第58話 kurragömma ⑵
「……イェレ兄さまは、ぼくの運動に付き合ってくださるのでゆるしてさしあげます」
「本当か、ヴァン?」
「……はい」
「もう二度と嫌いなんて言わないでくれ」
「……」
「ヴァン? 許してくれないの?」
ぼくはイェレミーアスの膝で体育座りしたまま抱えられている。自分の魅力を理解している上で、最大限の甘い声を出しているのが分かった。
「おねがい。ね? ヴァン」
ヴァンはどうしたら私を許してくれるのかな。耳の裏へ唇を当てたまま、囁かれる。くすぐったくて顔を動かし、ちら、と目を上げる。ぼくの機嫌を取ろうと必死なイェレミーアスの、目頭側の下瞼にできた皺が好きなので仕方ない。
「ぼくの運動に、これからも付き合ってくれたらゆるします」
「付き合うよ。当たり前だろう? 皇宮にもついて行く。ヴァンのお世話は、私以外にさせられない」
こつ、と額を押し付けられた。だからぼくも、軽く額を押し付け返す。
「なぁ、もう気がすんだならおやつ持って皇宮に行こうぜ?」
ローデリヒが口いっぱいに頬張ったスコーンをもぐもぐと咀嚼しながら提案した。気が済んだらってなんだよ、ほんと君そういうとこだぞ。
おでこをくっつけたまま、イェレミーアスと一緒にローデリヒを睨む。ローデリヒは耳たぶを掻きながら大きなあくびをした。
「では各々支度を済ませて、一時間後に再びコモンルームへ集合だ。解散!」
ジークフリードは言うだけ言って、コモンルームを出て行った。今の今まで寝室着にガウンだった人間に言われたと思うと釈然としない。イェレミーアスはぼくを抱えて立ち上がった。
「滞在が長期になる可能性があるのだろう? 荷造りを手伝うよ、ヴァン」
「ありがとう、イェレ兄さま。でもイェレ兄さま、ご自分の荷造りもあるでしょう?」
「私の荷造りは侍女がやるから大丈夫だ」
そうだった。この子、正しく後継者教育されてた辺境伯令息だった。ぼくみたいになんでもかんでも自分で済ませる変異種ではなかった。ただちょっと、こういう時ぼくはどこかがちくっとするのを感じる。
悪気はないのだろうし、そういう社会通念の中で育ったイェレミーアスの瑕疵ではない。けれど、こういう「使用人」に対する無意識の扱いを感じると、何というかぼくはヒヤリとしてしまう。それはこの世界の通念では、使用人に対する慈悲ですらある。だからやはり、イェレミーアスは優しいのだ。のだが。
それはいうなれば侮蔑していい人間を、正しく差別する意識だ。優しいイェレミーアスですら、貴族としての常識としてそれを植え付けられていることに何ともいえない据わりの悪さを覚えるのだ。付き合いが浅いせいか、ローデリヒにはそういう「植え付けられた常識」をあまり感じない。
「オレはてきとーにするからここでおやつ食ってるよ」
誰に対してもこの調子だからだろうか。ピンクブロンド越しにソファで手を振るローデリヒを見やる。
「リヒはいい加減、毎日自分の家へ帰れよ」
イェレミーアスはローデリヒへ冷ややかに言い放ち、廊下に出た。コモンルームの入口には、侍女が五人ほど並んでいる。やっぱり慣れない。
「イェレ兄さま、ぼくが居ない間にイェレ兄さまにお願いがあるんです」
「なぁに?」
甘い声で顔を寄せられる。イェレミーアスの糖度が高い。完熟どころか追熟済みである。
「ギーナ様に寄り添ってさしあげてください。正直、ぼくらではギーナ様やイェレ兄さまの気持ちに寄り添い切れないと思うんです」
「……ヴァンは優しいね。けれど私がどれほどヴァンに救われているか、伝え切れていないようだ」
「いいえ。イェレ兄さまがぼくのこと、とても大事に思ってくださっているのはちゃんと伝わっていますよ」
「……それだけ?」
