第48話 社交月の終わり
数日後、ぼくは皇宮へ向かう馬車の中に居た。そう、ジークフリードとの勉強を再開したのだ。それでもまるで自分の別荘みたいに訪れてはいたけど、今までみたいに思い付いたらすぐ会えるという状況ではない。だから久しぶりに皇宮の勉強部屋で顔を合わせた時、ジークフリードは最近では珍しい無邪気な笑みを見せた。
「よく来た、スヴェン。なんだか久しぶりな気がするな」
「ええ。ぼくもなんだか、久しぶりな気分です。ジーク様」
「もっと遊びに来てくれ。お前に会えなくて寂しい」
そうだね。そうだ。いつでも会えた友達と、会いに行かなくては会えないのは何だか少し寂しい。これからはお互いもっと忙しくなるだろう。外出がままならない立場、というじれったさをジークフリードは初めて感じているのだろう。けれどきっとジークフリードには侍従も増えて、この寂しさに慣れて行く。その時今度はぼくが、寂しいと感じるのかもしれない。僅かに頭を傾け、ぼくは笑みを作った。
「……はい」
勉強部屋には、机が一つ、追加されていた。イェレミーアスの分である。だが今は、イェレミーアスはウード公のところで剣術の稽古中である。イェレミーアスとぼくらは年齢が空いている分、勉強の進みに開きがあるんだよね。
というか、神学以外はぼくとイェレミーアスは大体同じような内容の授業を受けているけど、ジークフリードは今までサボって来た分、ぼくらより遅れているのだ。それでもここ半年くらいで随分追い上げていて、追い付くのは時間の問題だと思う。だからぼくは、復習のつもりでジークフリードと授業を受けている。ジークフリードにとっても、ぼくとの開きが埋まって行くのが分かるから、モチベーションを維持する結果になっているらしい。
ぼくが神学を学んでいないのは、単純に教師が居なかったから独学ということと、神学を重んじているのは騎士だけだからだ。前にも話したけど、この国の騎士は皆、聖騎士団所属の宗教騎士なのだ。だから騎士は当然、神学必須なのである。だから当然、辺境伯家の嫡男であるイェレミーアスは幼い頃から神学を学んで来たのだろう。ラウシェンバッハの居城には教会があったと以前も言っていたし、厳格なデ・ランダル神教徒として教育されて来たに違いない。
ぼくは騎士になる予定などない、と分かり切っていたのであまり重視していなかったんだ。逆に皇族として神学は必須であったジークフリードと、騎士の家系であるイェレミーアスは同じくらいの進み具合なのだ。だから、イェレミーアスは神学をぼくらと一緒に勉強する予定なのである。
「後でアスと合流して、母上の見舞いに行こう。今日は薬学士が来ると確認済みだ。宮廷薬学士はユッシ・リトホルムという老人だ。長年宮廷に勤めているし……」
ジークフリードは口元へ手を当て、ぼくの耳へ顔を寄せた。
「……ミレッカーと不仲だ」
「それは好都合ですね」
「うむ。だろう?」
「それに、社交月が終わって辺境伯たちはそろそろ領地へ帰る準備に忙しいでしょう? ミレッカーとシェルケ、ハンスイェルクたちが直接会うことが難しい冬の間に薬学士から情報を引き出しておきたいですね」
「うむ。父上から、オレが同席することを条件に薬学士の情報をスヴェンに見せてもいいと許可もいただいている。冬の間が勝負だな」
「はい」
ジークフリードが大変有能だ。ほんとこの子、さすが
ルクレーシャスさんはぼくの付き添いなので、いつも通りぼくらの机の向かいにソファを出してどっかりと座っている。今日のおやつはあんまきである。薄力粉とコーンスターチと重曹、卵、砂糖を混ぜたタネを薄く伸ばして焼くのだ。ちなみに生地的にはどら焼きと同じだよ。ほんとはね、みりんがあるとなおいいんだけどこの世界にはないんだよ、みりん。しょぼん。中身はあんことバターだよ。この組み合わせは美味しいに決まってるよね。
生クリームがあったらもっといいんだけど、牛乳を温めて遠心分離機で分離させるんじゃないかなって想像はすれども、どうも分からない。撹拌か? 撹拌すればイケるのか? 何もかもの加減が分からないじゃない? しかもぼく、魔法使えないしさ。仕組みが分かってないのに、ざっくりした説明でルクレーシャスさんに頼むのも気が引ける。
もっもっも。無言であんまきを飲み込むルクレーシャスの金色の耳がぱたぱたしている。最近ルクレーシャスさんの食べている姿しか見ていない気がする。この人、すごい人なんだよ。ほんとだよ?
