第60話 はじまりの ⑴
「おかえりなさい、スヴァンテちゃん」
月明宮に戻ると、皇后はいつも通りにぼくへ微笑んで挨拶をしてくれた。
多分、諸事情を理解しているのだろう。皇王も皇后も、敵ではないが味方でもない。理解者ではないが、邪魔もしない、といったところか。
「とても勉強になりました。ぼくに機会を与えてくださったこと、感謝いたします。皇后陛下」
「あらぁ、わたくしはただ、わたくしが健康を害した時、スヴァンテちゃんが知恵を貸してくれるように恩を売っただけよ?」
「困りました、ますます精進しなくては」
少女のごとく笑って見せた、皇后へ素直に面食らった表情を晒す。リトホルムは静かにアイスラーの脇へと戻り、影のように控えた。この老人の人生とは、ずっとそのようなものであったのだろう。おそらく、他の薬学士もまたそうなのだろう。
ぼくが目の端でリトホルムを見ていると、ジークフリードは皇后の視界を遮るように前へ進み出た。
「これ以上、本の虫になってどうする、スヴェン。お前は忘れず、オレと遊んでくれなくてはならないぞ。オレの侍従なのだからな」
「まぁ、ジークったら。スヴァンテちゃんを独り占めしようとして、困らせてはダメよ?」
「あははっ、ジーク様のことも忘れませんよ。せっかくですから、皇宮に居る間はジーク様やイェレ兄さまと一緒に剣術を習おうと思います」
ジークフリードはこういうところが上手い。皇后の意識が完全にリトホルムから離れた。
「では皇后陛下、わたくしどもはこれで」
「ええ。また明日おねがいね、アイスラー」
皇后が軽く手を上げる時には、リトホルムはすでに扉の外だった。ローデリヒが頭の後ろで手を組んで伸びをする。
「じゃあ、オレも時々来ていいか、ジーク」
「ああ。リヒも一緒に修練しよう」
「でも無理をしてはいけないよ、ヴァン。ヴァンのかわいい手に傷がついてしまったらと思うと、私は心配で仕方ない」
「はい。イェレ兄さまが修練はおしまいとおっしゃったら、止めるとお約束します」
「約束だよ?」
「はい」
片手を柔らかく握り締められ、
「んっふ!」
「大丈夫ですか、皇后陛下!」
つわりは終わっている時期だけれど、何か体調に変化があったのだろうか。慌てるぼくへ、皇后は手を上げて答える。
「大丈夫よ、スヴァンテちゃん。ちょっと大量の美少年を過剰摂取してしまって、心臓がびっくりした音なの平気だわ」
「……」
そんな音あるんでしょうか。尋ねるのがなんだか怖くて、ぼくはジークフリードへ顔を向けた。ジークフリードは何かを諦めた目でぼくを見つめ返す。完全なる虚無だ。
「あはは、うちのかーちゃんと同じこと言ってら」
「さすがユーディト。
何を? 何を分かり合っているんでしょうか、エステン公爵夫人と皇后は。そういえばベッテも、何事かを皇后と分かり合ってたな~。深く頷く皇后と、死んだ目をしたジークフリード交互に見やる。
……ぼくは何も聞かなかったことにした。
黙り込んだぼくとジークフリードを余所目に、ローデリヒが尋ねる。
「なぁ、今日オレも泊まって行くから、みんなで一緒に風呂入ろうぜ! ほら、こないだスヴェンが作ってくれた竹筒から水が出るヤツ! あれで遊ぼう!」
「いいな! やろう、やろう!
