第1話 魔法使いのスパイは飛行機に乗る
20歳の8月。夏帆はスペイン、バルセロナ空港のロビーにいた。腕時計で時刻を確認すると、痛む頭を押さえつつ、今日何度目かのため息をついた。
空港では昨日からストライキが行われていた。夏帆がその事実を知ったのは飛行機を降りてすぐの電光掲示板の表記だった。
「既に離陸済みの到着便は受け入れるが、それ以外の業務は行わない」
もちろん、スペインへの入国もできない。夏帆は舌打ちをした。
夏帆はイギリス行きの飛行機に乗り換える予定だった。出発時刻はとうの昔に過ぎ去っている。空港で留学先の関係者が待っている手筈だというのに、どうしたらいいものか。
真昼間だというのに空港全体が重苦しい雰囲気で包まれていた。観光シーズンにストライキを当て、効力を最大限引き出したい従業員の気持ちはわかる。しかし、客側のことを考えてほしい。いっそのこと従業員を魔法で従わせて、イギリス行きの飛行機だけでも動かしてやろうかと思ったが、そんなことをしたら留学が取りやめになるだけでは済まないことくらいは容易に想像できた。
夏帆は新品の黒いトランクの上にあぐらをかいた。10時間にも及ぶ空の旅は、どこか懐かしく、留学への緊張をほぐすのに十分な時間確保となった。日本魔法魔術学校時代の友人から餞別にもらった三国志もフライト中に全て読み切ってしまった。しかし、この有様では、その美しい思い出全てが記憶の彼方にかき消されてしまいそうである。
空港はどこもかしこも人でごった返していた。運よくソファーの占拠に成功し居眠りをする者、殺伐とした表情で会社に電話をする者。トイレに並ぶ者。泣き出す子供。そこは、人と人が無言で争い合う、地獄のような光景だった。
「君はオレンジの片割れだよ」とある男性が巻き舌訛りの英語で何かを手に1人で会話をする声が聞こえた。
「ああ。ああそうだ。その通り。切り分けた果実は一つしかない。君は代え難い人って意味で僕は言ったんだよ」
相手に真意が伝わっていないのか、深刻そうな顔をして愛の言葉を言叫んでいる。
夏帆は、在英日本魔法大使館に急いで連絡したかったが、人間ばかりの中では、魔法を使うことは困難だ。手紙1つ送れないだろう。稲生直美の持っていたスマートフォンとやらを買っておけば良かった、と夏帆は心底後悔をした。こういうときに、人間の技術は役に立つ。
稲生直美は、日本魔法魔術学校時代のクラスメイトだった。彼女の両親は九州で商社を営んでおり、人間界の技術に精通していた。しかし、兄が不慮の死を遂げたことで心を病み、昨年から学校に姿を表さなくなった。あれだけ元気で人気者だった直美も流石にやられたのだろう。ついに直美は復帰を遂げることなく退学した。
一方の夏帆は6年制の学校を3年で卒業し、こうして今、留学をしようとしている。夏帆は直美と特別仲が良かったわけではないが、クラスで静かにしていた自分が、直美を指しおきイギリスに向かおうとしていることに、少しばかりの罪悪感があった。
空港の窓から見える空はすっかり茜色に染まっていたが、ストライキは終わらなかった。これは長引くな、と夏帆は直感で思った。夏帆は本気で魔法の力で誰かを服従させ、この状況を打開することを検討した。
さて、その呪いを誰にかけようか。ストライキをしている従業員か、それとも賃上げ要求を無視し続ける経営者か。そんなことを考えながら時間をつぶしたが、さすがに大使館への連絡方法を考えないわけにはいかない時間となってきていた。
悩むことにも疲れた頃、思いついたのはトイレの個室でこっそり手紙を飛ばすことだった。トイレなら監視カメラもないし、誰にも見られずにすむ。夏帆は長蛇の列に並ぶと、やっとのことで個室へと入った。
