第9話 静かに近づく奴の足音

 夏帆は白い教会から逃げるように走って帰った。寄宿舎に戻る途中、ハイド・ウィルソンと出会った。


「あれ、何でこんな時間に」と夏帆は言った。すっかり日は落ちて、あたりは暗くなっていた。


「僕は寄宿生だから」とハイド。


「でも寄宿舎には誰もいないはず」


「君のは女子寮、僕はもっと向こうにある男子寮」


「そういうこと……」


 夏帆はハイドと寄宿舎に向かって歩き始めた。草原を踏みつけるクシャッという音が、夜長の空気をわずかに振動させる。


 夏帆は、白い小さな教会での出来事を話した。


「あー、サー・ウィリアム・イースター卿か」とハイドは言った。


「彼は、約500年前に魔女狩りで死んだ亡霊だよ」とハイド。「あの教会は、彼の寝床さ。だから誰も近づきたがらない。でも僕は彼のことが嫌いではないよ。500年も世界を見ている分、物知りで、たまに新しい演劇の相談に乗ってもらっている」


 夏帆は納得したように頷いた。


「なるほどそういうことか。でもなんで……。亡霊なんて初めてみた」


「さぁ、何か心残りがあるのだろう。それか、何か大きな力が彼を離そうとしていないとか。なんにせよ、当時のことを知っているのは彼だけだからね。衣装とか、小道具とか、詳しいんだよ」


「それで貴方の作品は、完成度が高いのね」


「見てくれたことあるの?」とハイドは身を乗り出した。


 夏帆は首を横に振った。


「私の昔の同級生が、あなたの大ファンだった」と夏帆。稲生直美のことだった。


「東の果ての国の人にまで見てもらえるだなんて光栄だよ」


「東の果て、詩的な表現で素敵ね」と夏帆。「あなたのファンは昔こんなことを言っていた。かつての王妃が暴君を騙し合わせ鏡に封印されるラストシーン。旧版の舞台では、私は生きている、と暴君が叫んで終わる。でもミュージカル版では、バレエシーンで鏡の精に取り囲まれて、無言のまま封印される。なぜ変えたのかって」


 ハイドはふっと笑った。その笑いは、多くの意味を内包するようで、夏帆の胸をヘラで撫でるように突いた。


「旧版での暴君は、王妃の手によって最期を迎えられたことに喜びを見出していたんだよ。新版は、騙された絶望と、そのような最期を迎えることへの当然の報いを表したかった。原作から読み取れる僕の仮説はこの2つだった。どっちが正しいかわからない。だから作ってみた」


「答えはわかった?」夏帆は笑みを浮かべた。


 ハイドは首を横にふった。「まだ探し中だ。そうだ、資料集めに、大英魔法博物館に行こうと思っていた。一緒に見に行かないか?そこに、ウィリアム・ピアーズに関する資料がたくさんある。きっと君にとっても面白いと思うよ」


「博物館?」と夏帆。


「ああ、ロンドンにあるんだ。無料で入れる。リズ・ミネルバが昨年まで館長を務めていた美術館だよ」


「館長だったんだ」


「彼女は、女性初の魔法局芸術課長だった。ゆくゆくは政府の局長になるんじゃないかって噂されていた。けど、パウエル校長が、対ウッド対策を名目に非政府武装組織を作ったという噂が出始めてから、彼女はここ学校の教師へと配置換えになったんだ。校長の監視かな、と僕は思っている」


「噂?」と夏帆は言った。ハイドの言葉の微かな違和感が気になった。


「なんにせよ、博物館に行ってみよう。新たな発見がきっとたくさんあるよ。次の土曜はどうかな?」


「ええ」と夏帆。


「おやすみ」とハイド。


「おやすみ」と夏帆は答えると、寄宿舎の中へと入った。


 部屋に戻ると一通の封筒が届いていた。在英魔法日本大使館と書かれている。封筒に触れると、パチンと光を放ちながら破れ、青白く小さな高月局長が机の上に現れた。


「ここにいられる時間は短いのだ」と高月局長は甲高い声で言った。夏帆は笑いが堪えきれなかった。


「何を笑っている!とにかく、今日は進捗報告の日だ。なぜこんなに遅くなった。30分の遅刻だ」


 あれ、そうだっけ、と夏帆は思った。夏帆は資料を探そうとして、まだ荷解きをしていなかったことを思い出した。


「えっと、まず、国王親衛隊の会議に参加して……」


「待った待った、報告資料の一つも作っていないのかい?それじゃあわからないよ。これからは資料を作って、ミーティング前に送付をしてくれ。それで?」


「国王親衛隊に関してご存じのことはありますか?」


「あー、情報筋から聞いてはいる。対ロビン・ウッド非政府組織だろう。軍を動かすことに政府は渋っていた。だから軍に頼らず私設軍を作る方針をパウエルが打ち出したところ、顔を潰された魔法局と揉めたらしい。始業式前にリズ・ミネルバが魔法局側の人間であることがわかり大問題になっていた。他には?」


