第3話 美しい魔法界
「だから君は!」
高月局長の怒鳴り声が在英日本魔法大使館中に響いた。夏帆は身震いした。怒鳴り声を聞くと、どうも孤児院の院長に灰皿を投げつけられた時の記憶を思い出す。平然を取り繕うように唾を飲み込んだ。
「何度言えばわかるんだ。君は、どこで何を……」
「道に迷ってしまって……」
夏帆は声こそ小さいものの、内心怒りで爆発しそうだった。仕方ないではないか。初めて来た場所で迷うことなどよくあることだ。
「道に迷っていたとして、連絡くらいはできただろう。それに、イギリスには魔法使い用の二階建てバスだって走っている。迷うだなんて言い訳にはならないんだよ」
大使の声には圧があった。夏帆は思うように言葉が出ず、頭を抱えた。夏帆の自覚するアイデンティティは頭が切れることと記憶力が良いこと。日本にいる時にその力を駆使して生き延びてきたのだ。しかし、その二つの力が使い物にならないとしたら、生きる価値さえも失ったような気持ちになる。イギリスに来てから、どこか調子がおかしい。
「バス?」
夏帆から出てきた言葉はそれだけだった。
「とにかくだ、君はここに遊びに来たわけでも、学びにきたわけでもない。仕事で来たんだよ。わかるね?ポテンシャルがあるかどうかもわからない君に、莫大な血税をかけているんだ。君の家賃も、衣服も、食糧もすべて税金だ。遅刻は論外。それに無断遅刻はもっと論外だ!」
そんな言い方をしなくても。それにスパイをやれと言われたから、渋々やっているだけだ。そもそもバスがあるというなら先に教えてくれ。夏帆は頭の中に、言い訳を並べたてた。
「君は学生ではないんだよ。もう社会人だ、いいね」
「すみません」
局長は夏帆にA4サイズ1枚ほどの大きさの羊皮紙を手渡した。イギリスに来てから、羊皮紙を見るのは2度目だった。日本ではもうすでに使われていない羊皮紙。イギリスでは何百年も前のまま、時が止まっているかのようだ。
「ここが、君がエジンバラ魔法魔術学校に行くまでの宿だ。日本から送った荷物は既に学校の寄宿舎に運んである。明日の朝9時、宿に転校先の教諭が君を迎えにやってくる。君は教諭の指示に従いたまえ。日本はイギリスと国交がない。くれぐれも日本国内の情勢や技術を口外しないこと。そして君がスパイであることもだ」
「はい」
夏帆は一礼すると、大使館を出ていった。
指定されたホテルは大使館から遠く離れた郊外、ハウンズローにあった。駅からは意外にも近い。しかし、お世辞にも綺麗とは言えない古い建物だった。硬い扉を開けて中に入る。夏帆が一歩進むごとに、床板の軋む音がすした。廊下の窓から見える風景も、薄暗い住宅街のみだ。
チェックインカウンターに行くと、髪が細く、腕の痩せ細ったおばあさんが、無言のまま部屋の鍵を手渡した。このおばあさんからは、僅かだが魔力を感じる。魔法使いだ。ここは、魔法使い専用のホテルなのだろう。
鍵を開けて部屋に入った。部屋は想像通りの質素な作りだった。硬いベッド、壊れそうな衣装棚。部屋の中にはそれしかない。水回りは共用だ。
時折近くを通る電車の振動でホテルは細かく揺れた。
夏帆はしばらくベッドの上に座って、ぼぉっと電車の音を聞いていた。やがて、部屋に耐え切れなくなった夏帆は少しばかりのお金と杖を持ち、ホテルの外へと出た。時刻は既に21時を回っていた。通りには全くといっていいほど、人が出歩いていない。
通りにある小さな住宅から、黒い長髪の男性が出てきた。隣にいる女性も、金色の輝きを持つ髪をしている。その二人だけだ。女性は真夏にも関わらず黒いマントを羽織っている。イギリスは夏でも涼しいとはいえ妙だった。
夏帆は小走りですぐそばにあった路地を曲がると辺りを見渡した。誰もいない。誰にも見られていない。夏帆はロンドンの中心部のある方角を向くと、息を整え、瞬間移動をするために強く地面を蹴った。
移動先は、ほんの数時間前まで滞在していた商店街だった。夏帆はいつもと同じように、足を肩幅まで開き、爪先に力をこめて地面へと降り立った。日本と違い、アスファルトで舗装なされていない道路は、着地する際に夏帆の足をもたつかせた。手を大きく回してバランスを取る。
