第57話 kurragömma ⑴

「ぼく、しばらくの間ちょっと屋敷を留守にするのでよろしくお願いしますね。リヒ様」

 ローデリヒからエステン公爵の手紙を受け取り、ぼくは内容を確認した。さすが理解が早い。ぼくはハンスに封筒と便箋と、ペンとインク、それから封蝋のセットを持って来るように伝えた。フレートはローデリヒが乗って来た馬車を片付けるように申しつけているのか、窓の外で厩番と何か話している。

「ええっ! なんでだよ、どこ行くんだよ、おやつどうすんだよ、なぁスヴェン」

 一気に言い放ってスコーンで自らの口へ蓋をしたローデリヒと、その向かいでせっせと頬袋へスコーンを詰め込むルクレーシャスさんを眺める。我が家のジャイアントハムスター二匹である。ペットは癒し。だがこの二人は癒しっていうか、いやしい……。などと考えながらエステン公爵への返事を頭の中で捻った。

「……朝から騒がしいな、リヒ」

「お、ジーク。来てたのかよ」

「今日の午後から、スヴェンはしばらく皇宮に滞在する。リヒも来たければ皇宮へ来るといい」

「ええ……なんだよ、つまんねぇな。あ、でも皇宮でもおやつ作るんだろ? スヴェン。ベステル・ヘクセ様も皇宮へ行くよな?」

「わたくしがスヴァンくんの行くところに行かないわけがないだろう? リヒくん」

「だよな。じゃあ、オレも泊まれるようにしてくれよ、ジーク」

「ああ……? まったく図々しいなリヒ……」

 ぼやくジークフリードも、寝室着にガウンを羽織ったままの完全なる寛ぎスタイルでソファへ陣取った。

「ハンス、お茶。濃い目のミルクティーにしてくれ。砂糖は要らん」

「かしこまりました」

 君たちうちの使用人をまるで自分ちの使用人みたいに扱い過ぎじゃないかな。何度も浮かんだ台詞を飲み込み、ぼくは別のことを口にした。

「ルカ様もリヒ様も、おやつの心配しかしないんですね……?」

「そりゃそうだろ」

 そうなのか。呆れていると、背中越しにイェレミーアスが答える。

「私もしばらくは皇宮へ同行する。ヴァンの世話を他の者にさせるわけには行かないからな。いいだろう? ヴァン」

「……うう~ん……。そうなると、屋敷が手薄になるので困りましたね……」

 警備が手薄になるのは構わない。これでもかとルチ様の加護で守られていて、皇王の密偵さえ屋敷へ忍び込めないここは、鉄壁の防御を誇っている。警備ではなく、とにかくこのタウンハウスには人手が少ないのだ。フレートとベッテの負担が増える。ぼくにとって絶対の信頼を寄せているこの二人が、忙しくなるのは好ましい状況ではない。

「皇宮へは、私が同行いたしますよ。スヴァンテ様」

 ハンスがフレート仕込みの礼をして、きっちりと腰を折った。ぼくの手元へ便箋や封筒を載せたトレイを置く。

 元よりぼくは侍女を引き連れて歩くのが苦手だ。コモンルームでは秘密の話をすることが多いので、侍女たちは用がない限り廊下で待機している。これは普通の貴族では有り得ない。常に侍女や使用人数名に囲まれて過ごすのが普通だ。

 皇宮の侍女たちに任せれば、当然だが普通の貴族にするように四六時中、ぼくへ付き従うだろう。考えただけでうんざりである。タウンハウスで過ごすように皇宮でも過ごそうとするなら、自分の使用人を連れて行かなければならない。だがフレートにはやってもらうことがあるし、そうなると同行するのはハンスが妥当だろう。

 ハンスはフレートの甥らしい。フリュクレフの民特有の白い肌に、明るいアプリコットオレンジの髪、ホリゾンブルーの瞳の二十歳になったばかりの好青年である。

「フレートが残るなら何とかなるかなぁ……。ラルクも連れて行っていいですか、ジーク様」

「もちろんだ。久しぶりにラルクと遊びたいしな」

「じゃあぼくは、ウルリーカかカローネ、ラルク、ハンスの三人を同行させます。イェレ兄さまはお好きに選んで侍女をお連れください」

「うん。連れて行くのはウルリーカがいいと思うよ、ヴァン」

「そう、なんですか?」

「ああ。あれは君への下心がないから」

「……」

 下心ってなんだろう。ぐーっと顔を後ろへ向け、イェレミーアスの顔を見つめる。普段通り、今日も完璧な美少年である。

 ウルリーカは四十前半の落ち着きのある侍女だ。没落してしまった子爵家の出身で、皇宮で侍女をしていたらしい。ジークフリードの紹介である。皇宮で侍女をしていたのだから、皇宮に詳しいだろう。イェレミーアスもそういう意味でウルリーカを勧めたのだろう。合点して頷く。