「えっと、そのリズ・ミネルバと親しくなりました」


「君は一体何をしているんだ?私はアーサー・パウエルに取り入れと言ったはずだ」


 青白い小人でも、高月局長の言葉には十分威圧感があった。


「お言葉ですけど、どのようなご縁が、どう繋がるかなんてわかりません。十分意義があると思います」と夏帆。


「高橋君、君は何を勘違いしているんだ。これは急務なんだよ。回り道をしている場合じゃあない。来週はアーサー・パウエルに関する報告を必ずせよ。他に何か?」


 夏帆は首を横に振った。「では、私からだ。ロミオ・ポーフォートが死んだ」


「え?」


「たった今入った情報だ。おい、高橋君、どこへ行く」


 夏帆はカーキのジャケットを羽織ると、机の上に置いた小さな白いポシェットを肩からかけた。


「局長、私今からポーフォート家に様子を見に行ってきます」


「だからね、君は。これだって、向こう側から流された罠の情報の可能性もあるんだぞ」


「それでも結構です。どうせ私は噛ませでしょう?」


 局長は黙り込んだ。


「図星ですか?なら私が代わりに死にに行きます。そらなら私のこの任務に意味が出る」


「……。好きにしろ。私も時間だ。ではまた来週」


 目の前から局長が消えるのを確認すると、夏帆はポーフォート家へと瞬間移動した。


 前回と同じようにピチャッという音と共に湿地へと辿り着いた。夏帆は、過去瞬間移動した場所や、他人が瞬間移動した履歴を辿って同じ場所に行く術をすでに体得していた。


 保護魔法を抜けると、プリンスがやっていたように、玄関のベルを押し、扉を開く。目の前の長い廊下をゆっくりと歩く。その先の扉は開いている。


 中に入ると、ベスト姿のパウエルが難しい顔をしながら腕組みをして佇んでいるのが見えた。それに、スーツ姿のプリンスと、白いオータムコートを羽織ったミネルバ、外套を着たパトリック・ファス・ジョンソン。視線の先には、バタリと倒れ込んだロミオ・ポーフォートがいた。


 皆の視線が夏帆を突き刺すかのように冷たかった。今にも夏帆を殺さんとするかのような目だ。ジョンソンは何かを誰かに囁いている。夏帆は全員とチラリと目を合わせると、その奥で倒れ込んでいるロミオに近づいて、手をかざした。


-魔力が全く感じられない


「死因は?魔法ではない?」と夏帆。


「杖をお握りになったらいかが」とミネルバ。「どこに誰が潜んでいるかわかりませんわ」


 夏帆は首を横に振った。杖を握ると、分析が進めることが難しくなる。夏帆は再び手をかざして目を瞑った。


「いいや、魔法で殺されている」とアーサー・パウエル。


「ロビン・ウッドの手によるものってことですか」と夏帆は聞いた。


「なぜ、わかるの?」とミネルバは食い気味に言った。冷たい響きが夏帆を蝕む。授業とはまるで違うように感じる。


「まぁまぁ。私の予想と同じだ。おそらくウッド本人によるものだろう。これだけ、完璧に殺されたのだから」とパウエルは言った。ミネルバは、ふっと息を吐くと腕を組み直した。


「それにしてもロビン・ウッドが女性との噂は本当のようね」とミネルバ。「香水の香りがほんのり残っているわ」


「金木犀ですね。それも人間界のブランドもの」と夏帆。


「なぜそこまでわかるの?」とミネルバ。ジョンソンもコートの下でしっかりと杖を握りながら夏帆をじっと見遣っている。


「私が持っているものと同じだからです」


 夏帆は嫌な予感がした。もしかしたら、黒崎リサがここに来たのではないか。彼女はこの金木犀の香りが好きだった。夏帆にお揃いでプレゼントするくらいには。


「でも女性だったら、香りを残すなんてへまをしますか?」夏帆は自分に言い聞かせるように言った。確かに、とアーサーは頷いた。


 黒崎リサは、日本で陰陽道を学んでいた。学年一の陰陽師青木裕也に教えてもらっていたくらいだ。


 確かに陰陽道を使えば、魔力の痕跡は残らない。


-もしリサがロビン・ウッドなら彼女は日本で最先端の技術を知りすぎた


 でも、夏帆が日本の学校でみた彼女は決して悪人ではなかった。それは間違いのない事実だった。

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