ジーンズパンツのポケットの中に入れておいた紙切れを取り出すと杖を振って宙に浮かせ、白シャツの胸ポケットから黒のボールペンを取り出した。夏帆は『バルセロナ空港、ストライキ』と急いで書き込む。紙の下部に宛名を書き、杖を当てて魔法をかけると、手紙が相手に届く仕組みになっている。
これまで、手紙というものの出し方を知らなかった夏帆は、政府の役人から初めてこの方法を聞いた時衝撃を覚えた。なぜ、孤児院で教えてくれなかったのだろう、といぶかしがりさえもした。同姓同名の場合は相手にきちんと届くのか、と質問をしたが、役人はため息をつくだけで、それには答えてくれなかった。
教えることを面倒くさがる役人に夏帆は憤りを覚えた。しかし、夏帆は呪文分析学に精通していた。呪文分析学とは、呪文を細分化し、記号化することで、どの呪文がどのような効力を持たせられるのか解明する学問だ。応用すれば、新呪文を作り出すこともできる。
夏帆はさらに、自身の持つ呪文知覚の能力を駆使し、目の前にある魔法をその場で解析し、どのような魔法が誰の手によってかけられているのかを当てることができた。そして、その魔法を解く呪文を新たに作り出すことができた。夏帆は呪文分析学の訓練を重ねた時期があったからだ。夏帆はものの数秒で解析が行えるまで成長した。
夏帆は役人の目の前で手紙送付の魔法の解析をやってのけた。
「なるほど。署名を書きながら相手のことを頭に思い浮かべていることで、差別化できるのですね。それなら同姓同名に送ってしまう間違いは防げますね」というと、役人は口をあんぐりと開けていた。
トイレを出ようと個室のカギに手を触れた瞬間、目の前に、白い封筒が現われた。封筒には、在英日本魔法大使館、と書かれている。
封筒に手を触れると、封筒がはじけて消え、折りたたまれた手紙が空中で開いた。
『君はもう6時間前にはスペインについていたはずであるのだから、こういうことはもっと早く連絡したまえ。そもそも君はもう社会人なのだから、緊急の際、まず連絡をつけることは当然である。(略)。飛行機の搭乗をキャンセルしておいた。またエジンバラ魔法学校の関係者は明日また君を迎えに来るとのことだ。すぐさま『スペイン国魔法界移動国際便M.E.』へと移動し、そこから『イギリス国魔法界移動国際便M.E.』へと向かいなさい。こちらから手配してバルセロナ空港内の暖炉とイギリスのM.E.を結んでおいた。日本国は、人間面前での魔法使用を禁じた国際機密保持法第13条を批准してはいない。また魔法界では治外法権が適用されることもあり、特に問題はないと思われる。バルセロナ空港によると、ストライキが解除されるのは未定ということだ。長引くかもしれない』
夏帆の胃はキリキリと傷んだ。日本の役人は話が長いから嫌いなのだ、と心の中で毒づいた。それに、これじゃ何のために、わざわざ人間界の飛行機という手段を使用したのかのかまるでわからないじゃないか、と夏帆は叫びたかった。
役人に言われて、わざわざ面倒な手続きをし、人間界のパスポートまで取得した。あれだけ他の手段はないのか、と夏帆は役人を問い詰めたが、役人は飛行機を使えと言って譲らなかった。飛行機の方が安いから、時間がはっきりしているから、政府の仕事では必ず使うから、とそれらしい理由を言っていた。しかし夏帆はどの理由も納得いかなかった。
-私は魔法使いだ!
結局、魔法使い用の異国への瞬間移動装置、マジカルエキスプレス(M.E.)を使うことになるなら、はじめから使えばよかったのだ。
そうは思いつつも、M.E.を使用することに、浮き足立つ自分も同時に存在した。M.E.の使用は初めてだったからだ。情緒の安定しない自分自身に、夏帆は混乱した。
夏帆はトイレを出ると疑問が湧いた。
ー灼熱にさらされた空港のどこに暖炉がどこにあるんというんだ?