商店街はレンガで壁のように覆われており、人間からは見られない作りになっていた。おそらくレンガに魔法がかけられ、騒音や気配さえも吸収しているのだろう。夏帆は、魔法使いにしか入れない秘密の場所に入れることに、少しばかり優越感を覚えた。
商店街は、夕方より人が多く、賑わいを見せていた。狭い道路で人々がすれ違い、思い思いに杖を振ったり、箒を乗り回している。蒸気でも発生しそうなほどの過密さだ。夏帆は思わず息を飲み込み、目を見開いた。心の奥底が大きなスプーンでかき混ぜられるような感覚。そしてそれを必死に抑えようとしている自分。
目の前に広がっていたのは、まさしく“魔法使いの国”だった。そこに人間の技術は何一つない。太陽という大いなる自然の力もない。男女の差も貴賤の差さえもない、そこは全て魔法でできたユートピア。夜の闇が人々の隙間を埋め、その”国”を完成させている。
「理想?」
夏帆は胸を抑える。魂が震える感覚を認めざるを得ない。年齢と共に失いつつある想像力を無限に掻き立てられる。今ならどんな魔法も解読できる気がする。どんな任務もこなすことができる。人間の文明触れることのない、誇り高き魔法使い。そこに私の生きる意味があるような気がする。そういう確かな感触を夏帆は初めて得た。
夏帆はその心臓を押さえつけるように深呼吸をした。だめだ、私は日本のスパイ。でも、日本の街よりずっとここは楽しそうだ。
鉢植え屋では、踊るようにくねる蔓を持つ植物や、今にも指を噛み切りそうな花が売られている。空にはペットのカラスやフクロウが飛び交う。子供達は、パチパチと光る爆弾を夜空に投げつけ、赤や黄色や緑の花火を闇に散らして遊ぶ。そして一本入った路地裏は、いつ襲われるかわからないような怪しさを放つ。
夏帆はゆっくりと歩を進めた。大きく息を吸うと、空気を体内でくゆらせ、ゆっくりと魔法を解読した。夏帆の心の底にぽっかりと空いた穴が埋まっていく。
ああ、全てを感じる。多様に入り組む小さな魔法を全て。
石畳の上には噛みつきキャンディーが零れ落ち、口のようにパクパクと変化しながら、這いつくばるように道を歩んでいる。
「そーりー」
夏帆は、思わず誰かのローブの裾を踏みそうになって口走った。黄土色の面に金色の糸の刺繍。隣を歩く金髪少年は嬉しそうに手型の置物を握りしめている。きっと、買ってもらったのだろう。
箒屋の前では子供たちが群がり、新型の箒を前に目をキラキラ輝かせて見つめている。カフェでは大男がスプーンに魔法かけ、何も考えずにコーヒーを混ぜている。
「ほら、かけた、かけた!」
道端では賭け事が行われていた。金の長髪の青年は声をあげる。
賭けの客は、仕立てのいいスーツを着たゴブリンたち5人組だった。
夏帆の目の前を、小さな光が通り過ぎていく。フェアリーだ。葉っぱサイズの小さなフェアリーの集団は、光を粉のように振り撒きながら、スピードをあげて進んでいく。
これこそ美しいユートピア。
日本ではまるで見なかった光景だった。
日本は、世界で唯一魔法使いが『領域』という界の違う異空間で暮らしていた。他の国々は人間とともに、人間の世界の一部で暮らしている。
そんな日本は、領域内で魔法使いと魔法生物のみが存在する世界を作り上げてきた。人間界との行き来は可能だが、役所での申請が面倒で滅多に行われない。
しかしそんな日本魔法界でもこのようなユートピアはなかった。多くのヒトで主要都市は覆い尽くされ、ヒト以外の生物は、動物園で管理されている。日本の魔法使いは、領域、という魔法界で、人間界とは一線を画した独自の文明を築いているいるはずなのに、人間と似たような世界を作り上げている。なんと皮肉だ。
商店街の中に1つだけ日本と変わらないものを見つけた。夏帆は急速に興奮が収まっていった。
