第56話 穂刈月の幽霊騒動 ⑸

 ギーナのお見舞いを済ませ、コモンルームへ戻る。ルクレーシャスさんは部屋を出た時同様、ソファでせっせと口の中へブッセを詰め込んでいた。

 この頼れる時はちゃんと頼れる師匠は何故、限界までお菓子を口へ詰め込むのか。ぱんぱんに膨らんだ頬袋を目路へ入れ、こめかみを押さえる。ソファへ座るなり、ジークフリードは口を開いた。

「で、この先どうする?」

「どうもしません」

「……は?」

 あんぐりと口を開いたジークフリードへ澄まし顔で答える。

「ギーナ様はおそらく、この一年証人を生かすのが精いっぱいだったかと思われます。でもぼくらは今、何をどこまで把握しつつあるかミレッカーに知られたくない。だから動きません」

「動かない、のか」

「ええ。動いてないように見せるのです。ぼくは皇宮に籠って早急に薬学典範を読み解きます。皇宮への滞在許可をいただけますでしょうか? ジーク様」

「ああ、すぐに準備させよう」

 ジークフリードは立ち上がり、廊下に待機していたフローエ卿へ声をかけた。

「カルス。父上に至急、スヴェンの皇宮滞在許可を取れ。無期限だ。明日の正午ごろまでここに居るから、それまでに、だ」

 すたすたと戻って来て、再びぼくの向かいに座ったジークフリードは背もたれへ両手を広げて足を組んだ。

「ギーナ様捕らえていた人間の中に、薬学士と思しき人物がおりました。確認可能な好機かと考えますので、少々試したいことがあります」

 漆でかぶれる人間は、漆科の果物を食すとアレルギーを起こす可能性が高い。知ってる? マンゴーって漆科なんだよ。だから漆でかぶれる人はアレルギー反応が起こる可能性が高い。あと、マンゴーはラテックスに似た成分を含んでいるのでラテックスアレルギーも起こる可能性がある。同じように、リンゴやモモなどもラテックスアレルギーが起こることがある。まぁ、この世界にはまだラテックスなんてものはないだろうけれど。

 例えば、それを知っている薬学士にそれらの食品ばかりを与えたら、どう反応するだろうか。

 ちなみに日本人にとっては食物アレルギーと言えばお馴染みの蕎麦は、この世界にもある。痩せた土地でも育つので、主に平民が食べる。クレープみたいにしたり小麦と混ぜてパンにしたり、リゾットみたいにして食べるのが主流だ。だけど貴族はあまり食べない。どちらかというと、平民が小麦の代わりに嵩増しに使うからだ。平民が蕎麦を食べて死んだとしても、貴族は気にも留めないだろう。

 だからこそ、食物アレルギーを起こす可能性の高い食事が並ぶ中、蕎麦が出て来たらぼくなら確信する。こいつ自分を食物アレルギーで殺す気だ、って。

「ぼくにいくつか死に至るかも知れない食物の心当たりがあります。それを薬学士の虜囚に食べさせ続けるのです。いくら鈍感だとしても、症状が出やすい食物ばかりが食事として出されればこちらの意図に気づくでしょう。もちろん本当に食物アレルギーで死なれては困るから、普通の食事もそれなりに出してね」

 ラテックスアレルギーの部分は省いて軽く話す。ジークフリードもイェレミーアスも、特に疑問を持たない様子でぼくの話を聞いている。この子たち、ぼくへの信頼が強すぎないか。ちょっと心配になる。世の中にはね、詐欺を働く大人なんていっぱいいるんだから用心しなくちゃいけないんだよ?