「ハンス、ウルリーカに声をかけておいてください」

「かしこまりました」

 ハンスが廊下に待機していた侍女へ申しつけ扉を閉めようとして、そのまま扉の脇へ戻った。フレートが顔を出す。

「朝食の準備が整いました、スヴァンテ様」

「はい。では参りましょうか、みなさま」

 イェレミーアスに抱っこされたまま、食堂へ向けて廊下を移動する。皇国の冬は早く訪れる。窓から見える木々は既に、葉を落とし始めていた。

「フレート、留守の間はヨゼフィーネ様やベアトリクス様のことを頼みますね」

「承知いたしております、スヴァンテ様」

「それならオレが時々かーちゃん連れて来るよ。心配すんな。まかせとけ、スヴェン」

「ふふ、頼もしいですね。よろしくお願いします、リヒ様」

 そう答えると、ローデリヒはぼくのほっぺを指でつついた。イェレミーアスは体を捻って避ける。

「やめないか、リヒ」

「おーこわ。お前はほんと、スヴェンのことになると心が狭いな。アス」

「お前が加減しないからだろ。ほら見ろ、ヴァンの頬が赤くなってしまった」

「お、ごめん。痛かったか? スヴェン」

「いいえ。大丈夫。ぼく、ちょっと触っただけですぐ赤くなっちゃうんですよ」

「そりゃそれだけ色が白ければそうだろうな」

 ジークフリードがぼくを仰ぐ。そんなに色白かなぁ。皇国は血統至上主義なので、大体外見で家系が分かる。それでも前世でいうところの、欧米系の国なので貴族は白人ばかりだ。だが平民はそうでもない。平民出のアンブロス子爵は褐色の肌である。アンブロス子爵には、南のレンツィイェネラ出身の祖先が居るのかも知れない。ぼくの異母弟も、父譲りの褐色の肌だった。貴族社会では少し、苦労するかも知れない。

 取り留めなく考えながら、朝食を済ませてコモンルームへ戻る。

「イェレ兄さま、ぼくちょっとお花摘みに」

「どうして? 一緒に行くよ?」

 イェレミーアスの腕から下りようとすると、がっちりと捕まってしまい下りられなかった。トイレにまで付いて来ようとするだなんて。今まではさりげなく外してくれてたじゃないか。

 仕方なく、ぼくは最大限の努力で幼児らしさを演出しながら緩く編み込まれた髪を指で弄って俯き、恥じらって見せた。

「……イェレ兄さま。ぼくだって恥ずかしい時は恥ずかしいんです。特にイェレ兄さまのような素敵な方には見られたくない姿だって、あるんですよ?」

「……」

 ぶわ、と一瞬すごい熱気が吹き付けて来た。えっなに怖っ。

「分かった。すぐに戻っておいで、ヴァン」

「……はい」

 そっとぼくを床へ下ろしたイェレミーアスを見上げる。いつも通り。いつもと同じ優しい笑み、だが。なんだろうな。なんかこう、なんか。

「……」

 言語化できない感情を、ぼくは忘れることにした。

「フレート、連れて行ってください」

「……かしこまりました」

 フレートに手を引かれて廊下を進む。コモンルームからすぐの廊下を曲がると、ぼくは口を開いた。

「フレート、ぼくが不在の間にお願いがあります」

「何でしょう」

「……ゼクレス子爵邸に、ギーナ様のお兄様の……ヘクトール様の、ご遺体があります。埋葬して差し上げたいので、ここへお連れしてほしいのです。大人が入れる場所ではないので、ルチ様に二階の東端の部屋へお連れしてくださるよう、お願いしておきます。……そちらがヘクトール様のお部屋のようですので」

「……承知いたしました」

 ヘクトールは大人が入れない秘密の空間に「隠れて」いた。命懸けで守ったものがある、ということだ。そしてそれは、すでにルチ様から受け取っている。

 それは想定の範囲内であった、ぼくの予想を裏付けるものだ。

「それから……、ヨゼフィーネ様とベアトリクス様には、お見せしないように済ませてください」

「……スヴァンテ様……」

 ぼくはギーナが兄の遺体と対面して、悲しむところを見たくなかったんだ。だからぼくの居ない間に人任せにして済ませてしまいたかった。何より、ギーナが悲しむところを、イェレミーアスに見せたくなかった。