金文字で『ポーション・プリンス』と書かれた立て看板がある。日本魔法界の主要通り、アーカート通りにも同じ店がある。魔法薬および魔法薬材料を売る店だ。餞別にもらった魔法薬トランクも、このお店の代物だった。
目の前にあるポーションプリンスは、商店街の一画に、異様な雰囲気を放って建っていた。道に面してイングリッシュガーデンがあり、その奥に石造りの小屋が立っている。
入口の小さな段差には苔が生えている。イギリスの湿度は十分に高かったが、小屋の周りは他以上に湿気っていた。
木の扉を開けると、ギギギッという音が鳴った。小屋の中には机一つなかった。奥にもう一つ部屋がある。先ほどの杖屋よりも薄暗く、黴臭い。賑わいを見せる通りとは裏腹に、壁が全ての音を吸収しているのか、室内はしんと静まり返っていた。人気が無く、寂しさを含んだ空気が、孤独を思い出すかのように夏帆を刺激した。
「珍しくお客さんだね」
腰の曲がった白髭の老人が、汚れたエプロンをかけ、おぼつかない足取りで奥の部屋から出てきた。
「まあまあこちらへ。おかけなされ」
老人は自身の身長と同じくらいの先の丸まった大きな杖を、どんと床に打ち鳴らした。
老人と夏帆の間にカウンターが現れた。夏帆は目の前にできた丸椅子に腰をかけた。
「ありがとうございます。素敵な魔法ですね」と夏帆は言った。
「いえいえ、ここは湿気も多く、出したままだと黴びてしまうので、普段はこうして片しているのですよ」と老人は言うと、カウンター越しに椅子に腰掛けた。
「それにしても今日は良い天気ですなあ」と老人は言った。
―good whether……?
「久しぶりに雨も上がりようやく洗濯ができます。もう一週間もため込んでしまって」
老人はかわいらしく満面の笑みを浮かべると、老眼鏡をかけた。
「これでおひさまも出てこれば日向ぼっこでもできますなぁ。お客さんは、お天気占いを今日はいたしましたか?」
「えっ、あっ、お天気占い?」と夏帆。
「明日は晴れますよ」
「そっ……それは良かったです」
夏帆は、老人の話が理解できないまま、ニコリと笑って見せた。
「実は、お天気を作る魔法薬をここら一体に吹きかけたのですよ。ほら、『おひさま薬』です。ご存知ですか?」
夏帆は、学校で全く習ったことがなかった。日本魔法魔術学校は比較的高度で進んだ教育がされていることで世界的に有名であるにも関わらずだ。比較的新しく開発された魔法薬なのだろう。海外で制作された魔法薬が日本に入ってくることはほぼない。
「いいえ」と夏帆。
「いえいえ、これはイギリス紳士の嗜む“ジョーク”に過ぎませんよ。しかし、おひさま薬というものは、本当にありますよ。今紅茶を出します」
そういうと老人はお店の奥へと消えていき、暫くすると温かいミルクティーの入ったカップを二つもってやってきた。夏帆にはまだ会話の内容が理解できない。
「おいしい」夏帆は一口飲んで言った。
「それは良かった」 老人はまたも満面の笑みとなった。「これはインドの品でしてね。ほら、あちらでは空飛ぶ絨毯を好むでしょ?昨年、その商売人と出会いましてね。ついでに高級な茶葉を頂いたのですよ」
「なるほど。あちらの国は“刺激的”なものを好むといいます。どうりで少し酸味の効いた紅茶ですね」
老人は白縁のメガネを少し持ち上げると、夏帆を吟味するように見つめた。
「あなたを見くびっておりました。高橋夏帆さん、ですね」
「なぜ私の名前を?」
「昨年アクセプトされたあなたの論文を読みました。あなたは、告白錠の無効化薬を口に含んでおりますね」
告白錠は真実を話してしまう魔法薬だった。夏帆は、その効果を無効化する薬を開発して特許を取得し、昨年論文を投稿していた。無効化薬を口に含んだ状態で紅茶を飲むと、どの紅茶もレモンティーの味がする。夏帆はスパイとして、いつ身元がバレようと大丈夫なように、常にこの無効化薬を口に含んでいた。
「私は日本からこちらに移り住んだばかりです。イギリスに住むあなたに言い当てられるだなんて光栄です」夏帆は満面の笑みを浮かべた。「しかし、鎖国をしている国の論文など、探し出すのも一苦労ではありませんでしたか」