『ヴァン』

「?」

『死なないようにしてある。食べても死ぬほど苦しむだけで死なない』

「……」

 それはさすがに鬼すぎやしないかね、ルチ様や。ぼくは即座に発言を撤回してフレートへ手を上げた。

「いいです。アレルギーが出やすい食物のみの食事を与えましょう。ルチ様のお陰で死なないので思う存分やっちゃいましょう。因果応報ですので」

「まぁたスヴェンが怖いこと言ってら……」

 ローデリヒの呟きを咳払い一つで無視した。

「薬学士にヴァンの言うような知識があり、何らかの反応を示したのならば、それは皇室へ収められている薬学典範に同様の記載がなければならない」

 イェレミーアスの声がぼくの耳殻をくすぐる。頷いて同意を示すと、ジークフリードは片手で自分の顎を撫でながら小さく首を縦へ振る。

「ふむ。皇宮へ納めた薬学典範と実際の知識に相違があれば、反逆罪にも問える」

「上手く行けば、ミレッカーと薬学士を分断できる」

 ジークフリードは姿勢を戻し膝の上で両手を組むと、首を傾げた。

「うむ? それがどうしてミレッカーと薬学士を分断できることに繋がるのだ?」

「薬学士が、実際は持ち得ている知識を故意に薬学典範へ記入していないとすれば、虚偽の記載をせよと命じたのは一体、誰でしょう?」

 ぼくを抱えたイェレミーアスの、声が背中から響く。

「ミレッカーか、薬学士か。真実がどうであれ、両者の間に軋轢が生じるのは確かでしょうね」

「罪の擦り付け合いで泥仕合になるだろうな。なるほど。どちらだと主張するにせよ、こちらに損はない」

「そういうことです。まず、そこから崩して行き、それを利用したと思しき今までは不審とも思われず処理されていた貴族の死を、集めて行く」

「その死で利を得た者は誰か、が判明すればその知識をもたらしたものは誰か、もおのずと知れよう。さすればミレッカーの関与は明らかになる」

 ぼくのお腹へ添えられたイェレミーアスの手に、力が籠る。手を重ね、ぼくは顔を上げた。

「そうすれば、ラウシェンバッハ伯爵の死の真相も暴くことができる」

「ことによると、これはラウシェンバッハの死のみに終わらない。ミレッカーが……誰にも知られず、この皇国を裏から操っていた可能性が出て来るぞ……。そうか、だから父上はミレッカーに不信感を抱いていたのか。だが、父上は確証に至ることができなかった。スヴェンのように、食物が毒になるかもしれないという知識がなかったから」

 とんとんとん、と組んだ足の上で指を弾きながら呟く。さすがはジークフリードだ。先日、この騒動を知った際にぼくらが懸念していたことに一人で思い至った。

「ですから今ぼくらがしなくてはならないことは、ギーナ様とゼクレス子爵家が捕らえている証人を守ることと、誰も不審とは思わなかった貴族の死を集めることです。ぼくらはまだ、何も気づいていないフリをしながら、です」

「何かがおかしいと思いつつも、確信を持てなかった人たちはきっと居る。その人たちを探して、話を聞くことができれば」

 ぐ、と低く唸るようにイェレミーアスの声が体へ響く。悔しい、悔しいと声音が、体温が、吐息が静かに告げている。ジークフリードが指を止めた。

「数人見つければ、おのずと話は集まるだろう。だがスヴェンが表に出るのは危険すぎる」

「そこは情報屋を介して、エステン公爵に収集をお願いしようかと思っています」

「うむ。妥当なところだな」

「遊びに行くフリをして、エステン公爵家へより強固な加護をお願いしておきます」

 膝の上で組んだ手をぎゅっと握り締め、ジークフリードは目を閉じた。それから顔を上げると、一瞬口をへの字にしてもう一度俯く。

「スヴェン」

「はい」

「改めてオレは怖い。リヒも、スヴェンも、アスも心配なのに。お前たちに何かあったとしてもオレはきっと、すぐに駆け付けられない」

 再びぼくへ顔を向けたジークフリードのアースアイが潤んでいる。

「それで十分ですよ、ジーク様。十分、ジーク様は自分のことのようにぼくらを心配してくださっている。それだけで十分です」

 ぼくは少しだけ、身を乗り出した。それから胸の前で両手を合わせ、無邪気に笑って見せる。

「ぼく、もう一つ考えていることがあるんです」

「……お前がそういう顔をしている時は、大体顔に似合わずえげつないことを考えている時だな」

「間違いありませんね」

 イェレミーアスまで同意した。失礼だな、一体ぼくがどんな顔してるっていうんだよ。

「ぼく、以前にも言いましたよね。ハンスイェルクとシェルケが辺境から出られない間に、ミレッカーと仲違いをさせたい、と」

「ああ。言っていたね」

 ぼくは身を捻ってイェレミーアスへ笑顔を向けた。

「ぼくねぇ、イェレ兄さま。こう見えて結構、怒って、いるのですよ?」

「……そうなのかい? ヴァン」

「はい。犯罪者など、勝手にお互い疑心暗鬼で腹を探り合って自滅すればいいのです」

 己の欲を満たすために他人を害する人間など、碌なものではない。ましてや過去に犯した犯罪が、己の行動を制限するのであれば因果応報だ。にっこり微笑むと、イェレミーアスはぼくの頬へ自分の頬をくっつけた。近い位置から少年独特の甘さと、大人へと変じる揺らぎを含んだ声が囁く。