ぼくを覗き込むようにして微笑むイェレミーアスは、何故か少し寂しそうだ。
「ぼくも、イェレ兄さまが大好きですよ? でもね、イェレ兄さまは辺境伯令息なのだから、ぼくのお世話なんかしちゃいけないんですよ? だからイェレ兄さまは、ここで待っていてくださると嬉しいな」
「……ヴァンは私に世話をされるのは嫌?」
「ええと、そうじゃなくて……ギーナ様とお気持ちが近いのではないかと思うので、イェレ兄さまはギーナ様といらした方がよいのではないかと……」
「ギーナと二人で、仲良く暗い顔をしていろと?」
軽い苦笑い、という表情を見るに、言葉ほど強い意味はないのだろう。ぼくは他になんと言えばいいのか分からず、ただ途方に暮れて首を横へ振った。
「ヴァンはいつも、私の気持ちに寄り添おうとしてくれる。否定せず、待っていてくれる。私やギーナに今、必要なのは一緒に暗い顔をしてくれる人ではなく、一緒に前を向いてくれる人だよ」
「……」
イェレミーアスの首へ手を回し、ぎゅっと抱きつく。温かな手がぼくの背中を撫でる。体の合わさった部分から届く声は、体の芯へと響く。熱を揺さぶる。
「私たちに必要なのは、そうして私たちに必要なものは何か、を考え続けてくれる人だ。ヴァンはずっと、そうしてくれている」
だから私は、ヴァンの傍に居たいんだ。私にとっての最善は何かを、考えてくれる君の傍が一番安心できるんだ。
「だから私も、ヴァンと一緒に皇宮へ滞在するね」
にっこりと微笑まれて、ぼくに否やを唱えられるだろうか。甘い美貌と声に、ぼくはただ頷いてしまったのだ。
こうして一時間後、ぼくらは再びコモンルームに集合した。ローデリヒとルクレーシャスさんは、ずっとソファでスコーンやキャラメルを口へ詰め込んでいたようだ。
「……アスも行くのだな?」
「ヴァンが行くところへは、私も付いて行きますよ。殿下」
「……」
ジークフリードはイェレミーアスを指さし、ローデリヒを振り返る。ローデリヒは目を閉じて首を横へ振った。
コモンルームの窓から外を見る。ハンスがぼくらの荷物を馬車へ載せるように、侍従へ指示しているのが見えた。無駄なく動くハンスを目路に入れながら、有能な執事へ声をかける。
「フレート、予定通りハンスイェルクがラウシェンバッハ伯爵家のタウンハウスから解雇した人は全員うちで雇ってください」
「かしこまりました」
「……」
ぼくとフレートを見比べていたジークフリードが、口を開く。
「予定通り、なのか?」
「ええ。正式な伯爵代理となったリース卿が宴へ間に合わなかったのに、ハンスイェルクは宴に出席していましたね?」
「ああ」
「つまり、ラウシェンバッハ伯爵が亡くなった直後に皇都行きを手配していたのでしょう」
「……そんなの、怪しんでくれと言わんばかりじゃないか」
ジークフリードの指摘は正しい。抱えられた腕に力が籠るのが分かった。イェレミーアスもそれは疑っていただろう。
「……ぼくならラウシェンバッハ伯爵が亡くなる前から手配していなければ間に合わないだろう、ジーク様の生誕の宴は欠席します。でもハンスイェルクはそうしなかった。そんな愚かな思考しかできない人が、遠路はるばるやって来たタウンハウスで自重するでしょうか。喜々として前ラウシェンバッハ伯爵の忠臣を解雇してしまうのではないかと、ぼくは思います」
「……呆れたものだな」
「大体、簡単に人を殺す選択をするような愚か者が賢いわけがないじゃないですか、ジーク様」
「……そうか? ……そうか」
ジークフリードは釈然としない様子で唸った。ぼくも「そうだったらいいな」程度の考えだが、準備しておくに越したことはない。
「それから、シェーファー男爵が噂の出所を探すかもしれません。そうしたら、なるべく正体を悟られないように接触してください。必要なら、ここへ保護してください」
