第65話 反間苦肉の舞踏曲 ⑶

「――、終わっ……たぁぁぁぁぁ……!」

 搾り出すように宣言し、机へ突っ伏す。ぼくの声にジークフリードとイェレミーアスは立ち上がった。ぼくの脇へ移動する気配を感じていた背中を、二つの手が撫でた。

「お疲れ、ヴァン。さ、こっちでお茶を飲もう」

「ご苦労だった、スヴェン」

 抱えられてソファへ移動する。ぼくはしょぼしょぼする目を閉じたまま、イェレミーアスへ凭れかかった。

「うっうっうっ、長かったよぉ、このぼくが本を読むのに飽きかけるとか、ほんとつらかったですぅ……」

 使命感でする読書って楽しくないんだね。

「それは余程つらかったろうね、ヴァン。よしよし」

 イェレミーアスの胸へ愚痴を滲み込ませる。優しい手がぼくの髪を何度も撫でた。

「お疲れさま。今日はヴァンの好きな神話を、読み上げてあげるよ」

「ありがとう、イェレ兄さま……」

 抱っこしてもらって本を読み上げてもらうと、イェレミーアスのボーイソプラノが密着した体へ響いてとても心地いいんだよね。時々おねだりするんだけど、過度に甘やかされるのはよくないと思って、本当にヘコんだ時だけにしている。

「薬学士が知っている知識を薬学典範には載せていないという事実だけが分かれば、あとの検証は父上に任せればよい。ご苦労だったな、スヴェン」

「ありがとうございます、ジーク様。検証は陛下にお任せして、ぼくらは次の策を練りましょう」

「次の策、とは?」

 一拍遅れてソファへ座ったジークフリードと、向かい合う。

「ミレッカーの余罪を、集める策です」

「……他にも父上のように、暗殺とは気づかぬよう殺された人がいる、という話だね? ヴァン」

「はい。そうして暗殺された人と暗殺を唆された人が分かれば、ミレッカーが何を企んでいるかがおのずと見えて来るでしょう」

「企みのため、ミレッカーにとって生きていては邪魔な者、生かして弱みを握っておきたい者……そういう者が明らかになる。そういうことだな? スヴェン」

「はい」

 ミレッカーははたして単なる小悪党か、それとも大きな企みがあるのか。ミレッカー家へ嫁いだ女性が、続けて気を病んでいることも何だか不穏だ。

「まずミレッカーの謀である疑いのある死を集めるため、シェーファー公に気づいてもらわねばなりません」

「噂を耳にして今後、シェーファーがどう動くかが肝要ということか、スヴェン」

「ええ。でも……望まぬ人を巻き込むのは本意ではありません。シェーファー公がぼくらに協力することを是としないならば、別の方法を考えなくては」

 自分が形にした言葉にうんざりとする。それがどれほど残酷なことか。それをイェレミーアスに聞かせることの、何と無神経なことか。ぼくがもっと賢ければ、他に方法があるかもしれない。けれどぼくにはこんなことくらいしか思い浮かばない。

 それでもイェレミーアスは、ぼくを柔らかく抱きしめて耳元へ囁いた。

「……そうなればシェーファー以外の、不審な死を遂げた者の家族が必要だ。怒りに満ちて、復讐を強く望む、そのための我慢も努力も惜しまない。愛する人を奪われた人間が。そうだね? ヴァン」

 体を捻ってイェレミーアスの顔を仰ぐ。ぼくと目が合うと、勿忘草色の虹彩には悲しみが広がった。

「……ええ。ミレッカーの悪事を暴くためなら、どんなこともできる人間が」

 イェレミーアスがそうであるように。

 ギーナでは少し弱い。執事が彼を庇護していたからだろうか。タウンハウスで過ごすギーナは、憑き物が落ちたように穏やかだ。本来ならまだ、無邪気に過ごすはずの幼子だ。それならば無理矢理、復讐を促すのは本意ではない。

