4.
他人の家の匂いがする。明るい。頭がいたい。ふかふかの布団にくるまれているが、どうも僕の布団ではない。ここは、どこだろう。
「う……」
ベッドの下から呻き声が聞こえる。
僕はゆっくり体を起こした。確か昨日、日付が変わるまで植田さんと飲んで、電車がなくなってから家に泊めてもらって……。
「……、」
一応衣服を確認したが、あちこちにシワがついている他は何の乱れもなかった。そうだ、あのまま寝たのだ。文字通り、ぐっすりと。
床で呻いていたのは植田さんだった。昨日の服のまま、眩しそうに腕で顔を隠している。部屋の明かりがつけっぱなしだった。
僕はスマホを探して、ズボンの右ポケットに手を突っ込んだ。ボタンを押して時刻を確認する。ひび割れた画面に、真っ赤な電池マークと、9時半の文字。今日のバイトは16時からだから、まだ余裕はあった。
「植田さん、泊めてもらっちゃって、ごめんね……」
そっと声をかけると、植田さんも目を覚ましたようで、
「……いま何時?」
少し幼い声で聞いてきた。僕は急に、胸元をくすぐられた気持ちになった。
「9時半……」
言い終わると同時に、植田さんが勢いよく起き上がる。
「試合っ……!」
「え……?」
「社会人野球の……9時半から……うっ」
頭を抱えて床に崩れ落ちた。酒に強い自覚のある僕ですら頭が痛いのだ。植田さんは立ち上がるのも難しいのではないか。
「気持ち悪い……行かなきゃ……頭いたい……」
「いや……普通に考えて無理でしょ、休みなよ……」
「……、」
それでも植田さんはなおも考えているようだった。迷惑が、とか、人数が集まらない、とか、ブツブツ言っていたが、最終的に、
「……やすもう」
とうつ伏せになって呟いた。僕だったら1秒で欠席連絡をいれてる。
そのまま植田さんが動かなくなってしまったので、僕は暇潰しに部屋を見渡した。なかなか広い部屋だったが、あるのは最低限の家具家電に、薄っぺらいカーテン。天井には備え付けであろう白い蛍光灯ひとつ。ソファもラグもない徹底ぶりだ。相当の無趣味なのか、あるいは自分の趣味を圧し殺しているのか、僕には判断がつかなかった。
唯一趣味というか、植田さんの個性が感じられたのが、窓辺にぶら下げてあった野球のユニフォームとキャップだ。恐らく今日の試合で使うはずだったのだろう。僕はなんだか、悪いことをした気持ちになった。
「あの……なんかごめんなさい、僕が強引に飲みに誘ったから、」
「いいよいいよ、飲みすぎたのは俺のせいだし、……うぅっ……」
……この人はなんでも自分のせいにするなぁ。僕は少し心配になった。
そのときふと、自分が人の心配をしていることに、少し驚いた。いつもは立場が逆だった。僕を心配して、なんやかんやと世話を焼く人が現れる。それなのに今、僕はこの人の心配をしていて……あまつさえ、何かしてあげたいと思っていた。
「……飲み物、買ってこようかな。植田さん、何か飲む?」
恐る恐る聞いてみる。すると植田さんは申し訳なさそうに、下の自販機でスポーツドリンクを買って来てほしいと言った。その言葉の途中で三回『ごめん』をはさんでいた。
僕はだるい体に力をいれて部屋を出ると、階段を降りて、アパート横の自販機でポカリとファンタを買った。外はすでに陽射しが強く、ペットボトルの冷えた感触が存外に心地よかった。僕はそれをたまに頭に当てたりしながら持って帰った。
ジュースを飲んだ植田さんは少し気分が楽になったようで、僕にもう一度謝ると、シャワーを貸してくれた。
そういえば昨日はバッティングセンターにいって汗をかいていた。そのまま植田さんのベッドに潜り込んでしまったことを内心詫びながら、僕は熱いシャワーを浴びた。
浴室においてあったボディソープのボトルには、何やら見たことのない外国語が書いてある。泡立てると、甘い花とスパイスの香りがした。意外にもそこはこだわり派らしい。
一風変わった石鹸の香りに包まれながら、僕は先週思いきって植田さんを誘った自分を褒めてやりたいと思った。僕から遊びに誘うのは、美枝以外では初めてのことだった。
ドーナツ屋で先輩に怒鳴られたとき、会いたいと思ったのが植田さんだった。その直感は正しかった。彼と過ごしていると、不思議とまた頑張ろうという気になってくる。一緒にいて疲れたりしない相手は、本当に久しぶりだった。
植田さんは僕のあとにシャワーを浴びると、近くにうまいラーメン屋があるといって、ご馳走してくれた。魚介の出汁のきいた塩ラーメンで、植田さんおすすめの煮卵は格別だった。
ラーメン屋を出た後、そのまま僕を車でアパートに送り届てくれた。僕たちはそこで解散した。
小さくなっていく植田さんの車を見送りながら、僕はもう彼に会いたくなっていた。
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