「ギーナ様の要望を最大限聞いて差し上げて。丁寧に、埋葬してください。ゼクレス子爵家の墓所には、目くらましをかけておくように妖精たちにお願いしておくので誰かに見咎められることもないでしょう」

「……かしこまりました」

「コモンルームへ戻りましょうか」

「はい」

 くるりと向きを変え、廊下を引き返す。ぼくの歩幅に合わせた、ゆっくりとした速度に涙腺が緩む。

「スヴァンテ様」

「はい」

「あなたは、……尽力されておりますよ」

「……うん。ありがとう、フレート」

 たらればを挙げればキリがない。そんなことは分かっているけれど。

 ぼくが、もう少し早ければ。あと一年、ことが起こるのが遅ければ。

 救いたかったな。全てを救えるだなんて傲慢なことは言えないけれど。それでも悲しい思いは少ない方がいいに決まってる。まだまだぼくは、無力な幼子だ。

 コモンルームの扉をフレートが開く。いつまでも俯いてはいられない。ぼくの顔を見て、手を広げたイェレミーアスの元へ歩み寄る。両手を広げて抱きつくと、鼻の頭へ鼻の頭をちょい、とくっつけられた。

「くすぐったいですよ、イェレ兄さま」

「ふふ、そう?」

 長い睫毛がぼくの瞼を撫でる。本当にくすぐったくて身を捩った。くすくすと笑い合うぼくらへ、ローデリヒとジークフリードは何か言いたげな目を向けている。

「はぁ……この先、アスのようになる人間は増える一方なんだろうな……」

「だろうな。あきらめろよ、ジーク。あ、フレート。父ちゃんに今日はオレも皇宮に泊まるって、スヴェンの手紙を届けるついでに伝えといてくれよ」

「かしこまりました」

「早く返事書けよな、スヴェン。フレート待ってるじゃん」

「……」

 何だろうな、ちょっと理不尽を感じてしまった。それでもぼくは咳払いをして、便箋へ手を伸ばした。いつもならぼくを隣の座面へ下ろすイェレミーアスは、にこにこと微笑んだまま足を開いた。座面に落ちるかと思ったけれど、脇へ手を入れられ、イェレミーアスの足の間へ、ゆっくりと下された。

「……イェレ兄さま?」

「うん?」

「えっと……?」

 近い、近い。距離が近い。今までも近かったけど、今までの中でもさらに近い。

 えっ? これ、普通の触れ合いの範疇かな。前世ではちょっとこれは距離が近すぎる気がするけど、この世界では普通なのかなどうなのかな。でも強く拒絶するのも憚られる。常時抱っこされておいて、今さらこの程度の接触を拒絶するのもおかしくない? どうなの? これはアリなの?

 尋ねたいけど、どう尋ねていいのか分からない。向かいに座る二人へ視線を送ったが、目を逸らされた。おい。まったく、頼りにならない幼なじみですこと!

「エステン公爵閣下へ、返事を書くのだろう? ヴァン。便箋を押さえておいてあげるね」

 覆い被さるようにして耳元へ囁かれる。わぁ、なんて甘いお声なんだろう。なんだろうなぁ、これはよくない気がするな。だけど何が良くないのかよく分からないので、ぼくは気にせずペンを手に取った。

 覆い被さるように抱き抱えられているので、ほぼ視界共有状態である。ぼくが手紙に何て書くか、知りたかっただけかなぁ。

「ヴァンは字まで繊細で美しいな」

「そう、ですか……?」

「うん」

 一通り書き終えて読み返す。ふう。まぁこんなものだろう。便箋を折り、封筒へ入れて封蝋印を手に取る。封蝋印には、もちろん世界樹と剣ガンツェ・ヴェルトゲボイデが彫られている。

「それは私がやってあげるよ、ヴァン。火傷をするといけないからね」

 銀色と菫色のシーリングワックスを手に取ると、イェレミーアスは封筒の上でくるくると器用に回して見せた。炙られたわけでもないのに、ぽたぽたと蝋が落ちる。ぼくはその上にゆっくりと封蝋印を押し当てた。銀色と菫色が混ざったシーリングワックスは、元々のぼくの髪と瞳の色を連想させる。