 イェレミーアスの悲しみを、怒りを、ぼくは利用している。例え復讐を望んだ本人がそれに同意したとしても、それは紛れもない事実だ。

「そんな顔しないで、ヴァン。私が望んだことだ」

 イェレミーアスの指の腹が、ぼくの頬を撫でる。少し高い体温が指先からも十分に伝わる。まるでそれは彼の怒りや悲しみのように、肌に残る。

 ジークフリードが無言でソファを立ち、ぼくらの脇へ立つ。それからイェレミーアスの肩へ手を置いた。

「どんなことをしても、真実を暴こう」

「ええ。じゃないとぼく、きっとミレッカーに殺されてしまいますから」

「……そうだろうか」

 イェレミーアスがぽつりと呟いた。驚いて甘い美貌を見上げる。

「ミレッカーは、ぼくを殺すつもりはないと?」

「ヴァンを殺すつもりなら、とうに何か手を打ったんじゃないかな? 精霊様はどう言ってる?」

「……」

 ぼくに害意を持ってタウンハウスへ忍び込もうとした人間は、ルチ様が管理している。しかし今までの侵入者はあくまで「悪意」レベルで結界に弾かれているらしい。血生臭いのは嫌なので、殺してはダメだとルチ様に伝えてある。ゆえに誰に命じられたのか聞き出してから、記憶を消して逃がしているそうだ。皇王の間諜もミレッカーのスパイも、殺意まで抱いた人間の侵入はなかったとルチ様が言っていた。

 ミレッカーがぼくに抱いているもの。殺意ではないもの。あの異常な執着と偏執的な熱。

「……ぼく自身への執着ではなく、フリュクレフの血への執着だとしたら現フリュクレフ公爵やシーヴへの無関心は説明が付かない」

 口いっぱいにラングドシャクッキーを詰め込んでいたルクレーシャスさんが、不意に発した。

「君である理由があるだろう? むしろ、君でなければならない」

 ぼくでなければならない理由。異常な女王への執着。共通点は。

「……デュードアンデ」

 呟いて唇へ指を置く。認め難いが、ぼくと女王の共通点はおそらくそれしかない。

「デュードアンデについて、もっと詳しく聞かなくちゃ……」

 ハンスやフレート、ユッシの反応から察するにデュードアンデについて、ぼくに話しにくい何かがあるのではないだろうか。そしてそれはおそらく、ミレッカーをデュードアンデに執着させている理由でもある可能性が高い。ハンスやフレートは、意図的にぼくへそれを話さなかったのではないだろうか。

 そしてそれは、女王がどんな屈辱に耐えようとも望まなかったことなのではないだろうか。囚われ、名ばかりの爵位を与えられ、父親を知らぬ子を育てることになっても、それを選べなかった。

 初代ミレッカー宮中伯、裏切り者のヴォルフラム・ミレッカーが、現ミレッカー宮中伯やバルタザールが、女王のためと信じて疑わない妄執。ヴォルフラム・ミレッカーの企みとは異なる女王の願い。

 そんな、何か。

 ――それは、何だ?

 妖精や精霊に人間の常識は通用しない。例えば、ぼくがお願いしたら妖精や精霊が叶えてくれそうなこととは何だ?

「……」

 女王がそれを願わなかったことからも、良からぬことだろうということだけは断言できる。一体、何だろう。全く思い浮かばない。しかし。

 ふと気づいて軽く頭を振る。

 一度でも、妖精や精霊がぼくのお願いを断ったことなんてあっただろうか。女王の、歴代デュードアンデの、お願いを何でも聞いて来たのではないだろうか。

 それは、何を、どこまで? ひょっとして、どんな願いも、どこまでも。

 妖精や精霊たちはどこまでも無邪気で残酷で、人間にとっての善悪や倫理などお構いなしだ。悪用しようとすれば、何でもできてしまうのではないだろうか。

「――っ」

「ヴァン?」

「――、目が……疲れちゃいました。明日はロン様がお誘いくださったメッテルニヒ伯爵家のお茶会もありますし、今日は早めに休みますね。ジーク様、ルカ様」

「ああ。ゆっくり休め、スヴェン」

「それでは私も失礼いたします、殿下。ベステル・ヘクセ様」

「うん、お休み。イェレミーくん、スヴァンくん」

 イェレミーアスの首へ手を回し、立ち上がる動きに備える。危なげなくぼくを抱えたまま立ち上がったイェレミーアスは、ジークフリードとルクレーシャスさんへ挨拶をして応接室を出る。応接室の扉をオーベルマイヤーさんが開けてくれた。

