第44話 罪に向き合う者 ⑴
昨夜はそのまま、イェレミーアスに付き添って一緒に眠った。朝、目が覚めてもいつもと違って魂が抜けたようになってしまったイェレミーアスの顔を濡らしたタオルで拭って、準備してあった服へ着替えさせ、ぼくの着替えはフレートに手伝ってもらった。
「アス……」
顔を合わせても、一言も発することのないイェレミーアスを支え、ローデリヒはぼくらの馬車へ乗り込む。
「母上、オレはアスたちと一緒にスヴェンのところへ行って来るよ」
「分かったわ。わたくしも明日にはそちらへお邪魔してもいいかしら、スヴァンテちゃん」
「はい。お願いします」
きっと、ヨゼフィーネとベアトリクスにはエステン公爵夫人が付き添ってくれた方がいいだろう。エステン公爵夫人は、馬車に乗り込むヨゼフィーネとベアトリクスの手を握って抱きしめていた。
「明日には伺うわ。ヨゼフィーネ、ベアトリクス」
「ええ、ユーディト。待っているわ……」
彼らにとって、ここからが始まりなのだ。ようやく、始まった。何故、夫は、父は、殺されなくてはならなかったのか。解明し、向き合わなくてはならない。長く、辛い戦いが始まるのだ。
「スヴァンテ君。あとは任せておきなさい」
「はい、エステン公爵閣下。よろしくお願いいたします」
「私のことはヴェルンヘルと呼びなさい。息子の恩人にまで閣下だなんて呼ばれたくないんだ」
「……ありがとうございます、ヴェルンヘル様」
小さく頷いて、エステン公爵は最後にイェレミーアスの肩へそっと触れた。ぼくもその場で頭を下げ、イェレミーアスの背中へ手を置く。
「イェレ兄さま。帰りましょう」
「……」
ぼくが手を引くと、無言のまま付き従う。吐き出してくれた方が、周りとしては助かる。だが、イェレミーアスの中では今、きっと様々な思いが渦巻いていて外へ出すどころではないのだろう。だからゆっくり、吐き出してくれるのを待とう。
馬車に乗ってしばらく揺られながら、見るとはなしに外の風景を眺める。ローデリヒも、ルクレーシャスさんも、視線は外へ向けているが気持ちはイェレミーアスを見ている。
「……絶対に」
手を握ったまま、イェレミーアスの肩へ頭を寄せる。繋いだ手が、僅かに動いた。
「イェレ兄さまを、おうちに帰してさしあげますね。それまではタウンハウスがぼくらのおうちで、ぼくはイェレ兄さまの家族ですよ」
「……っ、ふ……っ! ……っ、うぅ……」」
覆い被さるように、抱きしめられた。大粒の涙が、すすり泣きと共にぼくの肩へ降り注ぐ。泣いてしまえばいい。好きなだけ、思い切り。つらくて当然だ。悲しくて当たり前なんだ。
イェレミーアスの背中を撫でながら、ふと目をやるとローデリヒが唇を引き結んで泣いていた。穏やかな親友が泣く姿など、おそらく今まで見たことがなかったのだろう。イェレミーアスの背中を撫でながら、ぼくは自然と口ずさんだ。
「うさぎ追いし彼の山……
日本語で歌ってしまったのだが、ローデリヒもルクレーシャスさんも無言でぼくの歌を聞いている。ぼくはこの世界の歌をあまり知らないから、レパートリーが少ない。馬車の単調な揺れに、この歌はよく合う。他にもいくつか日本の童謡を、小さな声で歌った。
ぼくがいつまでも、前世を忘れられないように。帰りたいよね。戻りたいよね。戻りたいのも、帰りたいのも、もう戻らないひとの居た、幸せな時間だとしても。切望する気持ちは、誰に否定できるものでも、無理に押し込めておけるものでもない。
気が付くと、イェレミーアスはぼくに凭れたというか、覆い被さったまま寝てしまっていた。慎重に体を動かそうとしたら、ローデリヒとルクレーシャスさんが手伝ってくれた。膝枕の状態で、イェレミーアスの前髪を払う。残る涙の後が、普段なら落ち着いた態度のイェレミーアスも、まだ子供であると訴えかけるようだ。
志を果たして、いつの日にか帰らん。この歌は、まさにイェレミーアスの心情に近いのではないだろうか。
そういえばルチ様もこの歌、好きだったな。リズムが単調で心地いいのだろうか。何かこの世界の人の好む要素があるのかも知れない。
ぼくの歌を聞いていたルクレーシャスさんが、ぼそりと漏らす。
「不思議な歌だね。なんだかとても懐かしくなるよ」
「そうですね。この歌は、『いつか帰りたい』と故郷を懐かしむ歌なんですよ」
ローデリヒがすん、と洟を啜りながらイェレミーアスへ目を向けた。
「これまでは、突然のことに呆然としていたところがあるのではないかと思うんです。これからはお父君を奪われた理不尽に、向き合って行かなくてはならない。怒りも焦燥も、これまで以上に味わうことになるでしょう。だからリヒ様、どうかイェレ兄さまを支えてくださいね。今まで通りで、いてください。きっとそれが、イェレ兄さまにとっては一番の支えになるから」
「……うん」
タウンハウスへ到着すると、いつもなら玄関先へ待ち構えているはずのルチ様が、馬車の中まで迎えに来た。