「チッ」
ジークフリードも手を打って躍り上がる。えっと、今耳元で舌打ちされた気がしたけどきっとぼくの思い過ごしだ。
ローデリヒは先日、ぼくがパトリッツィ商会で売り出そうと思って色々試作していた水鉄砲が今、一番のお気に入りなのだ。ジークフリードとハイタッチして、ローデリヒがぼくとイェレミーアスへ顔を向けた瞬間、皇后が胸を押さえて叫んだ。
「そんなの羨ましい覗きたい! じゃなくて走っては危ないから大人しくそのまま交流を深めて是非みんな一緒にお風呂へ入りなさいッ!」
「……母上……」
ジークフリードは手を下して皇后を見た。元気そうで良かったのか悪いのか、ぼくには分からない。ただ、これ以上ここに居ると皇后の体調によくないのではという予感がした。
「ええっと……興奮させてはお体に障るので、ぼくらはこの辺で失礼させていただきますね、皇后陛下……」
「おっ、おほほまた来てねスヴァンテちゃん、ローデリヒちゃん、イェレミーアスちゃんっ!」
「うっす」
「本日はこれにて御前を失礼致します、皇后陛下」
「イェレミーアスちゃんはスヴァンテちゃんを抱っこしたままなのね……いいわ……嫌いじゃないわ……ピンクサファイアの王子さまは妖精姫がお好き……ふふっ」
ジークフリードへ視線を落とすと、疲れ切った様子で静かに首を横へ振られた。なんだろうな。どんまい。
皇后の居室を出て、月明宮の庭へ出る。少し離れて付いて来る侍女や護衛騎士たちを確認して、ジークフリードがイェレミーアスの脇へ立つ。
「で、どうだった?」
「リトホルムをぼくらの味方にできそうです」
「やったな!」
「さすがスヴェン、人たらし!」
「人たらしってなんですかリヒ様、人たらしって」
「人たらしというか、スヴァンくんのは人誑かしっていうか」
通常運転でルクレーシャスさんが辛辣である。何でもいうこと聞いちゃうくらい、かわいい弟子じゃなかったのか! キャラメルで目いっぱい膨らんだ、ルクレーシャスさんの頬袋を睨み付けた。
「自覚がないから余計に質が悪いんだ、ヴァンは」
なんだろう、この手の話題になるとぼくには味方がいない。くそう。話題を変えよう。
「さて、今までは
「?」
「??」
「それは、どういうことだい? ヴァン」
疑問符だらけの顔をした一同を眺める。ぼくは覚えずにっこりと微笑んでいたらしい。ルクレーシャスさんが肩を竦めた。
「ぼくらは敵から隠れながら、鬼ごっこをします。隠れながら、鬼を招きながら、ひらりひらりと躱して逃げて、悪い鬼を誘導するんです」
――罠へと。
「――っ!」
人差し指を唇へ当て、囁く。ルクレーシャスさんまでもが、息を飲んだのが分かった。
「既に餌は撒きました。後は餌に食い付いた鬼が落とした情報の断片を集めて、こちらが手にした情報は隠して、奴らが何を企んでいるのか、暴くだけです」
「……奴らの企みを、暴いたら?」
密着した肌から響く、イェレミーアスの問いへ答える。
「真実と太陽の神、聖アヒムの元へ晒すのみです。正しく裁きの下るように」
至近距離にある、イェレミーアスの横顔へ目を向ける。その表情を、ぼくは一生忘れられないだろう。
泣いているような、怒っているような、呆然としているような、それでいて、そのどれでもない。けれど、イェレミーアスの唇は確かに笑みの形に固定されていた。
「時間がかかると、予想しています。ぼくに、時間をいただけますか。イェレ兄さま」
「ああ。……ああ、ヴァン。時間なら、いくらでも。奴らを引き摺り出せるなら、いくらでも耐えてみせよう」
その、狂気は。
一体いつまで、抑えられるのだろう。触れあった肌から伝わる、そのじりじりと炙られるような熱を。
いつまでぼくは、誤魔化せるのだろうか。
何気なく視線を巡らせる。ルクレーシャスさんだけが、ぼくへ心配そうに目を向けていた。その後ろに明るいアプリコットオレンジの髪を認めて、手招く。
「ハンス」
「はい、スヴァンテ様」
「知っていたら教えてほしいのですけど、デュードアンデって何のことか分かりますか?」
「! ……スヴァンテ様、私はそれを存じ上げかねます」
存じ上げません、でも存じません、でもなく、「存じ上げかねる」。フレートから厳しく教育されているハンスが、こんな含みのある言い方をするのはおかしい。
ホリゾンブルーの虹彩が、真っ直ぐにぼくを射抜く。ここで口にしてはいけないことのようだ。ぼくは頭を傾けて拳を唇へ当てた。
「う~ん、そうかぁ。知らないなら仕方ありません。忘れてください」
「……はい」
