第66話 反間苦肉の舞踏曲 ⑷
フレートから受け取った紙を、ハンスへ渡す。それから椅子の背もたれへ深く、腰を掛け直した。
「それはタウンハウスのぼくの机へ置いて来てください。くれぐれも、誰の目にも入らぬように鍵の付いた抽斗へしまってください」
「かしこまりました」
腕を組んで、自分の二の腕へ置いた指をとんとんと忙しなく動かす。ハンスイェルクとイェレミーアスの父、ディートハルトは異母兄弟であった。ディートハルトの母はレニエ侯爵家から嫁いだという。ハンスイェルクの母は、ラウシェンバッハ家の侍女だ。
「男児を除いて、自らの手で私生児を皆殺しにしたとのこと。その咎で先々代ラウシェンバッハ伯爵ライムント・ラウシェンバッハは爵位を奪われ、若くして嫡男ディートハルト伯がラウシェンバッハ伯爵を継いだ模様」
フレートらしい簡潔な情報の締め括りには、ぼくを暗澹たる気持ちにさせる一言が添えられていた。
「ライムント卿、存命。現在ラウシェンバッハ辺境伯城にて、
机へ肘をつき、指を組む。組んだ指へ額を押し当て、ぼくは長いため息を吐き出した。
「永蟄居……私生児十五人殺して、永蟄居止まり……いくら功臣だからって甘すぎだろ……いや、皇国の法が私生児に対して厳しすぎるのか……」
「……」
黙ってぼくへ視線を落としているハンスへ、聞かせるともなく吐き出す。
「デ・ランダル神話自体が皇族の血筋を神格化したものだから、貴族は血筋に拘るってまぁ想像は付きますけど。だからって自分の子供を十五人も、男児じゃないからって殺します? そもそも無分別に女性へ手を出さなきゃいいだけじゃないですか。子供を殺すくらいなら自分のその制御不能な性器をちょん切ってしまえばいいのに」
ハンスが言いにくそうにぼくへ視線を送る。
「……スヴァンテ様。いささかお口が過ぎます」
「だって本当のことじゃないですか」
道理でヨゼフィーネもイェレミーアスも、祖父の話をしないわけだ。だがその好色ジジイは東の領土を大幅に広げた、功臣でもある。しかも何と、永蟄居を言い渡されるきっかけになったのが前メスナー伯爵の妻を強姦したからだという。
つまり貴族同士の問題にならなければ、放っておかれたままであったのだ。
「前メスナー伯爵の奥さまを強姦した時点で殺しておくべきでしょう……」
悲劇はそれで終わらなかった。その事件の後、前メスナー伯爵の妻は自殺したという。シェルケがミレッカーと手を組んだのは、従兄弟だからという理由だけではないかも知れない。
自分の母を辱しめ自殺に追いやった男が、先々代のラウシェンバッハ辺境伯なのだ。永蟄居などで納得できるだろうか。代替わりしたとはいえ、ラウシェンバッハ家の名声が上がって行くのを苦々しく思っていたのではないだろうか。
同じ男としても大変に胸糞が悪い。そんな色ボケジジイが、部下の妻とかに手を出してないわけがない。
先々代ラウシェンバッハ伯爵は、一切人望がなかったらしい。人望がないから貴族は別の領地へ逃げ出し、先々代までラウシェンバッハ伯爵家の騎士は八割が平民や農奴で構成されていたそうだ。そんな中で北東の領土を広げたのだから、武人として、将軍としての腕は確かなのだろう。
だからこそ、好き放題女に手を出しても生き残っていたのだろう。普通ならとっくに後ろから刺され殺されているに違いないのに、武人として強いから生き残ったのである。厄介この上ない。
イェレミーアスの父であるディートハルトが、どれほど苦労をしたかが忍ばれる。父の尻拭いをし、領地と騎士団を立て直し、北東のケイローンとまで呼ばれた。イェレミーアスが父を慕うのは当たり前だ。その分、祖父のことは触れられたくないだろう。
