知らぬということは、イギリス人ではないな。うーむ、訛りからは判別ができん」


「お褒めの言葉と捉えておきましょう。ギルド伯爵はロビン・ウッドに殺された。なぜ」


「ああやはり、ロビン・ウッドに殺されたのか。噂は本当だった。そのあたりは本で調べればすぐわかる。やつは、タイムキーの開発者。その秘密を探るうちに、世の深いところは潜りこんでしまったわけだ」


「なるほど。では、共同研究者に関しても、調べればわかるのでしょうか」


「いいやわからないだろうな。残念だが君は八方塞がりだ。誰も答えてはくれん」


「なるほど。私は何も知らない。知りうる術もない。でもそれは、一つの知見ですね」

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