第47話 罪と、罰と、後悔と

 長い、長い沈黙が重たくのしかかる。イェレミーアスの勿忘草色の虹彩は、薄暗い監獄で燃える炎のようだ。すう、と吐息を吸い込む音がしてその場に居た全員は全身を耳にした。イェレミーアスは、静かに凍てついた言葉を吐き出した。

「私に、何か言うことはあるか」

「――っ、……申し開きも、ございません……」

 謝罪を口にしながら、まるで見えない手に押さえつけられたかのように、ブラウンシュバイクはひれ伏した。額を監獄の冷たい石畳へ押し付けたまま、身じろぎ一つしない。

「はっ……。この期に及んで、申し開きができると思っているのか。いくらお前が許しを乞うたところで、父上は戻って来ぬ」

 イェレミーアスが一歩前へ出た。じゃり、と足元で踏みつけられた石畳が音を立てた。

「父上が何をした。殺されてしかるべきと考えるほどの、どんな仕打ちを貴様にしたと言うのだ」

「……すべては、わたくしの……愚かな心得違いでございました……」

 何十歳も年下の少年に気圧され、ブラウンシュバイクの声は小刻みに震えていた。顔を上げることができず、ただただ平伏している。

「『勘違いでした』と言われて『そうか』と納得できるとでも! 死んだ人間は、二度と戻らぬ!」

 叫んで薙ぎ払った手に宿った炎は牢獄の中でも青白く冷たい。その青さが、イェレミーアスの怒りを表すようだ。

「戻せ。その罪を自覚しているのならば。父上を、生きて、ここへ、戻せ」

 炎を纏った手が、鉄格子を掴んだ。じゅうう、と音を立てて炎が床へ落ちる。青い炎が消えた後、鉄格子は歪な形で途中から消失していた。音に顔を上げたブラウンシュバイクは、その青い炎を目にすると呆けたように語り出した。

 わたしは十五の少年兵でした。取り立てて強かったわけでも、武勲を立てたわけでもない。それでも当主様は、どの戦でもわたしを気遣ってくださった。子供だったからです。お優しい方だった。だからわたしは、僅かでも当主様の役に立とうと必死になった。不思議とどんな時もあの方のお声だけは聞き取れた。ただひたすら、あの方のお声とお姿を探した。あの方に降り注ぐ矢をわたしが代わりに受けたかった。あの方に向かう槍を全て叩き落した。そうしてわたしは、あの方に名を。初めて名を呼んでいただいた時のこと、忘れられません。

「身分が欲しいわけではなかった。ただあの方のお傍にいられればそれでよかった。それなのに、当主様は――」

 再び伏して、額を床へ打ち付けながら喚く言葉から、ようやく聞き取れたのはひび割れて狂って乾いて破片になって散らばる。

「ヴァルター伯の腹心のご令嬢と婚姻を結べ、と。見知らぬ家の婿になれ、と。何度も何度もお願いしたのです。わたしはここに居たいのだ、と。わたしはあなたのお傍を離れたくないのだ、と。悪い所があるのならば直すから、どうかラウシェンバッハから出ていけなとど言わないでほしい、と!」

「……何の、話だ」

 ぽつりと零したイェレミーアスの声は枯れ木を踏むように乾いている。覚えずぼくは、イェレミーアスの手を握り締めた。

「……わたしは、わたしはただ……今まで通りでいたかっただけです……! 殺すつもりなどなかった。ただほんの少しだけ、やはりお前がお傍に居らねばならぬと笑ってほしかっただけ。まさか、死んでしまうだなんて」

「……それだけ?」

 体の中が、空洞になったみたいな声でイェレミーアスが問うた。ブラウンシュバイクはまるで、話せば理解してもらえると信じているように身を低くしたまま、イェレミーアスを仰いだ。

「わたしはどんなに慕っても、あの方の家族にはなれない。わたしにとってあの方がどんなに特別でも、あの方にとっては部下の一人でしかない。わたしがわたしの全てを捧げたとしても、あの方にとってわたしは数多あまたあるうちの一つでしかないのです……耐えられますか! わたしにはあの方しかいないのに!」

「……そんなことのために、父上を……そんなことのために私からこの世に一人しかいない父を奪ったのか!」

「……、……っ」

 ブラウンシュバイクは純粋に、何故理解してもらえないのか分からない、という表情でおろおろと床を這っている。ずしゃ、と隣でイェレミーアスが床へ膝を付いた音がした。両手で顔を覆うイェレミーアスを抱きしめ、背中を温めるように撫でる。

