第72話 偽善者

 翌日の午後。シャフツベリー通りで直美と落ち合い、オペラ座の怪人を見に行った。


 直美はずっと無言だった。


 ミュージカルを見に来たのはもちろん初めてだった。豪華な衣装、耳に残る音楽。あった驚く演出。何よりも、美しい歌声。


「すごいものを見てしまった」終演後、興奮した様子で夏帆は直美に語ったが、直美はやはり一言も話さない。


 夏帆は近くのイタリアンの予約をとると、直美を連れて行った。ハイドと来た場所だ。店員は偶然にもあの時と同じ席に連れて行った。


 当時の思い出が浮かぶ。なんて事のない会話を全て覚えている。


 何も話さない直美をよそに、夏帆は、サラダとパスタと肉を頼んだ。直美は午前はオーディションを受けていた。出来が良くなかったのだろう。


「偽善者」と直美がつぶやいた。夏帆は驚いた。「私はハイド・ウィルソンの全てが好きだったのに。才能も、人柄も。でも偽善者だった」


 夏帆は何も言わず、サラダを取り分けた。


「聞いて夏帆。彼の曲、盗作よ。人間界のミュージカルの丸パクリ。魔法界だからってバレないと思ってる」


「……え?」


「人間界で流行ってる音楽を使って舞台を作っていたの。そりゃ売れるわよ!同じヒトなのだから!」


 隣のカップルがチラリと見た。高級店だから静かにしましょ、と夏帆は小声で呟いた。


「ねぇ夏帆、あなたは知っていたの?」と直美。「なんか昨日様子がおかしいと思ったけどそういうこと?知っててオーディション受けさせたの?」


「え、いや、そういうわけではないけれど……。でもそう言われると、心当たりはあるかも。デヴィアンがラブストーリーというフランスの曲を知っていた時焦った顔をしていたし。え、だから……」