「オーベルマイヤーさんも、おやすみなさい」

「お休みなさいませ、スヴァンテ様」

 娘さんもまだ幼いというのに、こんな時間までジークフリードに付き添っているのだ。前世社畜としては、どうしてもオーベルマイヤーさんへの同情を禁じ得ない。

「ジーク様、早めにオーベルマイヤーさんをおうちへ帰してさしあげてくださいね。娘さんが父上のお顔を忘れてしまいますよ。そうなっては切ないですから」

「ははっ、そうするとしよう。今日はもう帰っていいぞ、フレッド」

「殿下とスヴァンテ様のお気遣い、ありがたく頂戴いたします」

「うむ」

 鷹揚に手を振って答えたジークフリードを目の端に入れ、その場を離れる。ぼくを抱えたまま客間へ移動するイェレミーアスの後ろを、ハンスとラルクが付いて来る。その後へ静かに付き従うオーベルマイヤーさんへ、階段で別れて手を振った。深々と頭を下げたオーベルマイヤーさんの頭頂部がちょっと薄くなっているような気がして、ぼくは切ない気分になった。

「ヴァン」

「はい、イェレ兄さま」

「全てを話す必要はないが、私に頼みたいことは遠慮せずに言ってくれ」

「……」

 腕を伸ばし胸を開けてイェレミーアスの顔を眺める。勿忘草色の虹彩には、懇願に似た慈愛が見えた。

「はい。遠慮なく。でも今はまだ、考えをまとめている最中なので決まったらお願いしますね」

「ああ」

 ぼくへ割り当てられた客間の前にはウルリーカが立っていた。

「部屋の中で待っていていいんですよ、ウルリーカ」

「そういうわけには参りません、スヴァンテ様」

 ウルリーカは少し困ったように笑って首を傾けた。それから客間の扉を開く。

「ラルク以外、呼ぶまで入って来なくていい」

 イェレミーアスは短く伝えると、ぼくを抱えたまま部屋へ入る。ラルクはイェレミーアスへ視線を送ると、頷いてバスルームへ歩いて行った。

「ヴァン、沐浴するまで我慢できる? もうおねむかな?」

「ううん。まだ眠くないですよ」

 ぼくをソファへ下ろし、足元へ跪いたイェレミーアスの甘い美貌へ目を向ける。両手を掬うように下から持ち上げられ、揺らされた。

「明日はロンと私たち以外、知り合いのいないお茶会だ。完璧に準備しなくては、ね」

「はい」

 メッテルニヒ伯爵家は中立派だが、懇意にしているのはやや貴族派寄りだ。メッテルニヒ伯爵家の招待した客の中に、ぼくらへ良くない感情を持つ貴族も参加しているかも知れない。けれどそういう貴族たちにも、何がどこまで噂として広がっているか、確認したかった。だからこそ、ロマーヌスの誘いに応じたのだ。

「アスさん、沐浴の準備できたよ」

「うん。じゃあ行こうか、ヴァン」

「はい」

 ぼくはラルクとイェレミーアスにお世話されることにすっかり慣れてしまった。他の侍従には貴族らしい態度のイェレミーアスも、ラルクが砕けた口調で話すことを許している。ぼくが本当に気兼ねなくお世話してもらえるのは、ベッテやハンス、フレートを除いたらこの二人だけだ。

「イェレ兄さまは、ぼくを甘やかしすぎですよ?」

「……甘えてるの? ヴァン。嬉しいな」

 甘い笑みは、キャラメルのように溶けて広がる。人をダメにする笑みだこれ。

 沐浴を済ませてイェレミーアスの胸に凭れて本を読んでもらいながら、ぼくは心地よく眠りに落ちたのである。

 翌朝、いつも通りにイェレミーアスに起こされ、身支度をしてもらう。最近はラルクも加わって準備が進む。イェレミーアスがラウシェンバッハに戻ったら、ラルクがお世話してくれるようになるんだろうな。まぁぼくも、その方が気が楽である。

「ヴァンのクラヴァットは勿忘草色にしようね。私のは鳶茶だよ。本当は松虫草色がいいのだけれど」

 お互いの瞳の色である。ぼくのクラヴァットをふんわりとリボン結びにして、にっこり微笑んだイェレミーアスの美貌が眩しい。ぼくへ一通り服を着せると、イェレミーアスは自分の身支度をするために客間へ戻って行った。

 初めはイェレミーアスが支度する間、ぼくもイェレミーアスの部屋で待っていたのだけれど、他人が着替えている部屋で待つのはなんだか落ち着かない。だってさ、イェレミーアスはお世話され慣れてるからもう、真っ裸で全然平気そうなんだもん。逆にぼくが気まずい。