「魔法薬や呪文は高値で取引されています。それに、実はこの店は日本に支店がありまして……」
「何回か伺ったことがあります」
「お得意様でしたか」
「それで、私に何を告白させたかったのでしょう?なぜ試したのです?」
「いえいえ、試したつもりなどありませんよ。告白錠は試飲のつもりで」と店主はニコリと笑った。「何も告白錠入りの紅茶を飲んでいただくのは、あなたばかりではありませんよ。良い薬を売るためには、相手の状態を正確に知る必要がありますからね。長年この方法を用いているのです。では、『おひさま薬』のお話をいたしましょう。これは私が30コモンで作り方を購入いたしました。どうやら政府から依頼されて開発したものらしいのです。おかげでこのところはきれいな星空が見える。天体観測も捗りますなぁ。昨年、ロビン・ウッドの来襲で学校が爆発した際も、それはそれは美しい青色の炎が夜空に映えたと聞き及びます」と老人は大声をあげて笑った。
夏帆は顔をしかめた。ロビン・ウッド。イギリスで仲間を作り、力を増している人物だ。人々は彼を悪党という。ロビンウッドさ彼の考えに異を唱える人を多く殺している。そりゃ悪党だ。でも夏帆には彼を悪党とは呼ばない事情がある。
「これは失礼。ほんのブラックジョークですよ。しかしおひさま薬は高価。そこで水で薄めて使うのです。そうすれば晴天とまではいきませんが、今日のような曇天となる」と老人。
「なるほど、だから空気が重たかったのか。ずっとこのエリアの空気には、複雑な魔力を感じていました」夏帆は言った。
「おやおや、あなたは珍しい能力をお持ちですな」
「珍しい?」
「ほら、人にはたまに不思議な能力を持つものがいるものです。時空を行き来する者や、人の心を読むことができる者。あなたの能力もその一つ、感魔力(センチメンタル)と申しましてね」
「いやな響きですね」
「私には良い響きに聞こえます。感度の強いあなたには薄めた魔法薬の方がよさそうですな。15コモンでいかがですかな?」
「待ってください。私はおひさま薬などいりません」
「そうでしょうかな?この店には誰も寄り付かぬと不思議には思いませんでしたかな?それは、この小屋は、必要とする者にしか見えないのですよ。ほれ、たったの5コモン。もって行きなされ」
老人の示す値段がどんどんと下がっていた。なんにせよ、5コモンは高価だ。イギリスに来たばかりでいつ使うかわからない魔法薬に5000円も払えない。
「そんなに売れないのですか?値段が下がってでも売りたいのでしょうか」
「おひさま薬は人気商品ですよ。あなたと会話することが楽しいので、お近づきの印に値段が下がっているだけですよ。このおひさま薬の効果は晴天を作ることだけではありませんよ。あちこちでロビン派の活動が活発というではありませんか。身に危険が及んだ時、この液体をひょいとひとかけする。たちまち辺りが寒くなり、敵はあっという間に逃げていくというもんです」
「なるほど、ナポレオンもロシア侵攻の際、寒さに負けた」
おひさま薬は、雲の温度を下げることで、人工的に雨を降らせる仕組みのようだった。それを応用して、この薬ひとつで、氷のような寒さを作り出せるのだ。寒ければ体が動かず、魔法を使いこなせない。
「ナポレオンとはどなたか知りませんがね」と老人は言った。
「その昔のフランスの皇帝です」
「歴史は不得意なのです。とにかく、最近の人々は思考が柔軟というもんです。本来の役割を超えて、魔法薬を使おうとするのですから。おひさま薬はいい例というもんですよ。ほれ、1コモン」
価格は1000円まで下がった。夏帆は首を縦に振った。老人はにこりと笑った。
「それではまたいつでもお出でなさいな」
そういうと店主は店の奥へと消えていった。
店の扉を開けると、そこは庭ではなく、夏帆のホテルの部屋だった。
「なんて美しい魔法なのだろう」
夏帆はニコリと笑った。
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