「さ、エルンストを呼びに行かせよう。フレッド」
「はい。かしこまりました」
エルンスト卿は広い視点から天文学を説いてくれるとてもいい先生だ。こないだもね、時代によってポラリスと呼ばれる星が実は変化しているという話で大変盛り上がったんだ。大満足の授業の後、ジークフリードと一緒に訓練場までイェレミーアスを迎えに行く。
「足が止まっているぞ、イェレミーアス!」
「ハイッ!」
「目だけで追うな、肌で捉えろ!」
「く……ッ!」
弾かれて飛んだ木剣が訓練場の壁に当たった。落ちた木剣を拾いに行き、ウード公のところへ戻って来て構えたイェレミーアスの気迫にジークフリードが息を飲んだ。
「イェレ兄さま。ウード公。次は神学の時間ですよ」
ぼくはできるだけ朗らかに二人へ声をかけた。途端に二人はいつもの顔に戻って微笑んだ。
「おお、スヴァンテ公子」
「ヴァン、お迎えに来てくれたんだ?」
「こんにちは、ウード公。イェレ兄さま、参りましょう?」
イェレミーアスへタオルを差し出し、準備してきた飲み物を渡す。受け取った手のひらのマメが全部潰れて、治り切らないうちにまた傷が付いているのが見えた。精霊の加護が備わっているはずなのに、だ。
こんなになったら剣を握ることすら難しいだろうに。それでもそうせずにはいられないのだろう。
「イェレ兄さま。ぼくらが皇后陛下のお見舞いに行っている間も、ウード公に稽古をつけていただきますか?」
「いいや。私も行くよ。行かせてくれ、ヴァン。他人事でいては、いけないことだからね」
ウード公の授業を受けた後、少し休んで皇后陛下のお見舞いへ向かう。皇宮医のアイスラーは顔見知りではあるが、診察を受けたことはない。皇宮医にかからねばならぬほど、重篤な病になったことがないのだ。そういう意味ではなるほど、妖精や精霊の加護のお陰なのかも知れない。
ジークフリードの後に続き、特に警備の厳重な奥の宮へ通される。皇后の居城、
いつもジークフリードと一緒に勉強している部屋は、ただの勉強部屋である。ぼくもジークフリードを自室へ招き入れたことはないから、余程親しくない限り寝室へ招き入れることはしないのが皇国のマナーのようだ。
そのことから照らし合わせてもおそらく、皇族のルールとして皇后は妊娠中、月明宮から外へ出ることはしないのが慣例なのだろう。
奥の宮の一角にある扉を開くとそこには広大な庭が広がっていた。そこからさらに歩き、途中ぼくは案の定ヘバってイェレミーアスに抱っこされ、どうにか月明宮に辿り着いた。そこからさらに三階まで上がると言われたぼくの顔を見て、ジークフリードが堪えきれず吹き出したのを一生忘れない。ぷん、だ。
「母上、ベステル・ヘクセ殿とスヴェンとアスが見舞いに来てくれました」
軽くノックをして、ジークフリードが顔を覗かせると、嬉しそうな声が聞こえて来た。
「まぁ、どうぞ。入って」
招く声を待ち、部屋へ入ると皇后はソファへ凭れかかるような体勢になっていた。さすがに皇后の前で抱っこされたままは不敬である。イェレミーアスがそっとぼくを下してくれた。皇后に笑顔で手招かれて、ソファへ歩み寄る。
イェレミーアスは小さな花束を。ルクレーシャスさんは安産祈願の祈りが込められた護符を。ぼくは腹巻を編んだものを、それぞれ見舞いの品として持参した。
「まぁぁ、スヴァンテちゃん。これはいいわ、お腹が温かいわぁ」
プレゼントに喜んで見せた皇后のベッドの脇には、皇宮医のアイスラーと青白い肌、長い手足の老人がまるで影のようにひっそりと立っている。この人がリトホルムだろう。
「これから寒くなりますし、妊娠初期はお腹を冷やすのはよくありませんから。気に入っていただいたのなら、もう一つ作って参りますよ」
「!」
