第45話 罪に向き合う者 ⑵

 それからの二日間は、イェレミーアスと一緒に庭を散歩にしたりコモンルームで読書をしたりしてなるべくゆったりと過ごした。本邸建設も順調で、外観はほぼ仕上がっている。今は内装に取り掛かり始めたところである。

「風が出て来たね。コモンルームに戻ろうか、ヴァン」

「はい、イェレ兄さま。今日はもう予定がないので、厨房に向かってもいいですか?」

「ああ。何か作るのかい?」

「ええ。塩バタークッキーを作ろうかと思います」

「……私のため、だね?」

「……だって、塩バタークッキーならイェレ兄さまも食べてくださるでしょう?」

 そう、甘いものをあまり好まないイェレミーアスを観察した結果、やはり塩味系のお菓子なら口にすると気づいたのだ。だから今日は、さくほろあまじょっぱ! な塩バタークッキーともううんざりするくらい種類のあるジャガイモを使ってポテトチップスを作ろうと思う。

 皇国はおそらく、広大な領地のほとんどが寒冷地の上に耕作に向かない痩せた土地が多い。だから主食がジャガイモだ。そのジャガイモだけは何故か謎に種類が豊富である。だからその、無駄に豊富なジャガイモの中から、ポテトチップスに適したジャガイモを探そうというのである。

「いいですか、ダニー。さくほろ食感のポイントは薄力粉です。砂糖を加えたら白っぽくふんわりするまで常温に戻したバターと薄力粉をよく混ぜます。ぽろぽろした感じになるまで、こう、切るように! そう! で、まとまって来たらこのルクレーシャスさん特製冷蔵室に入れてちょっと寝かせておいて、その間にポテトチップスに取り掛かりますよ!」

 スライスしたジャガイモはボウルに貯めた水の中へ。水が濁って来たらすぐに水を変える。水に晒したジャガイモは水分をよく切ってから揚げるのがポイントだよっ。揚げたらシンプルに塩を振ってもいいし、粉チーズまぶしてもいいかもしれない。

 ダニーは文句ひとつ言わずにぼくの指示通りにクッキー生地を冷蔵室へ入れて、ジャガイモを各種三つずつ洗って芽を取り、皮を剥いた。ごめんね、変なことばかりさせる主で。ジャガイモをできるだけ薄くスライスして、水に晒している間に冷やしたクッキー生地を棒に伸ばして一センチくらいの厚みに切って行く。温めておいた炭火のオーブンへクッキーを入れて振り返ると、イェレミーアスは水に晒したジャガイモの水気を丁寧に拭き取っているところだった。本来ならこんなこと絶対にしない一生を送っただろうに、ぼくと関わったばかりにこんなことをさせられていると思うと、申し訳なさが込み上げて来る。

「……えっと……巻き込んで、ごめんなさいイェレ兄さま」

「ははっ、いいよ。ヴァン」

「お坊ちゃま、油も温まりましたよ」

「ありがとう」

 木の枝を削って作った菜箸で油の中にスライスしたジャガイモを放り込んで行く。じょわじょわと泡が上がっていた油の表面はやがて静かになる。揚げ色がついたら油から上げて行く。大皿へ上げたジャガイモへ、熱いうちに塩を振ってまぶす。半分は粉チーズをまぶすんだった、いけないいけない。そわそわするダニーに声をかけた。

「食べていいですよ、ダニー」

「はいっ! もうお味が気になって気になって……はふ……ほひっ! ほいひい! あつつっ」

 普段は小食気味なイェレミーアスも、ぼくの手元を見ながら喉を鳴らした。揚げたてあつあつに塩を振って、ふう、ふう、と息を吹きかけイェレミーアスの口元へ差し出す。

「どうぞ、イェレ兄さま」

「……うん」

 はにかみながら、前髪を耳へかけて少し屈んだイェレミーアスは今日も完璧に美少年だ。たったそれだけの仕草が色っぽいんだから美しいってすごい。

「……ふふっ、おいしいね」

 ゆっくりと咀嚼するイェレミーアスを見ると、やはり安心する。やはり、食事と睡眠は人間にとって必須だ。心が整わないと、食事をすることも睡眠を取ることも叶わない。

「よかった」

 どうにかイェレミーアスの気を紛らわせたかったんだ。明日には、ブラウンシュバイクに会いに行く。その結果がどうであれ、来週からは皇宮での勉強が始まるし、ブラウンシュバイクが消えたとなればおそらくハンスイェルクはシェルケ辺境伯、ひいてはミレッカーと連絡を取るだろう。その証拠を、確実に手にしていかなければならない。まぁ、そこは妖精や精霊に手伝ってもらうので問題ないだろう。