「じゃあ私たちのできることは、君を邪魔しないことくらいだね?」

「ん~……」

 唇の下へ人差し指を当て、ぼくはちょっとだけ首を傾げて見せた。

「今はまだ、内緒です。後から全部分かった方が、きっとスカッとするでしょうから」

 両手をぱちん、と合わせて「えへへ」と笑うと、ジークフリードは肩を落として大きなため息を吐いた。

「まったく、本当にあなたの弟子は世の中の美しいものだけを見て生きているような顔をして、何と恐ろしい策略を口にするのか。そう思いませんか、ベステル・ヘクセ殿」

「わたくしが言おうとしたことを今、君が先に言ってしまったんだよ。ジークくん」

 呆れたように放って、ルクレーシャスさんはブッセを自分の口へ押し込む。ぼくは無言でキャラメルの入ったキャンディポットを、ルクレーシャスさんの前へ押し出した。

「ですので、イェレ兄さまは皇宮とこの屋敷とリヒ様のところで剣の稽古をしていてください。来月には本邸が出来上がるし、引越しに大忙しですよ?」

「ヤツらにはそう見せておく、のだな? スヴェン」

「ええ、ジーク様」

 いつも通りに扉付近へ待機している有能な執事へ声をかける。

「フレート」

「はい、スヴァンテ様」

「ニクラウスさんに、噂を流すようお願いしてください。『シェーファー男爵令息は、病死ではなく暗殺された』と。それとなくリーツ子爵令息が関与していると仄めかしてほしいですね。噂を流すのはスラムの孤児に頼んでください。スラムの孤児なら貴族の名前は覚えていなくて当然ですから、『シーツだかなんだかいうヤツがやったらしい』と付け加えて。あとは勝手に噂を聞いた人たちが想像するでしょう。それから、スラムの孤児にはその噂を必ず、リヒ様へ話すように依頼してください」

「かしこまりました」

 きっちりと腰を折ったフレートへ、さらに追加する。

「あ、それとニクラウスさんには今回は若い男に変装するよう、伝えてください。幽霊騒動の噂を流した時に、老人だと知られていますから。ディーターさんに任せても良さそうなら、それで。ニクラウスさんもですが、ディーターさんとギュンターさんはしばらくお屋敷から出ないようにしてもらいましょう。彼らがここに居ることを、まだ知られたくありません」

 お願いね。と笑みを作る。フレートはもう一度腰を折り、コモンルームを立ち去る。

「……スヴェン」

「ヴァン……」

「スヴァンくん、君……」

 イェレミーアスの表情は見えないけど、声だけでも分かる。ジークフリードとルクレーシャスさんと同じ顔でぼくを見ている。

「ほんとうにえげつないな……」

 三人が同時に呟くのを、ぼくはちょっと頬を膨らませて眺めた。

「リーツ子爵令息に疚しいことがないのであれば、ただの噂に過ぎませんので特に問題ないでしょう? 上手くすれば、こちらにとって都合のいい人物が釣れてくれるはずです。そこからはさほど待たずに済むでしょう。イェレ兄さまには辛いでしょうが、今は待つことも作戦のうちです。少しだけ、ぼくに時間をもらえますか?」

「……分かっているよ、ヴァン。君はいつも、私のために最善を尽くしてくれている」

 穏やかな声は、僅かに掠れている。ぎゅうっと抱きしめられ、頬が合わさる。ブラウンシュバイクを捕まえてからずっとイェレミーアスは、我慢に我慢に我慢を重ねている。そんなことは分かってるんだ。だけど、だからぼくは、手を伸ばしてイェレミーアスの髪を撫でた。

「どうなるかはお楽しみです。いずれにせよシェルケもハンスイェルクも、罪に対する対価を支払うことになるでしょう」

 イェレミーアスの膝の上で足を揃えてぼくが微笑むと、ジークフリードは大げさなくらい肩を落としながらため息を吐いた。

「お前が味方でよかったよ、スヴェン。絶対、敵に回したくはないな」

「大げさですよ、ジーク様。ぼくと敵対する予定でもおありなんですか?」

「ない。そんな勝算のない予定など、立ててたまるか」

「だよねぇ……」

 うんざりというか、げんなりという表情で項垂れたジークフリードへしみじみと同意したルクレーシャスさんの口へ、ブッセが音を立てて吸い込まれて行った。

「噂を聞いてレームケがどう動くかも重要です。噂を否定するにも、リヒ様が聞いたとなれば火消しも難しいでしょう。リヒ様本人の意思とは関係なく、あちらは手が出しにくくなるでしょうね。下手をすればエステン公爵に疑いを持たれてしまう。それはミレッカーも避けたいところでしょうし」

 ローデリヒはその身分ゆえ、ぼくらの切り札にもなり得る。その存在だけで十分すぎるほど、ぼくらの味方をしてくれているのだ。

「切り札として十分機能しているではないか。悔しいが、リヒとはそういうヤツだ」

「そうだね、リヒらしい活躍の仕方だ。本人に自覚はないだろうけど」

「リヒくんはしばらく来なくていいよ。わたくしのおやつが減るからね」

 なんだかんだでローデリヒはおいしい役どころなのだ。憎らしいが憎めない。本当に稀有な存在である。

「ああもう、急いで来たというのにイイところは全部リヒが持って行ってしまったではないか! つまらん! オレはつまらんぞ、スヴェン」

「まさか。ジーク様は大変に頼もしかったですよ。ギーナ様は一生、ジーク様にお仕えすると心に誓ったことでしょう」

「ちっ」

 ジークフリードは半ば自棄、といった素振りで扉の脇へ待機しているハンスへ声を上げる。

「ハンス! 今日はオレは肉が食いたいぞ! 夕餉のメインは肉料理にしてくれ!」

「かしこまりました」

 扉を開け、外に待たせている侍女へ何事か伝えて再び扉の脇へ戻って来たハンスは、どこかフレートに佇まいが似て来た。ぼくと目が合うと、にっこりと微笑みぼくの意図を読もうとしている。うちの執事は実に優秀だ。軽く頭を横へ振り、何でもないと伝えた。

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