 ハイドはそんな人ではない。そう思いたい。でも、確かにミミに対しても、パクってるって言っていた。自分がしていなかったらそんな発想になるだろうか。


「楽譜渡されて、私怒れてきちゃって、全部日本語の元の人間界の歌詞で歌ってやったわ。あーあ、絶対落ちた。せっかくのチャンスだったのにね。でも、許せない」


 落ちるだけならマシだ。殺されないといいが。


 直美は頬を伝う涙を拭った。「ごめんちょっと、お手洗い行く」


 うん、と夏帆は行った。直美が立ち上がる。夏帆はウェイトレスが運んできた肉を切って少しだけ手をつける。目の前に誰かが座っている。男性の厚い手だ。


 夏帆は顔を上げることができない。


「もはや引けない」と夏帆は呟き、顔を上げた。目の前にはハイドが座っていた。


「ブラヴァ。なぜ君はここに」


「それはこちらのセリフよ」


「僕は今、君を駅で送ったんだ」とハイド。


「あー、あの日なのね。過去にタイムスリップしてしまったみたい。私そういう、体質みたいよ」と夏帆は言った。


「そうか」とハイドは表情を変えずに言った。


「驚かないの?」


「似たような人の話を聞いたことがある」


「そう。……。久しぶりね、ハイド」


「僕にとっては久しぶりではない。さっきまでそこにいた」とハイド。「久しぶり、か。未来で僕たちはうまくいないということか」


「さぁどうかしらね。私にはわからないわ。あなたがどうしたいのかも。でも、劇にしてくれたらわかるかもしれない。あなたの舞台を私は見に行く。きっとね」


「さっきの君もそう言った。見に行きたいと」


「時間がかかるわ。塔の上でワルツを踊り終えた時に完成する」


「予言はそれだけでいい。それで十分だ。それ以上、何も言わないでくれ」とハイド。


「あなたは何をしたいの。劇を作って」


「僕は僕の居場所を作りたいだけだよ。幼い頃から転々としてきた。ある時は寒く、ある時は暖かい場所にいた」


「ご両親は?」夏帆が怖くてずっと聴けなかったことだった。


「もうこの世にはいない」とハイド。


「悪魔との契約には、魂の提供が必要なはず」と夏帆は言った。ハイドはそれには答えなかった。


「ところで君は、なぜリサの格好をしている」


 夏帆はローブを取った。「よくわかったわね」


「初めから君は君として話していたじゃないか」とハイド。


「私も忘れていた。あなたの前で仮面はつけられない。あなたが長い年月をかけそうしてくれた。だからこそ、私はあなたから離れるの」


「なぜ?」


「怖いからよ。私自身が変わってしまうのが。それであなたはなぜリサを知っているの?」


「リサはイギリスにいた。旧友さ」


「そう」


「君はもう元の世界に戻りそうだね。体が半分消えている。一つ聞いていいかな。もしその体質を改善したければ、したいか?」


「わからない。メリットも、デメリットない。私は今初めて、過去へと飛んだのよ」


 しばらくすると、お手洗いから直美が帰ってきた。「ダメじゃない、夏帆。ローブを着て」


 ごめん、と言って、夏帆はローブを着た。


「まずいことになった。やっぱりつけられていたのよ」直美はそういうと、式神の狛犬を出し、狛犬が騒ぐそのすきに、夏帆を連れて瞬間移動した。


 降り立った位置は路地裏だった。


「お会計……」


「置いてきた」


「流石、直美は仕事ができる。私たちを狙ったのは政府関係者?」と夏帆。


「いいや違う。あれはウッド派ね。なんで親衛隊は守ってくれないんだろう。護衛の1人や2人つけてくれてもいいのにそれもない。こういう時だけ。まるで……」


「偽善者。そうね、そんなこと始めからわかってた。だから、アーサーが死んだ時点で私はもう終わりだった」


「どういうこと?」


「さあね。でもきっと、アーサーが私を守っていた。なんでかしら。罪悪感?」


 罪悪感?なんに対する罪悪感というのか。私はなぜ自然にこの言葉が出てきたのだろう。


「私も人のこと言えないけどね。たまたまイギリスに来て、たまたま親衛隊にいる。どこかで掛け違えたら、あの少年のように、私もウッド派にいたかもしれない。人を殺していたかもしれない」


「私の兄も人殺しだった」と直美は言った。ごめん、と夏帆は言った。


「暴力ではなく、話し合いが理想なのに」と直美。


「そうかな?」と夏帆。「暴力はいけない。でも話し合いも、結局話し合いが上手い国が力を持つ。私たちはどこかで矛盾を抱えながら、うまく共存するほかない。だから、日本で、私ならロビン・ウッドを倒せるかもなんて、冗談を言いながら、ペガサスを育てるのどかな生活をしていたほうが、ずっと幸せだったに違いないわ」


「ペガサス?ペガサスを育てている人なんて聞いたことない。ドラゴンの間違いではない?」


 直美の前に、封筒が届いた。直美が触れた瞬間、封筒が弾けて小さなピンクの星が飛び、中から手紙が出てきた。オーディションに合格したとの、ハイド・ウィルソン署名付きの手紙だった。


「なんで……」と直美は困惑した表情で夏帆を見た。


「彼にとっては仲間を得る手段なのでしょうね。個人の主義主張も、同じ考えを持つ人に同化しているだけ。本音は権力を、もっといえば、人々をコントロールしたい。でも、直美がやりたいなら、やればいい」


「私はやりたい。でも、ハイドの仲間になれない」


「考え方を変えればいい。向こうの仲間になれば、あなたも夢を叶えられるし、向こうの懐を探る事もできる。そうしたら、殺人以外の方法を思いつくかもしれない」


「ハイド・ウィルソンを殺さない方法をってことね」と直美。


「やっぱり私の話が理解できるのね?」


「ええ。気づいていた。あなたが彼と付き合っていて別れたと勘づいた時から。彼はロビン・ウッドでしょ。彼の主義主張は、そのうち演劇を通して広まる。彼が死んでも、思想が広まれば、生きてるのと同じよ。逆に考えるの。思想が広まなければ、彼を殺さずに、倒すことができる。歴史を秘匿できる」


 微かな風が、足元の枯葉にカサカサと音を立てさせた。


「彼は悪魔よ。そもそも殺せない」と夏帆。


「でも鏡に閉じ込めることはできるでしょ」


「彼は滅多に姿を見せない。雲を掴むのと同じこと」


 急に胸のつかえを感じた。空間にゆがみが生じたような違和感が、体中を走る。まるで何かに引っ張られているかのようだ。それは直美も同じであるようだった。砂埃一つたっていないのに、風が吹き荒れ、イラクサが折れそうなほど傾いている。まるで風がどこか特定の場所へ向かおうとしているかのようだ。


「21時か。まだ帰る時間ではない。人間も魔法使いも同じヒトなのね」


 直美は杖を取り出し、大通りを見ながら、ぼそっとつぶやいた。


 まるで、魔法界が小さくなっているようだった。世界そのものが何かにおびえ、委縮している。我々は戦えと言っているかのように。


「ロビン・ウッドの持つ選民思想は古今東西共通の認識よ。『魔法は特別だ』という思想を批判するために集まった軍団が親衛隊であるはずなのに、その帰着を魔法に求めている」と夏帆。


「人間の力を使えというの?」


「少し違う。人間の力を利用することに、なんの差し障りもない、と言いたい。彼らはけして、劣ってはいない。むしろ発展を望まない我らこそ」


「自己否定はよくない」と直美は言った。「でもそれならロビン・ウッドを魔法界の過去と現在と未来から永遠に消しさることができる」


 直美の言葉に夏帆はうなずいた。


「直人が言っていた。『魔法使いとは人間から進化して現れた生体だ。それならば全ては人間界に通じる』。この真の意味がようやくわかった気がする」


「待ってでも、ロビンは本当に選民思想なの?共生するために、我々の国と土地を持とうって話なのでは?」


「共生?それこそ偽善者。そんなことはできない。それは、歴史が証明している。一度我々は全てを壊し、壊したものとして優位に立たねばならない」

 

 夏帆は地面に向けて一発撃った。直美はびくりと体を震わせた。空気に衝撃波が走り、体の捩れは解消された。


「わかってて、言わないでくれていてありがとう。私、やるよ。ミュージカルの主役。やって大成功してみせる」


 夏帆は直美ににこりと笑みを向けた。

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