「承知いたしました」
ぼくを抱っこしていたイェレミーアスに、無言で頬を寄せられた。聡い子だから、ぼくの考えを察しているのだろう。
「……何を始める気だ、スヴェン」
「シェルケとハンスイェルクは既に領地へ向けて出立したようですので、彼らとミレッカーを疑心暗鬼にさせるつもりですと、お伝えしたじゃないですか。ジーク様。上手く拗れるか、どんなふうに拗れるか、今からワクワクしますね!」
まぁ彼らが仲違いしなくても、こちらとしては構わない。ぼくが視線を向けると、ジークフリードは何とも言えない表情で宙を見た。
「うん……まぁ……結果を楽しみにしている……」
「こっわぁ……。オレ、スヴェンだけは絶対に怒らせないようにする……」
ジークフリードとローデリヒが頷き合う。玄関から、フローエ卿が入って来るのが見えた。
「遅いぞ、カルス。父上からは了承を得られたのだろうな」
「陛下からは『好きにせよ』と。あと、スヴァンテ公子に『報告に来い』と言付かりました」
ジークフリードの脇でしっかり腰を折ったフローエ卿をちょっとだけ見直す。どうしたんだフローエ卿。騎士っぽいぞ。フローエ卿のお尻を叩き、ジークフリードが声を上げた。
「ははっ! むざむざ手柄を渡すわけがなかろう。スヴェン、行くぞ。オレはスヴェンの馬車に乗るから、お前は乗って来た馬車で来い、カルス」
「……はい」
遠い目をしたフローエ卿を、僅かに気の毒に思う。我儘殿下はフローエ卿にとっては健在なのだろう。
「ええ。ジーク様。適当に適当な報告をしておきます」
「いいのかなぁ……。ま、いっか。じゃーなフレート、行ってくる」
ローデリヒがぼやきながら、コモンルームから廊下へと歩き出す。イェレミーアスはぼくを抱っこしてソファから立ち上がった。ジークフリードは「うん。まぁ、いいが。うん」などと言いながらコモンルームを出る。
廊下を抜け、玄関ホールから前庭へ出る。停めてある馬車へ荷物を運び終え、待ち構えているハンスへフレートが何事か耳打ちした。ハンスが頷くのを見届けると、フレートはぼくらへ振り返り深々と腰を折る。
「いってらっしゃいませ、皆様。スヴァンテ様」
「いってきます、フレート。できれば早く済ませたいけど、済みそうになくても中ごろには一旦戻ります」
「? なんで?」
ぼくとフレートの会話に首を捻ったローデリヒへ、手招いて見せる。ローデリヒはぼくへと顔を突き出した。その鼻を容赦なく摘む。
「今月、穂刈月の二十九日は、リヒ様のお誕生日でしょう。お祝いしなくては」
公爵家嫡男であるローデリヒの誕生日なのだ。周囲の人間とて忘れているはずもない。おまけにローデリヒは生来、天真爛漫で人懐こい性格である。知人も友人も大勢いるだろう。けれどローデリヒは、はにかんだ笑みで頭の後ろを掻いて視線を逸らした。
「……! そ、そっか。ふぅん。そっか……へへ」
「あっ、当日はご家族とお祝いなさるのですか? なら、前日辺りにしましょうか。ご予定、空けておいてくださいね、リヒ様」
「当日、うちへ呼ぶから来いよ。かーちゃんにも言っておく」
「オレも招待しろよ、リヒ。今度こそ、オレだけ仲間外れはご免だ」
「りょーかい。予定空けておけよな、ジーク」
「もちろんだ」
ジークフリードの返事にフローエ卿はさらに遠くを見た。二十九日に仕事が決定した瞬間だもんね。そりゃ虚無顔にもなる。時間外労働になるのかなぁ。前世社畜としては、ちょっとだけフローエ卿が不憫になった。
「ヴァンは誰にでも優しいから心配だよ」
イェレミーアスに耳の後ろへ唇を当てたまま囁かれて身震いする。自分の美貌に自覚があるのになんてことするんだっ! 心配なのは君の方だぞ! いつかたらし込んだ人間に後ろから刺されても知らないからねっ!
