3.

 誠から連絡があったのは、あれから一月もたったあとだった。ゴールデンウィークが終わって、外の街路樹は青々としていた。


 連休明けの社内は暗く気だるい。俺は今日も、衆人環視の中で平田に怒鳴られていた。相変わらず周囲はそれに関して無関心を装っている。かわいそうに、という目線がないわけではない。けれどそれが口に出ることはなかった。


 余白が違うとかインデントが変とか、まるで重箱の隅をつつくような指摘を聞きながら、『お前が悪いんじゃない』という勝川の言葉を脳内で反芻していた。どうなんだか。結局は自分が悪い気がしていた。些細なことを間違える自分が。

 説教が終わり席に戻ると、どっと疲れがこみ上げた。机の隅においたエナジードリンクを飲み干す。窓という窓にかけられたブラインドを見て、なんとなく俺は動物園の檻を思い出していた。


 勝川は奥さんが身籠ったとかで、あれから飲みに誘いにくくなっていた。

 愚痴をこぼす相手を失った俺は、ふと、誠を誘ってみたらどうかと考えた。ただ、あれから一週間連絡がない時点で、彼が自分に興味がないのだということはわかっていた。あえてそこをほじくり返すのも、かえって惨めな話だ。

 結局、独り暮らしのアパートで缶ビールをあけることが、すっかり習慣になっていった。


 いつものように一人へべれけになっていた晩、急に携帯がなった。どうせメルマガだろう、そう思いながら届いたメッセージの差出人を見て、最初は何かの間違いだと思った。

『新しいバイト先で怒鳴られたので、遊びにいきませんか?』

 斬新な誘い文句だった。俺は思わず吹き出すと、すぐに返信をうった。酔っているせいか、戸惑いも恥じらいもなくスルスルと指が動く。俺はいつになく浮かれていた。

『そういうときにいい場所を知ってるよ。空いてる日を教えて』


 土曜の午後、車で駅へ向かい、彼を拾って目的の場所に向かった。

 よく晴れた日だった。青い光に照らされて、町中が輝いて見えた。車中で、彼の名前が大治おおはるまことであること、近くの大学でイギリス文学を専攻していることを知った。「好きな小説は?」と聞かれたが、俺は教科書以外で小説なんか一つも読んだことがなかった。そんな人いるんだ、と言って笑う彼の横顔は、相変わらず線が細くて美しかった。


 ほんの十四、五分で、郊外にあるバッティングセンターに到着した。車を降りるとすぐ、気持ちのいい打球音が聞こえてきた。呆気にとられる誠に、バッティングセンターは初めてか訪ねる。

「初めてだし……それに、なんかもっと別のところにつれてかれるのかと思ってたから……」

「ごめん、期待はずれだったかな、」

「あ、いや、そうじゃなくって、」

 彼は自分が怪しいセミナーや宗教施設につれていかれると思っていたらしかった。その話を聞いて俺は笑ってしまった。

「何それ、俺そんなに怪しい?」

「うーん……」

 少しの間があったあと、いたずらっぽい顔で、

「怪しいかも」

 と返す。しばらく押し黙ったあと、俺も誠も、どっと声を出して笑いあった。彼のその屈託のない笑顔を見ながら、これはモテる男の顔だなぁ等と思った。トランクを開けて、いくつかバットを出す。

「すご。バット持ってるんだ」

「社会人野球やってるから。好きなの使っていいよ、」

 と言ったものの、彼は選び方がわからないようだ。俺は適当な一本をとって、彼に手渡した。受付で二人分のメダルを購入し、ボックスに入る。


「僕は見てるだけでいいっす……」

 ネットの裏で、誠は怖じ気づいている。

「大丈夫だよ。ほら。こんな感じ、」

 スイッチを押して、構え、振る。手応えがあった。カン、という音がして、白球が飛ぶ。まずまずの当たりだ。

「いや無理でしょ。野球なんかやったことない」

 誠が首を振る。そんなやつがいるのか。俺は男なら誰しも野球をやったことがあると思っていたので、彼の反応は意外だった。俺にとっての小説は誠にとっての野球だった。


 俺はひとしきり打ったあと、彼を引っ張ってボックスに立たたせた。へっぴり腰になる彼の後ろから、肘や腕、足の角度を調整してやる。細身だと思っていた体は意外にも筋肉があった。彼いわく、高校までは長距離の選手だったそうだ。