非道な祖父と、偉大なる父。ラウシェンバッハ家の事情を鑑みると、イェレミーアスが父を失った意味は大きいのだろう。ひいてはラウシェンバッハ領に於いても、その意味は大きいのではないだろうか。
その喪失を画策した意味もまた、大きい。となれば、それを画策した者は次に何をするだろう。
ぼくなら。
「ぼくならその色ボケジジイ、解き放つよなぁ……」
イェレミーアスの祖父ということは、若く見積もっても五十代くらいだろう。医療事情も衛生状態も栄養状態も現代日本と比べれば格段に悪いこの世界の五十代といえば、普通ならよぼよぼのおじいちゃんだ。シュレーデルハイゲンのように現役の武人である五十代など、希少種なのである。しかも長年
武功を立てられるほどの元気はないが、政治的に恐怖を与えることは可能だろう。しかも領地に残っている正当なラウシェンバッハ家の血筋は、武勇ある父を永蟄居へ追い込んだ知恵者で胆力も騎士としての腕もあったイェレミーアスの父とは違い、臆病で小心者のハンスイェルクである。
ハンスイェルクが、自分の父に逆らえると思えない。政治的にまともな判断を下せるイェレミーアスが居ない今、ラウシェンバッハ領を混乱に陥れるには、実に都合がいい人物なのではないだろうか。どれほど武人として強くとも長年の蟄居、高齢とくればいつでもラウシェンバッハ伯爵を殺した手を使って下すのは簡単だ。女にだらしないようだから、女を使えばより確実だろう。
ぼくがミレッカーならイェレミーアスの父が亡くなった直後に何かと理由を付け、色ボケジジイを解き放つよう指示するだろう。今現在、そうなっていないのは、ハンスイェルクが色ボケジジイを畏れているからではないだろうか。
小心者が、自分にとって頭が上がらない人物を解き放ちたがるだろうか。否である。姑息に何かと理由を付けて先延ばしする。小心者であればあるほど、できるだけ悪あがきすると、断言できる。
ぼくがハンスイェルクならそうする。小者には、小者の心なんてお見通しよッ!
「ハンスもこの事は忘れてください。特に、ヨゼフィーネ様やベアトリクス様、イェレ兄さまの前では知っている素振りは厳禁です」
「かしこまりました」
「――それから、早急にライムント・ラウシェンバッハを……いや、これはルチ様に頼みましょう」
唇へ指を当てながら呟く。途端に客間へ藍色のベールが降りた。部屋の真ん中へ闇が集まり、宵闇色が形を取る。
『……呼んだ、か?』
「ルチ様、今すぐラウシェンバッハからライムント・ラウシェンバッハを連れて来てください。あ、ここへ連れて来てはダメですよ。ゼクレス子爵邸の隠し牢へ放り込んでおいてください。あと、この手紙をリース卿へお渡しして来てください」
『……分かった』
会話に一瞬間が空くのはいつものことだが、ルチ様の表情が僅かに曇った気がした。確認する前に、粒子になって崩れるように宵闇色が霧散する。藍色のベールが引き抜かれるように剥がれた。部屋の中に差し込む光で、細かな埃がきらきらと光る。
「……ほんとこの国の貴族ってろくな人間がいないんだから……」
頬づえをついて、窓の外へ顔を向ける。ハンスは何とも言い難い表情でぼくを椅子から下した。ぼくは両手を広げてハンスへ抱っこを促す。
「……ご自分で歩くとおっしゃらないのですね?」
「……っ、じっ、自分で歩けますっ!」
イェレミーアスに抱っこされるのが当たり前になってしまっている。これはよくない。だってぼくもう、一人で皇宮の中だって歩き切れますし!