 イェレミーアスが身支度を済ませるまで、ぼくはラルクとしりとりして待っていた。久しぶりのラルクと二人きりの時間だ。ラルクが嬉しそうでぼくも癒される。

「アマリリス」

「す? す、す、スヴェン! あっ」

「ふふふ、ラルクの負けだよ」

「またオレの負けかぁ」

 両手でラルクの頬を包む。くすぐったそうに笑った無邪気な素直さが、荒んだ企みばかりを脳内に巡らせているぼくに沁み込む。

「楽しそうじゃないか、スヴェン、ラルク」

 ノックの音に振り返る。ジークフリードが開いた扉に寄りかかっていた。その後ろから、支度を済ませたイェレミーアスが顔を見せる。

「妬けてしまうな。ヴァンが心から信頼しているのはやはりラルクなんだね」

「……ラルクとは、生まれた時から一緒ですから。さ、ロン様のところへ参りましょうか」

 ロマーヌスと遊び呆けている印象を確かなものにしたい。だから今日のお茶会では、子供らしくするつもりである。喜鵲の紋章が付いたジークフリードの馬車に乗って、ルクレーシャスさんを伴い遊び回る。これ以上ない「貴族のバカ息子」を演じる。相手が勝手にぼくらを侮ってくれればなお良し、である。

 メッテルニヒ伯爵家に到着して早々、遠慮のない好奇の目に晒されるのが分かった。全身を耳にして、ひそひそ話を捉える。その中に、気になる言葉があった。

「祖父の色狂いの血が出たのか、離宮の妖精を片時も腕から離さぬとか」

「あらやだ、本当ですわね。ピンクサファイアは色狂いの血を引いたのですわ」

「ライムント様は好色と有名なお方ですから」

「ヨゼフィーネ様はほっとしているでしょうね。孫娘であろうと、年頃になったら……気が気ではありませんでしょう?」

 首を巡らせると、話し声は鎮まる。イェレミーアスは押し黙ってぼくを抱える腕に力を込めた。

「『誠実』というピンクサファイアの宝石言葉を知らぬ方がいらっしゃるようですよ、イェレ兄さま」

「……言わせておけばいい。私には関係のないことだよ、ヴァン」

 けらけらと細く高い笑い声が、イェレミーアスの背中を撃った。

「関係なくはないでしょう、ラウシェンバッハ伯。あなたのおじい様、ライムント様は身分年齢関係なく、気に入った女に手を出すことで有名なお方ではありませんか。あげくそのことをあなたのお父上であるディートハルト様に非難されたら、私生児を皆殺しにする有様でしたわよね?」

 血のように赤い唇、真冬の白磁に似た肌、井戸の底を覗くように昏い藍色の瞳に宵闇色の髪。陰鬱が影のように貼り付くその容貌は、二度と会いたくなかった人物である。

 ぼくとビルギットを対面させぬよう、くるりと振り返ってイェレミーアスは毅然と言い放つ。

「……――私はラウシェンバッハ家の恥である祖父ではなく、父に似たので関係ありません。残念ながら、叔父は祖父に似てしまったようですが。ごきげんよう、ビルギット嬢。あなたはお父上によく似ておられますね。ああ、失礼。確かあなたは、お父上を大変嫌っておいででしたか」

「……っ」

 背中で舌打ちの気配を感じ、ぼくはイェレミーアスへ体を預けたままじっと待った。ビルギットが離れて行ったのを感じてしばらくすると、イェレミーアスが歩き出す。

「ごめんね、ヴァン。耳を汚してしまった」

「いいえ。お気になさらず。身内がどうであれ、イェレ兄さまはぼくの大好きな優しいイェレ兄さまですよ」

 イェレミーアスは無言でぼくの髪を撫でている。フレートと目が合う。フレートは小さく頷いてぼくへ視線を合わせた。

 こういうところが、ぼくはぼくを嫌いなところなんだ。

 誰だって言いたくないことの一つや二つあるだろう。イェレミーアスが話したくないなら、無理に聞く必要はない。

 ――本人の口からは。

 知らない情報は重大な過失を呼びかねない。ぼくらは今、何が致命的なミスに繋がるか分からない遊戯盤の上に居るのだから。

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