 ともあれ、守るべきはイェレミーアスたちの心の方だ。明日も、エステン公爵夫人がこちらへ来てくれることになっている。二日前、夫人とローデリヒを迎えに来たエステン公爵がぼくとイェレミーアスがブラウンシュバイクに会いに行く日に、エステン公爵夫人がヨゼフィーネとベアトリクスを見ていてくれると申し出てくれたのだ。

「お心遣い、ありがとう存じます」

 礼を述べると、エステン公爵は静かに首を横へ振った。

「君の払った、そしてこれから払うだろう代償を考えたらこの程度はして当たり前だ。本当に済まない。君が成人していたとしても息子の軽率な振る舞いを強く戒めねばならぬというのに、君はローデリヒより四つも年下なのだ。最大限の助力をさせてもらわねば、公爵家の名折れだ。だが、だからこそ私は君を子供扱いせず、尊重すると約束しよう。スヴァンテ公子」

「とう……父上」

「いいか、ローデリヒ。お前はスヴァンテ公子に見えている、いくつものことが見えていない。恥じろとは言わない。だが、知らねばならぬ。今回のお前の軽率な頼みで、スヴァンテ公子が何を負うことになったか。まず、イェレミーアスたちを世話する使用人を雇った。住まいを整え、衣類や食を整え、安全を確保した。これらに何が必要か、言ってみろ」

 ローデリヒが、膝の上で拳をぎゅっと握ったのが筋肉の動きと体の強張りで見て取れた。

「お金、です……」

「お前はこれまでにそれを、具体的にいくらほど必要で、どうやって調達しているか、自分ならどうやって調達するか、考えたことがあるか」

「……っ、……」

 膝で拳を握ったまま、ローデリヒは無言で首を横へ振った。その拳へ、手を置いてエステン公爵はローデリヒへ言い含める。それは親であり、公爵として後継者を育てる者としての教えであった。

「お前ならば、私が用意するだろう。だがスヴァンテ公子は? ベステル・ヘクセ殿から金を出してもらっているか? 違うな?」

「……自分で、資金を調達する術を、考えて……実行して、います……」

「そうだ。親の金でのうのうと暮らしているお前と違い、己で己の食い扶持を稼ぎ、その中からイェレミーアスたちへ施している。なんなら稼がねばならぬ金が増えたことで次の手すら考えているだろう。お前の、軽率な行動の結果スヴァンテ公子が払うべきではない金を使わせている。分かるか」

「……はい」

「その上でディートハルトを謀った者が誰かを調べ、証拠を集め、断罪し、イェレミーアスへ爵位を戻そうと策を考えている。お前の一言で、スヴァンテ公子が背負うことになった多くのことを、お前は正しく知らなければならない」

「……はい」

 エステン公爵夫人も黙ってエステン公爵の話を聞いている。ヨゼフィーネも口を挟まない。

「リヒ」

「はい」

「お前と、スヴァンテ公子の違いをじっくり考えなさい」

「……」

 ああ。これは「父と子」の、そして「現当主と次期当主」との会話なのである。エステン公爵からローデリヒへの「教育」なのだ。だからぼくは、静かに目を閉じて待った。

「よってスヴァンテ公子」

「はい」

「今後私は、君をスタンレイ家の当主として扱う。まことに君は、殿下が陛下に逆らってでも己の参謀に欲するに相応しい人材だ」

「過分に評価いただき、恐悦至極でございます」

 エステン公爵はそっと頭を左右へ振る。

「いいや、スヴァンテ公子。貴公は決して、ローデリヒを甘やかさないでくれ。しかし、ゆえに、ローデリヒ」

「はい」

「お前が、スヴァンテ公子を頼ったことは正しかった」

「!」

「よくやった」

「……」

 エステン公爵は大きな手でローデリヒの頭をちょっとだけ乱暴に撫でた。それは間違いなく「父と子」の姿だった。イェレミーアスとぼくには、それが眩しい。ぼくは覚えずイェレミーアスの手を握った。