「もう少し肘を後ろに、……そう。それから顔ももう少し。うん。いいね、」

 一番遅い球速のスイッチを押す。最初の一球を彼は見送った。見送ったというか、

「めちゃめちゃ速いんですけど……」

 怖かったらしい。

「最初はそう見えるよ。そのうち目が慣れてくる。大丈夫、最初から打とうとしなくてもいいんだ。まずはボールの早さになれて、慣れたら振ってみて、あとは高さとか、タイミングなんかを調節する感じ」

「一度に言わないでよぉ……」

 誠はそのあと何回目かのスイングで、ようやくバットの端に当たった。ほぼ垂直に跳ねたがった球が、彼のすぐ横に落ちる。

「いいじゃん、」

 誉めてやると太陽みたいな笑みを浮かべた。


 それから俺たちはしばらく、雑談をしながら交代でバッティングに励んだ。汗ばむ体に、気分も晴れやかになっていく。

 コインを使いきった頃にはほどよく腹がすいていた。車で俺のアパートまで戻り、駐車場に車をおいて、最寄り駅の居酒屋へ歩いた。駅は夕闇に包まれ、早くも飲食店の看板がチカチカと光りはじめている。ビルの間を通り抜ける風がほんのり冷たくて、心地いい。


「はー!運動した後のビールって、何でこんなに美味しいんだろ!」

 乾杯のあと、誠は最初の一口を気持ち良さそうに飲んだ。綺麗な鼻筋に店内のオレンジの光が差す。最初に会ったときのミステリアスな雰囲気はどこへやら、彼は今完全に無邪気で無防備だった。俺はその顔を見て、素直にかわいいと思った。弟がいたらこんな感じなんだろうか。


「それで、新しいバイトはどうなの、」

「全然だめ。レジうちが覚えられなくって、もう絶望的っす。ドーナツ包んどけばいいんだと思ってたのに。包み方が汚いってクレームが来るわ、レジうち間違えるわ。昨日ついにシフトを間違えて大目玉」

 うわぁ、と思わず声が出た。彼はなんていうか相当……不器用なようだ。

「植田さんは?やっぱり怒鳴られてるんですか?」

「うん、毎日」

「僕みたいにミスするんだ、」

「するよ。しょうもないミスばっかり。上司もそれを見つけるのに躍起になってさ」

 こんどは誠がうわぁ、と言った。

「重箱の隅つつく系?神経参りそう。僕なんか、相当つつき甲斐があるだろうなぁ」

「……いや、誠はたぶん、隅つつかなくてもど真ん中にありそう……」

 そんなことを話すうちに俺も誠も酒が進んだ。そのまま仕事の愚痴やら誠の就活やらを酒の肴に、三時間は話し込んでいた。いつの間にか時計は九時を回っている。彼はすっかり眠そうな顔をして頬杖をついていた。

「いい時間だな。そろそろ帰ろうか、」

「えぇー……」

 口を尖らせて抗議する。子供が駄々をこねているみたいで、可愛らしい。

「もうちょっと、しゃべろうよぉ……」

 今日は土曜日だったか……酒で回らない頭で、なんとなく勝川と夜明けまで飲み歩いた日のことを思い出した。結局その場の空気に流され、店を変えて彼と12時を回るまで話し込んだ。そのあとのことは覚えていない。気づいたら俺の家で朝を迎えていた。

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