第2話
紫緒は動きやすい服装に着替えると、すぐに神社を出た。村人たちの話では徒歩で行くと村には一週間ほどかかるという。
「すみません、巫女さま。わしらが馬を持っていれば歩かせずにすんだものを……」
「歩くのはきらいではありませんのでかまいませんよ」
「ああ、なんてお優しい! 他の神社の方々とはまるで違う。さすがは久我里さまの巫女さまじゃ」
信仰。もはやその段階に達した眼差しを向けられて、紫緒は苦笑した。
巫女は瘴気と呼ばれる、世界中どこにでも発生する黒く霧がかった摩訶不思議なものを祓う力を持っている。
瘴気は山の中でも町中でも関係なく、本当にどこにでも発生し、大体の場合はその瘴気が漏れ出ている原因、源となる瘴気の泉が存在する。
その瘴気の泉を祓うと、近くにあふれていた瘴気も消滅する。これは巫女にしか出来ないことだ。
だからこそ特別な力を持つ巫女は神格化されやすく、名門である久我里出身の巫女ともなれば帝都内のいくつかの店で無償で食事を食べさせてもらえるほどの優遇を受けることができるのだ。
感謝されるのは気持ちのいいことだ。しかし時折現れる異常なまで巫女への執着を持った人間は恐ろしい。必要以上の貢物を捧げようと、身を削ってまで神社に金銭や貢物を奉納してくることがある。彼らがそうならないように祈りながら、紫緒は村を目指した。
いくつかの山を越え、道中に建った小さな民家に泊まらせてもらいながら、徒歩で村へとたどり着く。
何度かの太陽の浮き沈みを確認して、やっとのことで彼らの村にたどり着いた。
「みんな、巫女さまが来てくださったぞ」
「ああ、巫女さま……! なんてありがたい、ああ」
「これでばあやの咳も治る?」
「ええ、きっと治るわぁ」
巫女さま、巫女さま、巫女さま。瘴気にまとわりつかれたボロボロの平家から出てきた村人たちはみな一様にそう言って頭を下げた。
まだ瘴気の泉を祓ったわけでもないのに、ものすごい感謝のしようだ。この様子だと他の神社の巫女には祓うのを拒否され続けて困っていたのだろうということがいやでもわかった。
本来聖なる立場にいる巫女が、神社が困った人を見捨てるなんてあってはならない。なので相手がどれだけ貧民でも、助けを求めてきたからにはそれに応えるべきなのだ。
なのに他の神社は彼らの助けを求める声を拒んだ。それは近年増えて来ている瘴気に対して巫女が不足しがちなのもあるだろうが、やはり報酬として差し出される金額で依頼を受けるかどうか決めているところもあるのだろう。
悲しいことに、金のない人間はこうして後回しにされてしまうこともあるのだ。
「私は瘴気の泉を特定して祓います。みなさんは村でおとなしくていてくださいね」
「巫女さまひとりに任せるなんてできねぇや。おらたちにも手伝わせてください」
「だ、大丈夫ですから」
ふんと腕まくりをする村の男性だったが、その腕は細く簡単に折れてしまいそうだ。正直なところ、体力のない彼らとともに瘴気の泉を探す方が時間がかかりそうなので、丁重にお断りをした。
両親を亡くした紫緒は運よく久我里家に引き取られたが、もし引きとってもらうことが出来ていなかったら、おそらく彼らのように貧民として毎日を必死に食いつないでいく生活をしなければならなかったのかもしれない。
なのであまり差別的なことを言いたくはないが、体力のない人間を連れて瘴気の泉を探すという労働には足手まといだ。
町の中ならともかく、ここは全方を森に囲まれた自然豊かな土地。正直なところ帝都にこんなところがあったのかと驚いてしまうほどの自然の真ん中だ。
足場が悪ければ、自身がどの方向に進んでいるかの感覚すらわからなくなるような場所。
一人で散策する方がはるかに楽である。それに瘴気を祓えるのは巫女だけ。村人がいても、彼らに祓うことはできやしないのだからここは単独行動の方が望ましい。
「せめてこれを持っていってくだされ」
「あ、ありがとうございます」
腰が悪いのか、家の入り口から動かない老婆になにかを手渡された。葉をめくってみると、それは随分と固いおむすびのようだ。
あまりいいものとは思えないが、彼らにとってはこれが最大限のおもてなしなのだろう。
断ることもできたが、ここで断ってしまえば村人たちがもっと良いものを渡さねばと躍起になる可能性がある。だから紫緒はおとなしく固くなったおむすびを受け取ることにした。
おむすびを懐に仕舞い、村のそばの森の中に足を踏み入れる。瘴気の泉は瘴気のより濃いところにある。だから瘴気の気配を辿っていけば簡単に泉に辿り着けるのだ。
舗装されることはなく、道と呼べるような道は獣道のみ。そんな足場の悪い森、いや山を登って一時間ほどすると瘴気の泉を見つけた。
山の中腹に発生した瘴気の泉は村にまで瘴気を漂わせ、その瘴気のせいで体調を崩している村人も多いだろう。これは早急に祓うべきだ。
巫女は瘴気に囲まれても特段体調を崩すことはない。しかし巫女以外の人には瘴気は有害なもの。ここまで放置された瘴気の泉に近寄れば、その瘴気の濃さに倒れてしまう可能性が非常に高い。
「うっ」
「……え?」
紫緒が瘴気の泉を祓おうと、一歩足を前に進ませた時、背後から唸り声が聞こえて振り返った。
そこにはまだ五つほどの小さな男の子が倒れていた。
「な、なんで……⁉︎」
この少年には見覚えがある。彼は村に住む子で、おむすびをくれた老婆の後ろに隠れるように紫緒を見つめていた子だ。
一体いつから紫緒の後をつけていたのだろうか。
「いや、そんなことよりもこの子を助けないと!」
少年が倒れたのは瘴気に触れすぎたが故だろう。ならば解決方法は簡単だ。巫女には人の傷を癒す力はない。けれど瘴気を祓う力はある。
つまり元凶の瘴気の泉を祓ってしまえばいい。多少の間は気を失ったままだろうが、時間が経てば回復するはず。紫緒は本来の目的である瘴気の泉を祓おうと、一度少年の元を離れようとした。
「ウウウ」
「っ⁉︎」
しかし紫緒と瘴気の泉の間に、突如
障りに知性はない。ただ周囲にいる生き物を襲うだけ。つまりこの障りは、紫緒たちを狙っていた。
障りは瘴気と同じだ。霧の姿をしている瘴気が形を成した者が障り。だから巫女である紫緒は障りを浄化することができるのだ。理論上は。
「っ! 駄目!」
紫緒は庇うように、少年に覆い被さった。
「ウウウ!」
「…………?」
しかしいつまで待っても障りの攻撃はなく、大きな声を上げた障りはそれ以降言葉、いや声を発しなかった。
不思議に思って紫緒は顔を上げる。するとそこには刀を片手に携えた短髪の黒髪をさわさわと風に泳がせている男性が立っていた。近くに先程の障りの姿はない。
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