「……ヴァン? 疲れてしまったのなら、代わろうか?」

 ぼんやりと先日のことを思い出していたぼくを、イェレミーアスが覗き込む。柔らかな勿忘草色へ微笑み返して、ぼくは首を横へ振った。

「ううん。ちょっと考え事を。どうです、イェレ兄さま。おいしい?」

「ああ。おいしいよ」

 ぼくは初めから、この世界では持たなかった。

 イェレミーアスは理不尽に奪われた。

 それを埋めることは、もう叶わないだろう。けれど、ぼくらは喪ったものばかりを眺めて立ち止まるわけにはいかない。例えば、折れた足に添え木をして立ち上がるように。

 初めからなかった、そこに。

 理不尽に奪われた、そこに。

 自分で手を入れ、埋め込み、宛がい、進んでいかなくてはならない。

「骨が折れた場所が治った後、折れる前より丈夫になったりすることがあるんですって」

「……騎士には、怪我がつきものだからね。そういうこともあるんだろう」

「でもね、どこも怪我したことない騎士を見たら、やっぱりちょっとだけここがちくちくして羨ましくなっちゃう。強くなったけど、なんだか寂しくなっちゃうんです。わがままですね」

 胸へ手を当てえへへ、とぼくが笑うとイェレミーアスはぼくの口へダニーがオーブンから出したばかりのクッキーを放り込んだ。

「私も、羨ましくて寂しくなるよ。でも、私にはヴァンがいるから。進んで行ける」

 そうだろう? 声を出さずに動いた唇を眺めて頷く。ああ、イェレミーアスが笑うとできる、下瞼の目頭にできる皺が好きだなぁとぼんやり思う。

「そろそろリヒ様が来る頃ですから、全部食べられちゃう前にイェレ兄さまの分を取っておかなくちゃ」

「ふふ、そうだね」

 そんな話を聞きつけたかのように、騒がしい足音が廊下から響く。

「おーい、アス! スヴェン! お、いー匂い! 腹減っちゃった、それ食っていい?」

 イェレミーアスとぼくは顔を見合わせ、それから厨房の入口に立つローデリヒへ顔を向け笑った。ローデリヒを見るなり笑ったぼくらに、当の本人は目を丸くしただけで厨房のテーブルを指さす。

「なぁ、スヴェンって。それ、食っていい?」

「ふふっ、どうぞ。あ、でも全部食べちゃダメですよ、ルカ様が拗ねます」

「りょーかい! ってことは、これベステル・ヘクセ様んとこに持って行けばいいんだろ?」

 大皿を掴んで厨房を出て行くローデリヒを見送る。何しに来たんだ、一体。

「あ、なぁ! コモンルームにお茶、持って来てくれよ。多分、ベステル・ヘクセ様の分も要るからよろしく!」

 いつも通り、まるで自分の家のように途中で出会った侍女か侍従に頼んでいる声が聞こえる。再びイェレミーアスとぼくは、顔を見合わせた。

「ふふっ」

「あははっ」

「行こうか、ヴァン」

「ええ。あの二人を放っておいたらソファが食べカスだらけになっちゃう」

 コモンルームに行くと、ローデリヒとルクレーシャスさんがポテトチップスを口いっぱいに頬張っているところだった。ぼくは何となく、ジャイアントハムスターを飼っている気分になった。侍女にタオルを多めに持って来るように頼む。あの油だらけの手で、ソファの座面に触らないでほしい。結構お高かったのよ、そのソファ。

「今日は、泊まってっていいか? スヴェン」

「『今日は』じゃないでしょ、いつだって好きな時に泊まって行くでしょ、リヒ様は」

 ぼくはもう、高そうなジレで油だらけの手を拭くローデリヒにそれどころじゃない。すかさずタオルを差し出したが、ぽろぽろばりばりぽろぽろうああああ、お口拭きなさいよッ! ローデリヒからジレを引っぺがして侍女へ渡した。