「フレートに告げ口してはいけませんよ、ハンス!」
「……っ、はい」
必死に笑いを堪えるハンスのズボンを掴んで歩く。先に修練場へ移動したジークフリードやイェレミーアスには、事業の関係書類を片付けてから合流すると伝えてある。昨日のお茶会からイェレミーアスは少し、元気がない様子だ。
修練場へ到着すると、イェレミーアスは双剣使いのインゴ・クレンゲルと激しい打ち合いの最中だった。木剣とは思えない重たい音をさせ、しかし早い動きで互いの斬撃を返している。ややイェレミーアスが優勢だろうか。しかしインゴも紙一重のところで逸らしている。
インゴは小柄な三十代後半と思しき、細身の男だ。イェレミーアスもインゴも集中しているようで、こちらに気づかない。
逆にローデリヒに稽古を付けていた槍術使いのクーノ・ヴェッセリーは、訓練用に先を潰した槍を落としてぼくの顔をぼうっと見ている。大きな体で筋骨隆々といった偉丈夫だが、こちらは二十代前半だろうか。
剣術指南に回るにはいささか若いが、左手を見て納得した。クーノの左手は、肘の辺りから切り取ったようになくなっている。怪我で退役を余儀なくされた騎士なのだろう。
「おい、クーノ。クーノってば! なぁ! スヴェンはあんな傾国の美女みたいな顔して、ものすげぇ怖ぇからな? おい、クーノ!」
「はじめまして、ヴェッセリー卿。スヴァンテ・スタンレイと申します」
ぺこりと頭を下げると、クーノはぼんやりぼくを見つめてぽつりと呟く。
「ローデリヒ様、妖精が、妖精が俺にしゃべりかけてますよ……? あれ、これ夢かな……」
「妖精もかくやという可憐な顔に騙されるなよ、クーノ。仕事は片付いたのか? スヴェン」
「ええ。決済書類に判を押す程度ですので。お待たせして申し訳ありません、シェーファー公」
「……スヴァンテ様が、事業の決済しておられるのですか?」
「ええ。ぼくには後ろ盾となる親がおりませんので、自分の食い扶持は自分で稼がなくてはならなくて。お恥ずかしい限りです」
頭を掻きながら答えると、シェーファーは目を丸くしてぼくを見つめた。ぼくは気にせず木剣のレイピアを手に取る。
「……ベステル・ヘクセ様にお願いすれば、いくらでも小遣いをくださるのではないのでしょうか」
半ば無意識、というような呟きだった。普通の貴族の令息ならそうしただろうことを、平民からのし上がり貴族を見て来たシェーファーはよく知っているからこそ、だろう。貴族というのは、幼い頃から悪気なく特権階級なのだ。ぼくはシェーファーと正面から向き合った。
「ルカ様はぼくの書類上の保護者ではありますが、ぼくの師匠です。小遣いをせびる弟子など、師の名を汚すだけでしょう。幼いからと恩を仇で返すほど、ぼくは恥知らずにはなれません」
「……失礼を申しました、スヴァンテ様。やれ、稀代の天才との呼び名はまことでございましたな。殿下は人を見る目がおありだ」
「そうだろう、そうだろう。オリバー、お前も話していただろう? 『
「なんと! 商才までおありとは」
「色々と手を出しておりますが、ありがたいことに何とか自分の生活を維持することができる程度の稼ぎは得ることができているような状態ですよ」
満足気に頷いたジークフリードへ苦笑いして見せる。こういう無邪気さが、ジークフリードの憎めないところだ。
「今度、シュテールナ歌劇団という小規模な劇団を立ち上げるのですが、公演が決まったらチケットをお送りいたします。楽しみの少ない皇国の冬に、皇都の皆さまへ娯楽を提供できればと思っているのですよ。ぜひ、奥方様といらしてください」
そう、『椿の咲くころ』にヒントを得て、ぼくはイェレミーアスの評判を上げるための歌劇を行うことにしている。父を謀殺された心優しく清い騎士である少年が、麗しい精霊の力を借りて仇を討つためにどんな苦難も乗り越え、己の地位を取り戻す話だ。
「何故、
ぼくが歌劇を通してイェレミーアスの現状を世間へ広める計画を話した時、ジークフリードはそう問いかけた。
「土台を作るのです、ジーク様」
「土台?」
「そうです。けなげな美少年の苦難に満ちた物語。大衆はそういう物語に弱い。そして物語と近い境遇の人間が現れたら、過度に同調し、同情する。そんな物語が語られた後、実際に同じ境遇で、同じように悪事を働いた者が現れたらどうなるでしょう?」
「……誰もが悪党を憎み、いつまでもその悪事を忘れず、後ろ指を指す……」
「ましてや、それが先祖に裏切り者として有名な人間が実在する家系であればなおさら。物語と共に、その悪行は語り継がれるでしょう。そうなるべきだ、とぼくは思っています」
「お前は本当に……いや、今さらか」
深くため息を吐き、ジークフリードは僅かに眉を寄せて首を振った。イェレミーアスは無言でぼくの頬へ顔を寄せた。ぼくを抱きしめた手へ、自分の手を重ねた。