耳をさすりながらイェレミーアスを振り返る。
「ぼくは大事な人たち以外には結構、薄情な方ですよ。イェレ兄さまが知らないだけです」
それで言えば、ギーナなどは戦略上一時的に友好関係を結んでいるだけで、今後もぼくにとって大事な人たり得るかはまだ分からない。誰にでも節度のある対応をしているからといって、誰にでも優しいとは限らない。正直に言えば、ぼくは他人に対して冷淡な方だ。
それはローデリヒのように、善性からなるものではない。いつでも取捨を選択可能な、冷徹な関係である。他人に対して冷淡であることと、道徳観念や倫理観を持ち合わせていることは別なのである。冷淡だからこそ、感情を差し挟まず道徳的、倫理的に善であると思われる対処を行うことが可能な場面もある。それは一見、穏やかで優しく映るだろう。だがそれだけだ。
ルクレーシャスさんはぼくのそういう性質を見抜いて理解している。そういう意味ではイェレミーアスは純粋で、まだまだ子供だと思う。
子供の純粋さと残酷さを併せ持つ、正しく「少年」なのだ。だからこそ、イェレミーアスの心の機微には慎重にならざるを得ない。今、感情のままイェレミーアスに暴走されては困るのだ。
「私に隠しごとがあるだなんて、いけない子だな、ヴァンは」
だからぼくに甘えることで、イェレミーアスの暴走が引き止められるならいくらでも甘やかす。お兄さんを舐めるなよ。
「ぼくはこう見えて、
えっへん、と得意げな表情をして見せる。ジークフリートもローデリヒも、目を丸くしてぼくを見ている。フレートだけが小さく笑った。
鼻の頭を耳の後ろへ擦りつけられ、くすぐったさに身を捩る。先に馬車へ乗ったジークフリードがローデリヒへ呟いた。
「今日からこれを見せつけられるのか。頭が痛い」
「慣れれば平気だぜ? 無視して巻き込まれないように気をつければ、大丈夫だよ」
「……巻き込まれたらどうなる?」
「めんどくせぇことになる」
「……」
ジークフリードは大きなため息を吐いて、窓へ凭れた。ルクレーシャスさんは一番に馬車へ乗り込み、ぼくが作ったモナラマフィンを頬いっぱいに詰め込んでいる。モナラとは、皇国の南にあるレンツィイェネラのさらに南で育つバナナに似た果物である。ベーキングパウダーの代わりに重曹を使っている。重曹には苦味があるから、苦みを抑えるためにベーキングパウダーの半量で作るのがコツだ。
走り出した馬車の外へ目を向けながら、思考をまとめる。
「ジーク様、リトホルムがミレッカーと不仲である原因を知っていますか?」
「知らん。ただ、話の端々にミレッカーへの嫌悪感が隠しきれていないからそう思っただけだ。だが、アイスラーなら詳しい事情を知っているかもしれん」
唇へ指を当て、ジークフリードは視線を上へ向けた。
「ミレッカーの話をした後、廊下ですれ違った侍女たちが厨房に鼠が出るという話をしていたのだが、リトホルムのヤツ『宮中の鼠、か……』と呟いていてな」
「なるほど、初代ミレッカー宮中伯は『
その子孫である現ミレッカー宮中伯を鼠呼ばわりするのだ。よい感情などあろうはずもない。
「……」
拳を口元へ当て、首を傾ける。マフィンを頬袋へ詰め込んでいたルクレーシャスさんが、いち早くぼくに気づいて口を開いた。
「スヴァンくん、君またろくでもないことを考えているだろう! ダメだよっ!」
「聞く前から決めつけないでくださいよ、ルカ様。人聞きの悪い」
胸の前に垂らした緩く編み込まれた髪を弄る。フリュクレフの民にとって、ぼくの容姿と髪の色、瞳の色は特別だというのが本当ならば。
それを見たリトホルムは、一体どんな行動に出るだろうか。
妖精たちが嬉しそうに頷いた。だが口にしたら絶対に止められるだろう。ぼくは浮かんだ考えを、こっそり実行することに決めた。
「大丈夫ですよ。人払いならルチ様にお願いすれば完璧なので」
「スヴァンくん、……君ね。明星様をまるで下僕のように扱っているけど、後から何を要求されても知らないよ」
「ルチ様の要求はシンプルですよ。伴侶になること、死んだら一緒に精霊の国へ行くこと。それ以上に何かを要求されたことなんてありませんもん」
「……それだけだと、明星様が言ったのかい? 明星様の思惑が、君にとって都合のいいものばかりだと何故、言い切れる?」
「……」
確かにそうだ。けれど死んだ後のことなど、今から憂いても仕方がない。ルチ様には今度、確認してみよう。
ぼくが視線を横へ流して考え込むと、ルクレーシャスさんは肩を落として耳を伏せながら大きな息を吐いた。
「今後、無茶な要求をされない確証なんてないんだよ、スヴァンくん」
「……無茶な要求をされたら、泣き落しすることにします」
ぽん、と手を叩くとルクレーシャスさんはがっくりと前のめりに沈み込む。ジークフリードは呆れた顔をし、ローデリヒは呆然と呟く。
「……マジで怖いな、スヴェン。明星の精霊相手に泣き落しとか、精霊かわいそう」
「その精霊に泣き落しが効くことが、まずもって異常なんですよ、リヒくん……」
「そだな」
素直に頷き、ローデリヒがマフィンを口へ詰め込むとルクレーシャスさんは視線を遠くへ彷徨わせた。それからマフィンで自分の口を塞ぐ。
ルクレーシャスさんの完全に伏せてしまったお耳、つやつや。しっぽとはまた違った手触りがするんだろうなぁ。触りたいなぁ。目が合うと、ルクレーシャスさんは何故か瞳に非難の色を載せてぼくを睨んだ。
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