「……どんなに願っても、あなたがラウシェンバッハ辺境伯の家族になることはありません」

 ぼくがそう発すると、ブラウンシュバイクはまるで水底に沈められたかのように、緩慢な動きで顔を上げた。

「あなたはラウシェンバッハ辺境伯にとって、大切な、信頼に値する家臣だからです。ラウシェンバッハ辺境伯はあなたの思うような、あなたが思うだけの愛を返さねばならなかったでしょうか? 返さねば、殺されてもやむを得ないとあなたは思いますか?」

「……わた、わたしは……」

 まるでぼくに脅されたかのように怯えながら、ブラウンシュバイクは言葉を詰らせた。何度も何度も唾を飲み込むが、声が出ないといった様子で俯いて震えている。

「あなたの幸せを、誰かが奪ったとお考えですか。いいえ、違います。あなたは、あなたを信じた人より『あなたを信じた人を陥れる人間の言葉』が自分にとって都合がいいからと選んだにすぎません。いくらでも疑うことができたのに、本当に大切なものは何かなんて分かっていたのに、聞きたい言葉だけを聞いたのです。そして喪った。誰かに奪われたのではなく、あなたが手放し、あなたが壊したのです」

「……!」

 ぼくの言葉に打ち据えられ、ブラウンシュバイクは顔を上げた。ぼくに無体を働かれたとでも言いたげに唇を震わせている。

「あなたは自ら手放したのです。偲ぶ権利を。その悲しみを。ぼくはラウシェンバッハ伯爵を知りません。けれどきっとイェレ兄さまに似ていたのだろうと、思います。ラウシェンバッハ伯爵を知らぬぼくでもそう思うのです。だから、ぼくはイェレ兄さまの中にラウシェンバッハ伯爵は生きていると思います。ラウシェンバッハ伯爵をよく知る人ならば、イェレ様のふとした仕草に同じ癖を見つけるかもしれません」

「……」

 繋いだ手が、微かに動いてぼくの手を握り締めた。勿忘草色の虹彩から綺麗な水滴が美しい頬のカーヴを落ちて行く。

「そうして喪ったひとを、確かにそこに生きていたという痕跡を、家族の中に見つけながら、その人の生きた痕跡を抱きながら、悲しみを越えて行くのでしょう。だからラウシェンバッハ伯爵は、伯が大切にしていた人たちの中に生き続ける。ラウシェンバッハ伯爵は、あなたもその輪に入れたかったのでしょう。いいえ、あなたもその輪に、自分の死後も居るのだろうと思っていたはずです。けれどあなたは、その権利を自ら捨てたのです」

「……! ……違う。ちがう、ちがう、ちがう……ううう……」

 頭を抱え、ブラウンシュバイクは石畳へ額を打ち付ける。鈍い音と、嗚咽が響いた。

「ならばお聞きします。ラウシェンバッハ辺境伯は、こうなることを望んだでしょうか?」

 尋ねた途端、ブラウンシュバイクは動きを止めた。

「あくまでも、ぼくの個人的な考えですが……。ラウシェンバッハ伯の腹心で、家名という後ろ盾がないのはあなただけです。友好的な関係にあるヴァルター伯の腹心、その家名と後ろ盾は強固なものになるでしょう。だから伯は、追い出そうとしたのではなく……あなたを守ろうとしたのではないでしょうか。『家名』という後ろ盾を与えて、再び並び立てるように」

「う……あ……、うあああああ――! ディートハルト様……ディートハルト様……っ」

 ぼくはこの世界に来て初めて、大人の男の人が声を上げて泣くのを見た。それでも、イェレミーアスを陥れた者へ加担した罪が許されるはずも、消えるはずもない。

「……ヴェルンヘル様、今日は帰ります。お手数をおかけしますが、この人はこのままここで預かっていただけますか」

「あ、ああ……。気をつけて帰りなさい。また連絡しよう」

「……お願いします」

 ぼくはイェレミーアスの手を引いた。思考と、感情が飽和してしまったのだろうか。イェレミーアスは黙ってぼくの手を握っている。

「イェレ兄さま。行きましょう。ルカ様、鉄格子を直しておいてください」

「君はわたくしを何だと思ってるの……」

 ルクレーシャスさんがぶつぶつ文句を言う声が聞こえて来たけれど、今はそれどころじゃないので無視をした。牢獄から離れた場所でイェレミーアスを椅子に座らせ、両手を握り締めて根気よく話しかける。