「洗濯お願いします」

「え、いいのに」

「リヒ様がよくてもぼくがよくないんですその手だって今すぐ洗いたい」

「スヴェンは潔癖すぎるんだよ」

「リヒ様が気にしなさ過ぎるんですっ! 大体なんですか、毎日毎日ひとんちにご飯食べにやって来て!」

「もういい加減慣れなさい、スヴァンくん。いつも通りでいいって君が言ったんでしょ」

 そう、ぼくがそう言った。ぼくにすら気を遣うイェレミーアスが、気を遣わないようにローデリヒはいつも通りにしてほしいと願ったのはぼくだ。エステン公爵に自覚を促されるローデリヒを羨ましいと感じながらも、一方ではまだ十歳にそれを理解しろというのは難しいと、思ったからこそそう言ったのだ。

 必要以上に口出しをしない、ルクレーシャスさんはいつでも俯瞰の目線でぼくらを見ている。矛盾しているのはぼくだ。普段通りではないのはぼくだ。冷静さを欠いたのはぼくだった。

「そう……でした」

「そうそ。オレはいつも通りにすることにしたんだ」

 ばりばりポテトチップスを口の中に放り込みながら、ローデリヒはあっけらかんと言い放った。

「オレは、オレのままでいるよ。オレはオレのままだから、オレを見てアスやスヴェンは今、せいいっぱいすげーがんばってるって、自分のこと褒めてやれよ。誰が褒めてくれなくても、オレはお前たちがすげーって、知ってるからさ」

 オレもオレなりにがんばるわ。そう言って笑えるローデリヒはすごいと、ぼくは思う。

「ぼく、リヒ様のそういうとこ、すごく好きですよ」

 上手く言えないけど、君がそうやって当たり前の十歳で、当たり前の十歳なりに前向きでいてくれることにとても、救われる気持ちになるんだ。

 ぼくがそう答えると、ローデリヒはとても子供らしい表情で鼻を擦って笑った。

「えへへ、そっか」

「そうだよ。それがリヒの強みだ」

 そう返したイェレミーアスも、きっと同じ気持ちなのだろう。イェレミーアスも年不相応に落ち着いた聡い子だ。ふと何かが引っかかった。いや、そうじゃない。ぼくの周りには年不相応な子供が多すぎる。だからこそ、あえて今。

「そうです。賢いフリ、やめましょう。だってしょせん、子供の考えることですもん」

 ぽん、と胸の前で手を打つ。それからローデリヒへ顔を向けた。

「リヒ様、ロン様のところへ事前連絡なしに遊びに行かれたことはありますか?」「お……? お、おう。あるぜ」

「じゃあ、明日はエステン公爵家へ行く前にメッテルニヒ伯爵家へ寄りましょう。ロン様にお約束していた、フリューを渡しに行きます」

 おそらくだけどこの公爵令息、他のご令息のところにも事前にアポなしで遊び歩いていると見た。ジークフリードも基本事前に連絡なしで離宮に来ていたから、あの時の侍従候補たちはみんな似たり寄ったりの礼儀知らずだろう。

「今まで通り、リヒ様は事前連絡なしに遊び回ってください。ただ、時々ぼくらもご一緒するかもしれません」

「……ヴァン?」

「イェレ兄さま、ぼくらも遊び回るふりをします。当たり前の子供のように。腹の探り合いや、大人を警戒している素振りをやめるのです。まぁ、その中でもイェレ兄さまと以前からお付き合いのあるエステン公爵家へは多く訪れることになるでしょう」

「えーっと……?」

「ぼく、考え過ぎてました。ぼくらは子供なんですもん。つまり、リヒ様は今まで通り遊びに来て、ぼくらは今まで以上に遊びに出る、ということですよ」

「で、君はそれを隠れ蓑にエステン公爵家でブラウンシュバイクを尋問する、と。本当にえげつないな、わたくしの弟子は」

「遊び回るのに忙しくて尋問も間が空くくらいがちょうどいいでしょう。ブラウンシュバイクの情報が得られない時間が長くなればなるほど相手は焦るでしょうし、ぼくらはその間のん気に遊び回っていればいい」

 実際やることは山積みなんだ、ブラウンシュバイクだけに構っていられないし、平民向けの孤児院だって整備しなくてはならない。子供らしく遊び回って、相手が油断するくらいがちょうどいい。大人を相手にする必要はない。この機会に思い切り商売も進めてやる。

 もちろん、そうやって相手を焦らす間イェレミーアスもまた、忍耐を強いられることになる。ちらりと視線を送ると、イェレミーアスはぼくの手へ自分の手を重ねて頷いて見せた。

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