ハンスとぼくの様子を察したジークフリードが、大きな声を出す。
「そうだ、星嬰宮の準備が整うまで勉強部屋で少し雑談しよう」
「いいですね。参りましょう」
ナイスだジークフリード。あそこなら秘密の会話をしやすいし、何かが必要になった時ハンスやオーベルマイヤーさんに頼み事をしやすい。
ジークフリードの声に、後ろへ付いて来ていた侍従や騎士たちが数人、離れて行く。行き先が変更になったことを伝えに行くのだろう。
「本来はこの後、どこへ行く予定だったのですか? ジーク様」
「父上のところだが、気にせずともよい」
「……気に、しなくていいんですか?」
「いい。言うなればスヴェンは父上やルーヘンやフェリクスの、尻拭いをさせられているのだ。聞きたいことがあるのなら、向こうからお前を訪ねて来るのが筋だろう。子供と侮って道理を通さぬ者に謙る必要などないぞ、スヴェン」
きっぱりと言い放った幼い君主の横顔へ目をやる。フローエ卿がにやけた表情で自分の顎を撫でた。確かな足取りで庭園の出口を目指すジークフリードの背中は、夕焼けを浴びて赤銅色に輝く。
「頼もしくなられましたね、ジーク様」
「おう。悪知恵の働く幼なじみのおかげで、な」
顔を見合わせ、笑い合う。ぼくへ視線を投げかけ、不敵に笑った表情はまだ幼く、いたずらっ子そのものだ。それでも君は、いつでもぼくに人間の成長についての可能性を見せてくれる。
「誇らしい幼なじみの将来が楽しみです」
「お? ……おう」
褒めるとすぐに照れちゃうとことか、かわいげがあるんだよな、ジークフリードは。
「勉強部屋にフレッドを呼んでおけ」
おそらくオーベルマイヤーさんは今頃、ぼくらを星嬰宮に受け入れる準備をしているのだろう。汗をかきながら駆けて来るオーベルマイヤーさんを想像して、同情を禁じ得ない気持ちになった。
月明宮の庭から出て、奥の宮の廊下に出る。庭にぽつんと据え付けられた扉から建物の中に出るというのは、なかなか慣れない光景だ。扉の向こう側には一見、そのままどこまでも庭が続いているように見える。こういうの異世界っぽくない? わくわくしちゃうよねっ!
廊下を進んで勉強部屋へ入る。部屋全体が藍色のベールに覆われ、ルチ様が結界を張ったのが分かった。
「ハンス、デュードアンデって何ですか?」
ハンスは白い手袋を嵌めた手を腹の前で組み、視線を少し先の床へ落とした。それから唇へ力を込め、意を決した様子で口を開く。
「デュードアンデ様とは、……死の精霊様のことです」
「……死? そんな精霊の名も、フリュクレフ語も聞いたことがない……」
ルクレーシャスさんが呟く。この世界で最も精霊について詳しいのは、ルクレーシャスさんだろう。そのルクレーシャスさんが聞いたことがないというのだ。一同、難しい顔をした。
「なくて当然です。フリュクレフの民は、幼い頃から必要な時以外その名を口にしてはならないと固く誓わされるので……」
「……必要な時? お葬式の時、とかですか?」
ぼくの質問へ微かに笑みの形へ唇を動かし、ハンスはゆっくりと首を横へ振った。
「誤解なさらぬよう。フリュクレフにとって、死とは最も聖なるものです。死から全ては始まり、命を生み、育み、世界を巡らせる。ですので、……そうですね、皇国語に訳するのであれば、『始まりの精霊』とでも申しましょうか」
「……はじまり……」
「ですので、その名を口にするのは、ある祝いの時だけなのです」
「祝い?」
「ええ。尊き血が、精霊におなりあそばされた瞬間にはまだその精霊に名はありません。尊き血を持つそのお方がご自身で名を名乗られるまで、その名もなき精霊をお呼びする名が、デュードアンデ様となります」
「精霊としての名前が決まるまでの、仮名みたいなもの、ということですか?」
「……そのようなものです」
ほへぇ~。なんかよく分からん。まぁ、宗教的な儀式やそれにまつわる事柄って、論理的ではなく感覚的なものが多いからそんなものかな。何となく周囲を見渡すと、ルクレーシャスさんが青い顔をしているのが目に入った。
「ルカ様? どうしました?」
「スヴァンくん……君、今の話をちゃんと聞いていたかい?」
「え、あ? はい」
「『尊き血が精霊になる』んです。覚えがないとは言わせませんよ」
「……」
首を傾げて視線を上へ向ける。尊き血。フリュクレフの民にとって尊き血、とは。
「……あ、王族から精霊になったことをお祝いする言葉ってことですか? へぇ~。あ、じゃあやっぱりフリュクレフ王族から時々、精霊になる人が現れるってことは確定事項ですね」
