第68話 空想と現実

 夏帆は、日本の医務官のいるホテルで一泊したのち、高月局長の元へと向かった。夏帆の手は珍しく震えていた。


「震えて無理もない。怖かっただろう。命があってよかった」と局長は言った。


「他のみんなが心配です」


 局長は今朝の朝刊にチラリと目をやった。夏帆も局長の机の上に乗っている新聞をちらりと見た。人間界の新聞が載っている。「アイスランド、噴火からの復活」と書かれている。


「校長にデリラ・ポーフォートが就任したとある。ウッド派に乗っ取られたとみて間違いないだろう」と局長。


「なぜ学校を」


「何か意味があるのかもしれない。例えば、何か武器のようなものが隠されているとか」


「そんなもの、あの学校にはないでしょう」


「情報だって武器の一つだ」と局長は言った。「なんにせよウッド派は執拗に学校を狙っているように見える。ただ妙だ。アーサー・パウエルの死んだ今、学校にくらいにならスパイをいくらでも潜り込ませることができる。生徒を利用したってもいい。学生運動でもない限り、わざわざ大事にする必要性はない。ここまでうまくやっていたあちらのことだ。そこまでバカではないだろう。もしかしたら何か別の動きを隠そうとしているのかもしれない」


 ハイドがそこまで考えているだろうか、と思った。それよりは、日本の技術を教える私を学校から追いやろうとしたと考える方がまだ納得いく。あるいは、あのハイドのことだ……。


「三種の至宝を探しているとか?学校はもともと教会でした。その教会は、至宝をコンセプトに書かれたウィリアム・ピアーズの三大悲劇、すべての作品に出てきます。それでかも……」と夏帆。


 高月は、何を言っているんだ、という顔で夏帆を見た。夏帆は黙り込んだ。


「三大悲劇はあくまで小説だろう」と局長は眉を顰めた。


「至宝を探した者は何人もいます」


「仮に現実に存在するとして、それを何に使う?最強の武器になると言われているが、本当かはわからない。そもそも最強とはなんだ。人によって定義が違うだろう。そんな危ない橋を渡るか?」


 リサは昔、最強の魔法使いになりたいと言っていた。最強って何?と聞くと、リサは何も答えなかった。


「でもピーターは至宝を使ったと、使ってロビンに勝ったと聞きます」


「あくまでパウエルの考察だ。至宝ではない別の要因があったかもしれない。それに力の発現は不十分だったんだろう」


「でも我々は、至宝を最後の望みとしている。その望みを我々から奪う魂胆かもしれません」


「それはありうるな」と言った後、局長はため息をついた。「これでまた仕事がややこしくなった。イギリスは今危険地帯として認定されようもしている。我々外交官も撤退命令がでるかもしれん……道半ばではあるが……」


「昨日はホテルを取っていただき、ありがとうございました。ずっとはいられないので、親衛隊に掛け合ってみます」と夏帆は急いで話をずらした。もし撤退命令が出たところで、夏帆は今更日本に帰るつもりはなかった。この状態で、皆を見放して、帰国などできない。仮に仕事であったとしてもだ。


「残念だがそうはいかなくなった」と局長。「君がスパイであることをスクープされた」


 局長は朝刊の一面を夏帆に見せた。ジョンソンを尋ねに行った時の写真がある。「ジョンソン大使に近づき、日本の関係者を、イギリス政府高官に合わせようとしたとある。やられたな。君の尻尾を掴むことが、ジョンソンの目的だったわけだ」


「いかにもジョンソンのやりそうなこと。私は賭けに負けたようです。でもイギリスはそれでいいんですか……。私は両国のために働いてきたのに。私がウッド派に落ちてしまうかもしれないというのに」と夏帆は怒りを抑えるように静かに言った。


「君は帰国せよ。これ以上ここにいるのは危険だ」


「こんな中途半端な状態で?みんなは、リズ先生やジェンマは?青木君や、直美や、立川や……それに、それに……」


 なんで私は、他の人のことを心配しているのだろう。夏帆は震える手を抑えるように両手を握り合わせた。


「君の気持ちはわかるが、局長としては君をこれ以上とどめ置くわけにはいかない。それに、現段階では、夏帆は単独行動だと見解を示している。しかしこれは我々への最後通告だろう。日本政府が君の行動に絡んでいると世間が知れば、それこそ終わりだ」


「外交と人命、どっちが大切ですか?」


「それは君の描いている机上の空論、いわば空想の世界のお話だよ。これは物語ではない。現実だ。もちろん残念だと思っている。私にだってイギリス人の旧友はいる」と局長は静かに言った。


「日本の技術は、人命救助に使わないと意味がないでしょう。逆に今こそチャンスです。それに、私なは必ずや、ロビン・ウッドを倒して見せます。心変わりさせます」


「帰国せよ。これは業務命令だ」


「なら仕事を辞めます」


「辞めてもいいが、奨学金の返済はしてもらうことになるぞ。それに、日本に帰って仕事があるとは思うなよ。君は高橋の娘なのだからな」と局長は夏帆の目をしっかり見て言った。その言葉には強い意志があった。


「高橋の娘?それがなんだというのですか」


「……」


「教えてもらわなければわかりません。あなたが黙り込むのは、知れば私が傷つくからですか?」


「そうだ」


 夏帆はため息をついた。それから、みんなそういう、とつぶやいた。


「辞めてもいいとあなたはおっしゃいましたよね。なら辞めます。たとえ、仕事がなくても構いません。私は英語ができる。世界のどこでも働ける。辞めて、親を調べて、そしてロビン・ウッドと戦います」


「好きにしろ」と局長は言った。


 夏帆は部屋を出ていった。

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