皇后へ腹巻を渡すと、茫洋と視線を漂わせていたリトホルムは突然ぼくへ顔を向けた。驚いたような表情で、少し目を見開いている。気にはなったが、ぼくは皇后の機嫌を取る方を優先した。
「いいの? ありがとう、スヴァンテちゃん」
「つわりはもう、終わった頃ですか? 食欲も体調も戻って来るでしょうけれど、あまり無理はなさらず。これからどんどんお腹が大きくなってきますよ、ジーク様。皇后陛下を労わってくださいね」
「……」
リトホルムは何故か、ぼくをじっと見つめている。見すぎじゃない? いくら薬学士が平民とはいえ、貴族相手をすることが主なはず。貴族の顔を凝視するなんて失礼に当たると知っているだろうに。ぼくはわざと顔を上げた。目が合うと、視線を逸らされる。
「ジーク様、お兄さんになるんですね。嬉しいですね」
「うむ。お前に幼なじみが増えるぞ、スヴェン」
「楽しみです、ジーク様」
新しい命が生まれる。それだけで少し、明るい気持ちになるから不思議だ。アイスラーの指示を書き留め、リトホルムはその場でいくつかの乾燥させた薬草らしきものを取り出して混ぜ合わせた。
「一日一回、就寝前にこちらを煎じて温かいうちにお飲みください」
少し足を引き摺ってアイスラーへ歩み寄ったリトホルムの手元を眺める。漢方薬みたいな感じだ。
「三日分、くらいの量なんですね」
アレルギーがあるならすぐに症状が出るだろうし、改善傾向なら三日くらいで現れるのだろうか。そういえば、風邪薬も大体三日分処方されるよな。そんなことを考えながら、リトホルムの手元を覗き込む。後退る時も、リトホルムは左足を引き摺っていた。
「……そうです。公子は、薬草に興味がおありですか?」
高齢のフリュクレフ人は、手足に傷を負ったものが珍しくない。奴隷時代の名残だ。非道な主に手や足を傷つけられ、折られ、切られ、焼かれる。そんなことがまかり通っていた時代は、まだほんの五十年ほど前のことだ。
リトホルムも、おそらく幼い頃に受けた傷が治らないままなのだろう。覚えずその手へ触れ、問いかける。
「そうですね、今までは関わることが禁じられていたのですけれど、家名を捨てたので関われることになったんです」
「……」
あっ、やってしまった。一同、しん、と静まり返る。皇宮医のアイスラーを初め、リトホルムはもちろん、皇后としても何とも返答しようがないだろう。
「その通りだ。スヴェンは賢いヤツだから、薬学を学べば必ずや国のためになるだろう。父上から、薬学典範の閲覧許可も得ている」
「まぁぁ、そうなのね? ヴェンがいいと言ったのなら、心置きなく学んでちょうだいな、スヴァンテちゃん」
すぐに切り替えたのはさすが皇后と言ったところか。ぼくは胸へ手を当て、頭を垂れた。
「はい、皇后陛下。ジーク様の侍従として恥ずかしくない振る舞いを心がけます」
「頼もしいわ。スヴァンテちゃんがジークの味方になってくれたら、これ以上安心なものはないわ」
「スヴェンは、父上も認める天才ですから」
話をしている最中も、皇后はソファへ体を凭せ掛けている。普段、人目のあるところではきっちりと背筋を伸ばしている姿しか見たことがない皇后が凭れかかるということは、体調が悪いのではないだろうか。少し気になって様子を見る。
「……失礼ですが、皇后陛下。足が、むくんでおられるのでは?」
「……よく分かったわね、スヴァンテちゃん」
皇后は目を丸くした。皇宮医のアイスラーや、リトホルムまで驚いた顔をしている。
「お辛いようでしたら、お休みになる時はタオルなどを折り畳んで、少し足を高くすると楽になりますよ。今、皇后陛下の体は出産に向けて血液の量も増えていますし、水分を蓄えようとしているのです。血が巡るように皇宮の庭を散歩するのもよいでしょう」
「……」
アイスラーがぽかんと口を開けぼくを見ている。しまった。これもこの世界じゃまだ常識ではないのかぁ!