案内図を見てみたが、もちろん暖炉の場所など指し示している場所などない。
夏帆はインフォメーションセンターの受付嬢に聞いてみることくらいしか、手段を持ち合わせていなかった。
「あの、暖炉ってどこにありますか?」と夏帆。
「はい?」と受付嬢は怪訝そうな顔で言った。
「暖炉なんですけど……」
黒いスーツを着た受付嬢はお団子にまとめたブロンドの髪をいじると、きつねにつままれたような顔をした。
「あの、その何というか寒いので温まりたいと思って」夏帆は我ながらに苦しい嘘だと思った。
「お具合が悪いのでしたら、医務室をご紹介いたしますが」
「そうではないです。ただ、寒がりなもので」
「申し訳ございませんが、今の時期は暖炉の方を閉じております」
「見るだけでいいんです。あの、見るだけで落ち着くというか、えっと、その……」
ああ、絶対に変人と思われただろう、と夏帆は胃が痛んだ。これほど緊張したのは生まれて初めてだった。
「当空港のVIP会員専用休憩室でしたら、備え付けのものがございます。あちらの階段を上り、右に曲がってすぐにございますが……」
「ありがとうございます」
そういうと夏帆は一目散に逃げ去った。恥ずかしさに耐えきれず、これ以上質問される前にそこから逃げ出したかったからだ。
VIPルームへ向かう途中のロビーでは、バイオリンを取り出して演奏をしている人がいた。退屈そうにしていた人々はその人を取り囲むように座ってじっとその演奏を聞いていた。表情に嬉々とした者はおらず、皆どこか疲弊している。
私は気がつくと恥ずかしさも忘れ、誇らしい気持ちになった。人々はここで退屈しているというのに、私は今からこの重たい空港から抜け出せる。そう思うと突然、足取りが軽やかになった。
「すみません」
夏帆に、皺1つない、灰色のかちっとしたスーツを着た男性が声をかけた。
「はい」
「BBCです。取材をしたいのですがよろしいですか?」
「ああ、えっと、はい、いいですよ。急いでいるので、少しだけなら」
「急いでいる?こんなに素晴らしく楽しげな空港で?」
楽しげな?
「あ、ええ、あ、買い物に行った家族と合流予定で……」
「今回のストライキに関して、誰に怒りを覚えますか?」
日本政府に決まっている。飛行機なんて使わせた役人に一番怒りを覚えている。しかし、そんなことを言えるわけがなかった。
「えっと、そうですね、対応をしない企業上層部ですかね……」
「なるほど、このストライキはどれくらい続くと思われますか?」
「え、一週間ほど?」
「困ります?」
「あ、別に……」
「ん?」
「いや、困ります、困ります。これから仕事でイギリスに向かうところなんです。困ります!」
「イギリスに!私はロンドンから来たのです」
「ええ、BBCですからね。本当に、急いでいるんです」
そう振り切ると、夏帆は足早にVIPルームへと向かった。
走りながら夏帆は認めるしかなかった。私はスパイなどには向いていないと。今回の留学は表向きの名目。実際には、日本政府からスパイとして派遣されたのだ。魔法界において日本が他国から孤立し、鎖国政策をとって久しい。その状況を打開すべく、特に権威のある英国に取り入ること。そして、Central 5、通称C5、と呼ばれる、魔法連盟を牛耳る主要5カ国に日本を組み込むこと。それが夏帆の与えられた任務だった。
もちろん、夏帆だってスパイなどやりたくなかった。面倒だし、興味もないし、何より向いてない。夏帆は呪文分析学の研究ができればそれでよかったのだ。しかし、夏帆は奨学金を抱えていた。孤児院育ちの夏帆は、良家の子女が集まる日本魔法魔術学校の学費と寮費を賄えるはずが到底なかった。そのため、国費で奨学金を得て進学した。返済免除条件は、国のスパイとして働くこと。夏帆は奨学金を返し終わるまでは、スパイになるしかなかったのである。
夏帆は目くらましの魔法を自分にかけた。魔力が血管の中をミミズのように駆けずり回り、そして全身へと広がった。少しの吐き気の後に夏帆は透明になり、VIP用の休憩室へと忍び入った。
休憩室はふかふかそうな白いソファーがいくつも並び、カフェラウンジまで併設されていた。いかにも高級なブランドバックやら服やらを着た人々が品行方正にくつろいでいる。子供が泣き出すことなんてこともない。人もごった返していない。まるでお金持ちで溢れた母校、日本魔法魔術学校のようだ。騒がしいロビーとは全く違う様相を見せている。
出国前夜を思い出す。
日本で夏帆の担任だった浅木先生が、とある通帳を夏帆に手渡した。浅木は夏帆の母親と友人だった。両親の死を知り、夏帆を保護し、孤児院に連れて行ってくれた人物だと、浅木本人から以前聞いたことがある。