「わぁ、炎の魔法ってそんな風にも使えるんですね、イェレ兄さま」

 ぼくが手を叩くとイェレミーアスは甘い笑みを浮かべた。向かいのソファから、ジークフリードが死んだ魚のような瞳をぼくらへ注いでいる。

「いつもこうか?」

「いんや。ちょっと前から悪化した」

「……」

 ローデリヒの返事にジークフリードは頭を抱えて項垂れた。どうしたのこの二人。なんか悩みでもあるの? ルクレーシャスさんは二人と目で頷き合うと、無言でスコーンを口へ詰め込んだ。

「フレート、これをエステン公爵家へ」

「かしこまりました。ローデリヒ様はご伝言のみでよろしゅうございますか?」

「うん。明日は帰るって言っといて」

「承知いたしました」

「あとはフローエ卿が、皇王陛下の許可を持って来られるのを待つだけですね」

「うむ。あいつ遅いな。どこぞで寄り道しておるのだろう。困ったヤツだ」

 スコーンもクッキーもパイもたくさん作ったので、いつ出発しても大丈夫だ。ハンスへ手紙を渡すフレートの背中を見る。見事な逆三角形だ。着痩せするタイプだろうか。最近はイェレミーアスと一緒に訓練場を走っていたおかげか、とうとうぼくは敷地内を遭難せずに探検できるようになった。だから本当は、屋敷内も自力で歩き回れるのである。

 ただ、一人で探検に出かけようとするとどこからかイェレミーアスがやって来て、抱き上げられてしまうのだが。

「……ぼくもいつかフレートくらい筋肉が付くといいな」

「……」

「……」

「……」

「付くわけないでしょ、寝言は寝て言いなさいスヴァンくん」

「!!」

 この師匠、さらっと酷いこと言ったよ。ぼくは小さくてぽよぽよの手をぷるぷると震わせ、ルクレーシャスさんへ断固抗議した。

「そんなの分からないじゃないですか、ぼくだって男の子ですもん。そのうちルカ様よりも大きくなって、筋肉だってもりもりにならないとは言い切れませんよっ!」

「なるわけねぇじゃん、スヴェン。寝言は寝て言えよ」

「夢を見るのは自由だぞ、リヒ。そう言ってやるな」

 それぞれ口にして、ローデリヒとジークフリードがぼくへ生温かい眼差しを向けた。酷い。酷すぎる。涙目でイェレミーアスを振り返ると、優しい勿忘草色が不憫なものを見る目をしていた。

「……残念だけど、ヴァンは可憐にしか成長しないと思う」

「――っ!? ……みんな、きらい」

「え、ヴァン?」

 ぼくはイェレミーアスの膝から下りて、フレートの元へ駆け寄る。勢いよく両手を上げ、地団太踏んで要求した。

「フレート、抱っこ!」

「んふ……っ、はい」

 フレートは完全に笑うのを堪えて唇を横一文字にしている。失礼すぎでしょ!

「ぼくだって、ぼくだって、おっきくなるもん」

「んんっ。左様にございますね、スヴァンテ様。身長は伸びるかと存じます」

 だよね。ちっさいまんまのわけないじゃん? みんな幼子に向かって酷いぞ。ぼくはさらに同意を求めた。

「ムキムキに、なるかもしれないじゃん」

「……可能性は限りなく低いかと存じます」

 忠実な執事は、申し訳なさそうに首を横へ振った。常ならしっかりと撫でつけられている前髪が一房、はらりと額へ落ちた。

「ふぇ……っ」

「しかし可能性はなくはございませんよ、スヴァンテ様」

「ううう」

「限りなく低うございますが」

「うわぁん、フレートまでぇぇぇ」

 正直な執事の頬を、怒りに任せて両手で押し潰す。けれど忠実かつ優秀な執事は何故だかとても嬉しそうな顔で、ぼくを見て笑った。

「スヴェン、スヴェン」

「なんですかっ」

 きっ、と声の主を睨み付けると、ローデリヒは反対側のソファを指さした。

「お前の『きらい』が大分こたえてるから、もう許してやれ」

「ちょっと来ない間に、お前ら面白いことになっているな。あっはっは」

 ジークフリードが楽しそうに声を上げる。ローデリヒの指の先へ視線を移すと、イェレミーアスがソファへ突っ伏していた。

「……きらい……ヴァンに嫌われた……、きらい……」

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