「あっ、でもアイスラー先生が薬を処方してくださっていますよね? 余計なことを申しました」
「……いいえ、スヴァンテ様。どこで今の知識を得たのでしょうか? できればわたくしにご教授願いたい」
アイスラーがモノクルを拭いてもう一度片目へはめ込むと、興奮気味にぼくへ顔を寄せた。
「えっ……と、リンテルア大陸の書物で見かけました……離宮から引っ越す時に、売ってしまったのでもう、手元にありませんが……」
あっぶね! 全部引越しのせいにしておこう。
「そうですか、残念です……」
アイスラー先生はね、向学心があっていい先生なんだよ。ただ、この世界の医療が全く発達していないだけなんだ。この世界では、内臓に損傷を負ったら死を待つしかない。治癒魔法はエルフや精霊のみが使える。人間に、治癒魔法を持つ者が生まれた記録はない。
この世界は、魔法を攻撃のみに使って来た。特にデ・ランダ皇国はデ・ランダル神教の考えから、よりよく生きて転生を繰り返し善人と神に認められた者が貴族に生まれるとされている。そして魔法使いの多くは、その貴族から生まれる。平民から生まれた魔法使いは、運が良ければ貴族の保護下で出世できるだろう。運が悪ければ、貴族に使い潰され、ひっそりと消えて行く。だからこの国の魔法は貴族の都合の良い方向にしか、発達して来なかったのだ。ぼくはそれを、愚かだと思う。
「機会があれば、探しておきますね……」
「ありがとうございます、スヴァンテ様」
「はい」
人の良いアイスラーを騙しているようで心が痛い。懸命にメモを取るアイスラーの手元を眺めた。
「それから、むくみはおそらく出産まで解消しないでしょうから、寝る前に足だけ湯に浸けるなどしてもよいかも知れません。少しでも、皇后陛下のお体が楽になりますよう、願っております」
「スヴァンテちゃん、良ければ時々お顔を見せて? 何か気づいたことがあれば、今みたいに教えてほしいわ」
「わたくしも、お話を伺いたいです。スヴァンテ様」
「かしこまりました、皇后陛下。ぼくの知識はあくまでも参考程度に考えてください、アイスラー先生」
「いいえ、長年の疑問に今、答えを得た気がするのです。ぜひ、教えを乞いたい」
アイスラーは目を輝かせている。研究者タイプなんだよね、アイスラー先生は。ぼくが頭を下げると、皇后は頬へ手を当て、首を傾けた。
「いやだわ、リズと呼んでと言ったじゃない。スヴァンテちゃん」
「恐れ多いことでございます、ツェツィーリエ陛下」
「んもう! スヴァンテちゃんは守りが堅すぎるわ!」
皇后を愛称で呼んだら絶対に皇王が拗ねる気がする。だからぼくは断固拒否する。
「皇后陛下も体調が優れないようですし、ぼくたちはこれで失礼させていただきますね。イェレ兄さま、抱っこしてください」
「うん。おいで、ヴァン」
にっこり微笑んでイェレミーアスに向かって両手を広げて見せた。イェレミーアスは蕩ける笑みを浮かべて、ぼくを抱き上げた。
「んまぁぁぁ、ピンクサファイアの王子さまと妖精姫が仲良くしているわ……」
いくら天才騎士だからって、太腿の付け根を束ねるみたいに片手で軽々、ぼくを抱き上げるなんてイェレミーアスの筋力はいかほどか。今日もイェレミーアスがハンサムである。美少年なのにスマートかつカッコイイ。惚れちゃうよね。分かりますよ、皇后陛下。
ぼくは皇后へ向けてこくりと頷いて見せた。皇后はじんわりと深く頷いて満面の笑みだ。何だろうな、何かちょっと怖い。
イェレミーアスに抱っこされて手を振る。ジークフリードと共に皇后の居室を辞して、後宮の廊下を勉強部屋まで戻る。
「どうです、リトホルムは何かを知っていると思いませんか?」
「ああ。スヴェンを明らかに避けていたな」
「そのくせヴァンを盗み見ていて不快だったよ」
「……」
やはり、リトホルムは何かを知っている。それも、ぼくらには知られたくないことを、だ。
「皇后陛下も時々お見舞いに来てよいとおっしゃられたので、ありがたく続けて情報収集に努めましょう」
とりあえず、皇后の機嫌を取ることは成功したようだ。皇后から、見舞いに来てもいいとお墨付きをいただいた。遠慮なく時々顔を出すことにしよう。
「うむ」
「ああ」
ルクレーシャスさんは頷き合うぼくらを眺め、魔法で出したソファに寝そべり、おやつを食べている。今日のおやつは、マウロさんに特注で作ってもらった型で作ったシフォンケーキだ。油と卵と牛乳と薄力粉、コーンスターチで作れる。炭火のオーブンだから火加減だけが難しかった。カスタードクリーム、ミルクジャム、キャラメルソース。好きなものを付けてシフォンケーキを貪るルクレーシャスさんは、口の周りをジャムやソースだらけにしてぼくを見るなりこう発した。
「終わったかい? もう帰る? スヴァンくん、カスタードクリームが足りないよ?」
「……ルカ様……」
この人、本当に偉大な魔法使いなんだろうか……。二の句が継げないぼくの頭を撫でて、イェレミーアスが苦笑いした。
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