「そもそも、人間から精霊になることは大変に稀であり、フリュクレフ王族からしか生まれないと聞いております」
ハンスは噛み含めるようにぼくの瞳を覗き込んだ。ホリゾンブルーの虹彩にぼくが映っている。
「……うーん、そこも疑問なんですよねぇ……なんでフリュクレフ王族のみ、なんだろう……」
ということは、エステル・フリュクレフ女王も精霊になったのだろうか。しかしそれっぽい精霊の話は聞いたことがない。
『はじまりはとても簡単だ。人に恋した精霊がいた』
「……それが、ぼくのご先祖様ということですか?」
『うん』
ぼくとルチ様が会話していることに気づき、一同が黙って見守っている。
「だから妖精や精霊は、ぼくらを見守ってくださるんですか?」
『徴のある者にだけ、どうしようもなく惹かれる。焦がれる。精霊の王が、そうするように命じた』
「……えっと、ご先祖様に恋したのは、精霊の王様、ですか?」
ちらり、とルチ様へ視線を投げかけたが、明星の精霊は目を閉じて顔を背けた。
これは聞いても答えないヤツだな。
ぼくは諦めつつ、肝心な時にはだんまりを決め込む美しいが駄々っ子の精霊を睨む。
「明星様は何と?」
「フリュクレフのご先祖様が、精霊王と結婚したそうです。だからフリュクレフの王族だけ、妖精や精霊にとって特別みたいです」
「それは皆、そうだろうなと思っていたぞ、スヴェン」
ジークフリードがソファへ深く凭れ、天井へ向けて吐き出した。
「ぼくもそうだろうなって思ってたんで、これで確証が持てて良かったです」
「……それだけかい? ヴァン」
「……?」
耳元で囁かれて首を捻ってイェレミーアスの目を見つめる。なんだろう、なんかちょっと、責められている気がする。
「……? イェレ兄さま? 怒ってらっしゃいます?」
「――~っ! どうしてこの弟子はこうもクソ鈍いんだろうねッ!」
唐突に叫んだ珍しくお菓子を口に詰め込んでいない師匠の顔を見る。ぼくがもう一度首を傾げると、激しく耳をパタパタと動かしながらルクレーシャスさんは頭を抱えてため息を吐いた。
「わたくしは、精霊になる予定の弟子を持っているが?」
「……あ~……。だからぼくのことを、ユッシは『デュードアンデ』と呼んだのですね」
それそんなに重大なことかな。疑問は解消したので満足して頷く。イェレミーアスは甘やかな勿忘草色の瞳を潤ませ、ぼくへ顔を寄せた。
「どうしてヴァンは自分を大事にしないんだ。みんなはヴァンが精霊になってしまうことを、悲しいと言っているんだよ」
「……う~ん、でもそれはフリュクレフの民にとっては光栄なことなのですよ?」
そう、文化の違いだ。さらにぼくはこの世界の人間ではなかったという、前世の記憶まであるからそれがどれほど悲しいことなのか分からない。
「……私たちは、何度でも生まれ変わってまた君に会えると、信じたいんだ。その希望を、持っていたいんだ」
でも君は、そんな希望さえ与えてはくれない。
耳の後ろへ唇を当てたまま囁かれ、くすぐったさに身を捩る。
「……魂は、一度出会えば結びつく。その結びつきが強ければ強いほど、来世でも親しい仲として出会えるとされている。だから……寂しいのだ、スヴェン」
デ・ランダル神教では一度強く結びついた魂はその後何度でも出会うことができる、という考えが根付いている。出会いたい人とは、行い正しく生きる限り何度でも出会える。人は何度でも生まれ変わるという考えのデ・ランダル神教に於いて、「死」は終わりではない。「死」とは、次の生の始まりなのだ。
だから騎士は死を恐れない。勇敢に戦って死ぬことは、次の生でよりよい人生を約束されることに他ならないからだ。それは侵略で国を大きくして来た、この皇国と皇族にとって都合がいい通念である。
それがどんなに矛盾したものでも、信仰とはその人の中に深く刻み込まれるものだ。そう簡単に「文化の違い」と受け入れることなどできないだろう。
「……ジーク様……。ごめんなさい。ぼく、ちょっと無神経でしたね」
「そうではなく君の一番の問題はね、スヴァンくん……」
「?」
「……もういい。きっと君に言っても理解しないだろう」
ルクレーシャスさんは、口へお菓子を詰め込むこともせずに自分の膝で手を組んだ。
まるで、勇者の話をしてくれた時みたいな色で揺れる金色の双眸をぼくはただ、見つめた。
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