「イェレ兄さま。無理に飲み込まなくていいんですよ。今日はもう、おうちに帰りましょう? ぼくと一緒にねんねしてください。ぼくが、寂しいんです。ね? おねがい」

「……ん」

 頷く間も美しい勿忘草色は、悲しみの粒を零し続ける。それでもイェレミーアスはぼくを抱え上げた。ぼくは抱っこされたまま、イェレミーアスの涙をハンカチで拭く。再び馬に乗ってエステン公爵家の本邸へ戻ると、準備されたぼくらの馬車の横にローデリヒが立っているのが見えた。

「……アス」

「うん。……今日は帰るよ。また来る。じゃあな、リヒ」

 ローデリヒへ、そう呟いたイェレミーアスはまるで幼子のようだった。本来の、たった十一歳のイェレミーアスはこんなにも幼い子供なのだ。そう胸に過ぎった途端、ぼくは堪らなくなってしまった。何でもいいからめちゃくちゃに叫んで走り出してしまいたい気持ちで、イェレミーアスへ顔を寄せる。ローデリヒはただ、俯いたままイェレミーアスの腕へ軽く触れた。

 少し遅れて戻って来たルクレーシャスさんと、ぼく、イェレミーアスで馬車に乗り込む。イェレミーアスはすっかり甘えん坊になってしまっていて、膝に抱えたぼくの胸へ顔を埋めるようにしたまま動かない。ぼくはできるだけ邪魔しないように、ピンクブロンドの髪を撫でた。

 タウンハウスへ到着すると、待ち構えていたルチ様はイェレミーアスへ目を向けて何故だか僅かに何かを思い出そうとするような表情をした。

「? ルチ様?」

『……今は、一緒に居てやれ』

「……はい」

 絶対に拗ねると思ったのに意外である。何かルチ様、イェレミーアスには寛大じゃない? やっぱアレか。美少年だからか。妖精と精霊は美しいものが好きだっていうから、そのせいか。じゃあぼくに構うのは何でだ? アレか。おもろか。おもろいからか。何か悔しい。キィッ!

 ふざけていないと、頭に浮かぶ有り得ない想像が膨らんでしまうから、ぼくは必死でその考えを打ち消した。

 発生地点、とルチ様は言った。では、発生条件とは何だろう。

 ――精霊は、どうやって生まれる?

 ぼくは軽く頭を横へ振った。

 当たり前のように屋敷の中へ消えて行くルチ様へ続いて、玄関ホールの中へ入る。ルクレーシャスさんはホールから左へ曲がって行く。おそらくコモンルームでお菓子を食べるのだろう。イェレミーアスはぼくを抱っこしたまま、階段を上がって二階の自室へ直行した。それから部屋へ入るとぼくを抱えたまま、ごろんとベッドへ横になってしまった。

「……イェレ兄さま?」

「……うん」

「疲れちゃいました?」

「……うん」

 心が疲弊すると、人は些細な日常の動作すらできなくなってしまう。精神が飽和状態になっているのだろう。イェレミーアスには今、こうして「何もしない」ことが必要なのだ。そう考えて大人しくイェレミーアスの胸に収まる。

 あとでジークフリードへ手紙を出そう。ウード公にタウンハウスへご足労いただけないかどうかお願いしてみよう。イェレミーアスにはきっと、今は頭を空っぽにして打ち込む「何か」が必要だ。ぼくが何もかもが嫌になった時、無心にお菓子を作る時間が必要なように。

 だから今は、ただただイェレミーアスの頭をそっと抱きしめて歌を歌う。イェレミーアスには馴染みのない日本語の歌は、彼の耳に、心に、どんな風に聞こえるのだろう。どうかひたすらに優しく。その傷ついた心へ、どこまでも優しく響きますようにと願ってぼくは小さな声で歌い続けた。

 それから三日ほど、イェレミーアスの手はぼくを抱っこするためだけに存在していて大変だった。ぼくを抱えるためにしか手を使わないので、膝に乗ったぼくがイェレミーアスの口へ食事を運ぶ。顔を洗って、服を着せて、剣の稽古もせずにぼくと日向ぼっこして、ぼくと一緒にお風呂へ入って、ぼくを抱えて眠る。時々思い出したかのようにただじっとぼくを見つめる勿忘草色の虹彩を、ぼくもただ見つめ返した。

