5.
近頃、立て続けに問題が発生していた。
最大の問題は誠だった。
あれからことあるたびに彼と会っていた。夕食を共にとったり、バッティングセンターに行ったり、彼が好きだというジョギングに付き合ったり、そうしているうちに彼のアパートに招かれるようになった。
初めてその部屋を見たときは仰天した。ゴミ屋敷、とまではいかないにしても、美しい彼からは想像もつかぬほどの見事な汚部屋だった。
ベッドの半分は服で埋もれていたし、床には参考書やらペットボトルやら出所のわからない電源ケーブルやらで足の踏み場もない。生来きれい好きの俺からすれば信じられない光景だ。
俺は掃除をしたくてたまらかったが、他人が掃除しては彼のためにならない。ぐっとこらえて彼に掃除をするように促し、その日は二人で漫喫へ出掛けた。彼は意外にも古い漫画が好きなようだった。理由を聞いたら、文学的だから、とのことだった。
二回目に部屋に招かれたときには、すっかりきれい……とはいえないが、最低限の片付けは済んでいた。俺はそそっかしい彼が体をあちこちにぶつけながら掃除しているところを想像して、勝手に感動していた。
きれいになった部屋でピザを頼み、買ってきた酒を開ける。ここまではよかった。問題はそのあとだった。
俺も誠もかなり酔っていた。もともと泊まるつもりで来ていたし、次の日は野球もなかった。普段飲まないような日本酒やワインを開けたのがよくなかったのかもしれない。
ふわふわとした酔い心地のなかで、不意に彼が俺の手をとった。間違って当たっただけかと思ったが、彼はそのまま指を絡ませてくる。不思議と嫌な気持ちはなかった。彼の細い指は俺も好きだった。その指や手の甲を俺も触れ返してやる。
「植田さん、イヤだったら言ってね、」
なにが?そう返そうとして、できなかった。俺の口が彼の唇で塞がれたからだ。誠に腕を引かれ、促されるまま、俺は彼を組みしいた。やめようと思えばやめられたのかもしれない。そうしなかったのは、酒のせいなのか、あるいはそうでないのかは、まだはっきりしない。
彼の手のひらや舌が体を這う感触、吐息、優しく先へ導く言葉が、寝ても覚めても付きまとってくる。仕事中だって、気を抜くとすぐ、誠の声を思い出してしまう。
あれはどういう意味だったんだろう?ちょっとした間違いだったのか?最初からそういうつもりだったのか?あの夜の、彼の意図がわからなかった。
「――、のか?」
「……」
「おい!聞いてんのかって言ってんの」
「あ、はい、」
そうだった。今は会議室で、平田からいつものようにお叱りを受けているのだった。俺の脳裏から、ようやく誠の素肌が消えた。
会議室、といっても、執務室とはパーテーションで隔てられただけの簡素な部屋だ。会話は筒抜けだった。きっとこの仕切りの向こうで、いつものように同僚は無関心を装っているのだろう。
「なぁ、ことの重大さがわかってんの?」
「重大さ、」
もうひとつの問題は、これだった。久しぶりに大きめのミスをした。責められるのは仕方がない。
「さっきからお前、人の話を……ふざけるな!」
平田が突然、俺の肩を押した。俺の体が後方に飛ばされる。その途中で、左足が椅子に引っ掛かる。あっという間にバランスを崩し――
ガシャン、
ホワイトボードにぶつかりながら、床に崩れ落ちた。
ホワイトボートのどこにぶつけたのか見当もつかなかったが、恐らく金具の、そのちょうど鋭利な部分に腕が当たったのだろう。気づくと俺の腕が妙に生暖かった。シャツが破れ、出血している。オフィスのカーペットに、血のシミがついた。
「……」
平田は舌打ちをするとそのまま会議室を出ていった。相変わらず誰も来なかったので、俺は自分で荷物をまとめ、早退して医者に向かった。
俺が悪かったのだ。大事なお客様の、大事な案件の見積もりを誤った。そのせいで、ひどい額の追加請求をするハメになったのだ。叱られて当然だった。俺がもっと精度のよい見積もりを出していたら、こんなことにはならなかった。俺のせいだ。すべて俺の。
医者に傷口を縫われながら、俺はふたたび誠の顔を思い出していた。それはあの晩の彼ではなかった。ただ、二人でのんびり漫画を読んでいた、あのなんでもない時間だった。
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