「あなたのお母さんから預かっていたの」と浅木は言った。
5万ポンドの預金があった。およそ750万円の大金だ。換金すれば、イギリスの魔法界でも使うことができる。
夏帆は感謝の言葉も、これまで隠されていたことへの恨み言も言えずに、ぶらりと下がった腕に、ただ小さな拳を握ることくらいしかできなかった。
孤児院時代も、日本の魔法界で過ごした3年間も、常に貧困と屈辱にまみえて闘っていた。当時からお金の不安はつきなかった。
お金持ちに、お金持ちだね、と嫌味一つ言えない毎日を過ごしてきたのだ。
当時この預金があることをもし知っていたら、もう少し精神的に楽になれただろう。なぜ今更、その存在を明らかにされなくてはいけないのか。
一方で、たかだか750万円で、母校の学費を賄えないことくらい夏帆にはわかっていた。
どこに怒りをぶつけていいかわからず、夏帆は唇をぎゅっと噛み締めた。
「これで、当分の生活の足しになります」と夏帆は笑顔を向けることなく淡々と言った。「浅木奏さん」
浅木は焦る様子も、驚く様子もなく、無表情のまま、ただ夏帆に対して杖を構えた。
「私をどうしますか。殺しますか?」と夏帆。
浅木は杖を向けたまま、何も言わずに硬直していた。動かないのではない、動けないのだ。夏帆が浅木に魔法をかけていたからだ。夏帆は手をポケットに突っ込んだままであっても、相手を意のままに操る術を身につけていた。
浅木は、浅木遙という名で教師をしていた。しかし、その本名は浅木奏。遙が誰で、なぜ名を隠すのか、そんなこと、夏帆の知ったことではないし、聞きたいほど興味があるわけでもない。夏帆は通帳を乱暴に受け取ると、その場から立ち去った。浅木とはそれきりである。
両親の貯金に、奨学金の返済免除、それにこれからは日本政府からの給料もある。
あれだけお金に困っていたことがまるで嘘のように、私はどうやらお金持ちとやらに仲間入りをしたらしい。
夏帆は舌打ちをした。
首元にかけているチェーン付きの懐中時計を取り出した。懐中時計はいつもと同じように金色に輝いている。時刻は日本時間のまま直されておらず、8時を指している。首から外すと、腰につけた白いポーチの中へと入れる。懐中時計は音も立たず、奥深くまで沈む。夏帆はふっと息を吐くと、暖炉の中へと飛び込んだ。
暖炉に吸い込まれてから1秒と経たず、目的地へと到着した。夏帆はあたりを見渡した。レンガ造りのコの字方の壁の中に降り立っている。少しのめまいと乗り物酔いのような不快感はあったが、それ以外特に体調に問題はなかった。あまりに一瞬のことで、夏帆は感慨深さも何も感じなかった。正直まだイギリスにいることを受け入れられていない。
到着した場所は、じめじめとした薄汚いホールだった。高い天井には暗赤色のライトがいくつか宙に浮かんでゆらゆらと揺れている。夏帆が歩くと、コツコツという音がホール全体に鳴り響いた。昔はこのイギリスのM.E.の主要拠点は、多くの魔法使いで賑わっていたらしい。ここ何年も続いている内戦のせいで、すっかり海外からの足が途絶えたとの噂は本当だったようだ。
「イギリスへようこそ」
黄色いローブを着たブランドのショートヘアの女性が目の前に立っていた。女性はにこりと笑って挨拶した。夏帆は身につけていたポシェットから青いパスポートを差し出した。女性は戸惑った顔をした。
「すっ、素敵なお写真ですね」
夏帆が提出したのは、人間界のパスポートだった。夏帆は恥ずかしくなり急いでしまうと、薄桃色の魔法界の外交パスポートを差し出した。女性は、日本、という表示を見ると一瞬怪訝そうな顔をした。女性が杖を振ると、目の前にA4サイズのボロボロの羊皮紙が浮かび上がった。丁寧に上から下へと目線を動かすと、「あった、タカハシナツホ」と乱雑につぶやいた。そして、どうぞ、とでも言わんばかりに無表情のまま、手を差しのばした。
「出口」と女性は言った。
女性の指さした方向には、黒いドアノブのついた木製の扉があった。
夏帆は軽くお辞儀をすると、女性から逃げるように、ドアへと早足で歩いた。このホールに長くいたいと思えなかった。どこかかび臭く、陰鬱で、日本人というだけで明らかに対応が変わる。おそらく、この扱いが嫌になり、日本の官僚は飛行機を使うようになったのだと妙に納得した。
夏帆は黒いドアノブに手をかけた。この先に、どんな世界が待ち受けているか、夏帆は自分がワクワクしていることに気がつき、心底驚いた。
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