 三日目の朝、イェレミーアスは静かに、けれどきっぱりとぼくへ宣言した。

「ヴァン。私は許さない。バルテルも、ハンスイェルクも、シェルケもミレッカーも全てに復讐する」

 私に力を貸して、もらえるだろうか。

 そう囁いた勿忘草色の虹彩は、妙に高く澄んでいた。だからこそ、彼が口にした復讐への決意と怒りが見て取れる。それは決して消えることのない炎となって、穏やかな勿忘草を燃やしていた。

「最初からずうっと、ぼくはイェレ兄さまのお手伝いをしますと言っていますよ」

 君に復讐が必要なら、手を貸そう。そうしなければ前に進めないのであれば、それは必要なのだろう。その後のことは、後になってから考えればいい。

「けれど約束してください。ぼくは復讐を止めません。復讐が無意味だとも思いません。それでイェレ兄さまがすっきりするならいいと思います。でも、イェレ兄さま自身の手で、彼らを裁かないでください。裁きは法に委ねましょう。お約束、いただけますか」

「……君は」

「はい」

「酷い子だな」

 そう言葉にしながら、イェレミーアスはどうしようもなく愛しそうに笑った。だからぼくは、できるだけ正直に答える。

「はい。ぼくは、あんな人間のためにイェレ兄さまが人間性を失うのが嫌なんです」

 卑怯者を断罪する時こそ、綺麗事が必要だとぼくは思う。ヒーローや、正義の味方は卑怯であってはいけないんだ。人間としてそこだけは譲れない、捨ててはいけない部分であるとぼくは信じている。ただの下らないヒューマニズムだと言われても構わない。相手が卑怯で卑劣であればあるほど、正義を掲げた側は綺麗事で勝つ必要があると思う。綺麗事を捨ててしまったのが、卑怯者だからだ。

 復讐をしてもいい。だがぼくは、ぼくが大事に思う人たちが、他人を踏み躙って平気な卑怯者と同じにはなってほしくないんだ。分かっている。これはただの、ぼくの我儘だ。

 凪いだ瞳がぼくを映している。騎士の誓いをするように、ぼくの手を取ってイェレミーアスは自分の胸の上へぼくと、自分の手を重ねた。

「……全てが終わったら、一つだけ、私の願いを聞いてほしい。ただし私は生涯、君のどんなに小さな願いも断らないと誓う」

「――……分かりました」

 次の日、ジークフリードとウード公がやって来た。容赦なくウード公に打ち込まれ、往なされ、それでも向かって行くイェレミーアスは鬼気迫るものがあった。ジークフリードもローデリヒも、ラルクですら静かに立ち尽くして見つめていた。倒れ込んだイェレミーアスへ、ウード公は一言零した。

「自暴自棄の剣で、貴公は何を成す? 何を、守れると思う?」

「……私を、騎士にしてください。もう二度と、何も奪われぬ騎士に」

「よかろう」

 イェレミーアスはウード公の返事を聞くと、意識を失った。ぼくは泣きたかったし、文句を言いたかったけど我慢した。イェレミーアスを運んでほしいとルチ様を呼んだら、無言で頬を拭われた。

 翌日からはいつも通りのイェレミーアスだったが、剣術の稽古の時だけは今までと様子が違っていた。ローデリヒが完全に置いて行かれている。イェレミーアスの相手をしているラルクの木刀が、短剣の二刀流になっていた。初めて見る。

「アスさんが本気だから、オレもいつもと同じにしないと練習になんないんだよ。オレと父ちゃんは元々、短剣スティレット使いだからさ」

 ラルクの戦い方は完全に、急所を刺すことのみに特化している。これまではイェレミーアスやローデリヒに付き合って、得意ではない長剣での戦いをしていたのだ。それでもローデリヒ自身も、自分よりラルクの方が強いと感じていた。けれどイェレミーアスに応えて慣れた戦い方を見せたラルクは、イェレミーアスを圧倒するほどの強さである。二人の戦い方は決定的に違う。騎士と暗殺者。どこかで分かっていたのに、そのことは容赦なくぼくへ現実を突き付けた。

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