ぼくは自分自身のためにも、イェレミーアス親子のためにも、最大限にミレッカーを追い込むつもりだ。そしてイェレミーアスの復讐を、正当かつ崇高なものであると人々へ刻み付ける。
イェレミーアスを、止めるためにも。
それがぼくの願いだ。
イェレミーアスの怒りは、いつ爆発してもおかしくない活火山のようなものだ。抑止力になるものは、いくつあっても足りない。
「イェレ兄さまへ、まずは名誉を取り戻してさしあげますからね」
「……それが復讐へと繋がるなら、受け取ろう。私はヴァンを信じている」
その盲目的なぼくへの過信がつらい。けれどもう、奏で始めた音楽を止めることはできない。伴奏は始まっているのに舞台の上で演者が立ち尽くす歌劇など、目も当てられない。
ぼくは、最後まで己すら欺き踊り切る覚悟を決めた。
「それにぼく、どうしてもシェーファー公を味方にしたいんですよね。剣の腕はウード公のお墨付き。もう貴族ではないから、どこの派閥にも属さない。平民だけれど、ミレッカーとておいそれとは手を出しがたい。他に適任が居ない」
「歌劇が、何故シェーファーと関係するのだ?」
「自分の息子の死が実は暗殺だったと噂が流れた後、似たような状況で父を暗殺されたイェレ兄さまの苦境を想わせるような歌劇に招待されたら、どうします?」
「是が非でも、お前と一対一で話しをしたいと願うだろうな」
怪しくないわけがない。絶対に探りを入れたくなるだろう。ジークフリードの答えに、ぼくは頷いて見せた。
「……しかし、妖精の助けを得て、とはな」
大まかな流れを書いた台本を読み、ジークフリードは苦笑いした。ぼくは心底同意して頷いて見せた。
「都合の悪いことは全部妖精に助けてもらえるなんて、物語は楽ですよね……」
「いや、そういう意味じゃないんだが。相変わらず自覚はないのだな。まぁ、いいか……」
実際、ぼくらが行っているような証拠集めをするんじゃ、演劇としては地味だからね。麗しい妖精が主人公のため、けなげに助ける方が盛り上がるでしょ。
一つ不満があるならば、妖精の容姿である。
地味なんだよ。赤毛に鳶茶色の瞳なんだ。麗しい妖精との淡い恋物語も必須だろう、とぼくが言ったら忙しいはずのベッテが何故か頑なに「妖精の容姿はこれでなくてはなりません」と譲らなかった。イェレミーアスも強く頷いていたし、ジークフリードが「妖精の容姿はこれでなくては人死にが出るぞ、スヴェン」と脅すので仕方なかった。
「赤毛に鳶茶色の瞳と聞いて、何か思い至らないのか? スヴェン」
ジークフリードに問いかけられたが、「地味ですね」以外に何の感想を持てというのだろう。分からない。
ともあれ、皇国の冬は寒く、厳しい。外出もままならない日が続く。社交のない冬に、皇都の貴族の心を掴んでおく算段である。平民向けにも演劇と、紙芝居を準備している。
「もちろん、台本もスヴェンが書いたのだ。多才だろう?」
「……まっこと、傑物とは公子のためにあるような言葉ですな」
「父上が惜しむほどの才能だ。オレはスヴェンが幼なじみで得をした」
からからと笑うジークフリードの向こう側で、シェーファーの視線がぼくを捉えている。見慣れた色の浮かんだ虹彩を悠然と、そして真っ直ぐに見つめ返した。
「それでは、本日もご指導お願いします」
ぼくが頭を下げると、途端にシェーファーは騎士の顔をした。大きく踏み出すふりで、小刻みに左右へ揺さぶる。
「まるで剣舞だな」
ジークフリードの声が耳に届いた。気にせず踊り、踊らせ続ける。
速いステップから、大胆に、繊細に。サイドチェンジ、ターン、スピン。ウィスク、インピタス、シャッセ。コルテ、ピポット、ヘジテーション。
優雅に足を運び、視線と表情で嘘を吐き、相手を踊らせ、踊らずには居られぬよう追い込む。思った場所へ。有利な状況へ。
シェーファーの瞳に、再び見慣れた色が宿った。今ならその色が、どんな色なのかはっきりと分かる。
怪物を見る目だ。けれど、それで構わない。
ぼくのように非力な子供が、大人に勝つには真っ向勝負など以ての外だ。一撃必殺なんて狙えるわけがない。小さく、小狡く立ち回り、土台を削り、足を削ぎ。
狡かろうが、小賢しかろうが、関係ない。放置したそのささやかな傷が、腐って膿んで致命傷になるように立ち回るのみ、だ。
一度死んだ身だからか、この世界で死ぬのも不思議と怖くない。現実味が湧かないというのが正しいかもしれない。
けれどぼくには、守りたい人たちが居るんだ。できれば幸せに暮らしてほしいし、できるだけ天寿を全うしてほしい。そのためならぼくは、どこまでも下種に策を弄して縋って泥臭く生き抜いてやる覚悟を決めた。
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