「ルチ様、あのね……」
そっと首を横へ振って、ぼくごとイェレミーアスを抱え込むと滑るように歩き出す。ぼくに膝枕されているイェレミーアスを見たら、きっと不機嫌になると思ったのに意外だ。ぼくが何か言ったわけでもないのに、イェレミーアスの部屋へ向かって行く。そしてまた、ぼくごとイェレミーアスと一緒に、ベッドへ下ろされた。
「しばらくはぼく、イェレ兄さまとおねんねするかもです」
『……うん』
珍しく聞きわけがいいな。でも正直、助かる。イェレミーアスの現状を考えると、いつも通りに拗ねられたならさすがにぼくも本気で怒らなくてはならないと思っていたからだ。
「またお歌を、歌いますね。聞いて行かれますか」
『うん』
イェレミーアスを起こさないよう、小さな声で歌うぼくの横へ寝転がったルチ様が、ぼくを抱え込む。胎児のように丸まるイェレミーアスへ寄り添うぼくをさらにルチ様が抱え込んでいるので、三人歪な川の字に並んでいて、何だか不思議な図である。
『ヴァン、もっと、歌って』
答えずさらに歌を続ける。そうしていつの間にか、ぼくも眠ってしまったようだった。
目を開くと、イェレミーアスに手を握られていた。穏やかな勿忘草色がぼくを見つめている。いつからそうしていたのだろう。勿忘草色をぼんやりと眺める。瞬きのたびに音がしそうなほど長い睫毛のせいか、その虹彩は縁が少しだけピンクがかって見える。
「ヴァン。私の絶望を照らす太陽。私の世界の中心に、君はいる」
「ぼくは……おひさまなんかじゃ、ありません」
そう。どちらかといえば。
「日中でも、月が見えることがあるでしょう? 月って昼間に太陽と共に上るんです。だから夜に見える月は、実は沈んで行くところなんですよ」
ぼくは太陽じゃなくて、せいぜい昼の月か沈む夜の月です。
「そうか。でもね、ヴァン。ヴァンは欠けたり満ちたり沈んだりしない。いつも変わらず不動で優しく見守ってくれている。まるで、あの中天の星のように」
「ふふ……夜空の真ん中にある星は、ポラリスって、言うんですよ……」
「ポラリス?」
「そう。ポーラスター。北極星ですよ」
「そうか。そう……、そうだな。きみはあの、控えめだが強く煌めく星のようだ」
優しい手がぼくを抱きしめた。頬を寄せられ、目を閉じる。
「ならば私は君を休ませる夜になろう。君に仇なすものから君を隠す温かな闇になろう。片時も君の傍を離れぬ影になろう。私はあの愚かな明け空の星のように、君を目指して夜明けに旅立つだろう。何度でも、永遠に」
明け空の星。明けの明星。神に逆らい堕ちた天使の名を冠するあの星の名は。
まだぼんやりと霞がかかった思考のまま、無意識に自分の手で口を覆った。
「――」
ぼくは、似たような囁きを聞いたことがある。勿忘草色の虹彩は、縁が少しだけピンクがかって見える。下瞼の目頭辺りにできる、笑い皺。
「……」
そんなわけがない。きっと偶然だ。ぼくは自分へそう言い聞かせ、その疑問へ蓋をした。
「……ぼく、おなか空いちゃいました」
「私もだ」
「ふふっ。じゃあ、こっそり厨房へ行ってダニーに何か作ってもらいましょう?」
「うん」
その時、一緒にイェレミーアスの目を冷やすタオルももらわなくちゃ。起き上がると、ぎゅっと抱きしめられた。抱きしめられたイェレミーアスの肩越しに、窓から差し込む陽射しを眺める。太陽はもう、高い位置にあるようだ。
「ヴァン」
「はい」
「愛してる」
「ごめん」と「ありがとう」をやめようと言ったから、「大好き」よりももっと強い感謝を表すために、そう言ったのだろう。兄が弟を見守るように。君が健やかであれと願うこの想いは、間違いなく年長者としての愛情であると言えるだろう。だってぼく、実際前世ではお兄ちゃんだったし。ぼくはイェレミーアスの背へ手を回し、素直な気持ちで答えた。
「ぼくもですよ、イェレ兄さま」
この世界に、本当の意味でぼくの家族は居ない。だからぼくは、父母に冷遇されてもさして傷つくことがなかった。その寂しさがふとぼくを包んだ。前世では、母を亡くした以外に身内を喪った記憶がない。むしろぼくは、前世では父と妹を置いて死んだ側だった。
けれど、だから想像してしまう。初めから持たなかった喪失より、確かに手にしていたものを喪う方がつらいのではないだろうか。だからぼくは、ただ寄り添うことしかできない。まだ小さな腕をうんと伸ばして、背中へ回すことしかできない。
ぼくには君へしてあげられることが、とても少ないけれど。
精いっぱいを、誓おう。ぼくにできる、精いっぱいを君に。
「さ、食事をしよう。ヴァンのおなかが、鳴り出す前に」
そう言ってぼくへ手を差し伸べたイェレミーアスは、いつも通りだけれど僅かに大人びた表情をしていた。ぼくはふと、いつの間にか精神的に成長してしまったジークフリードを思い出した。そうやって、少年は成長していくのだ。ひとの心というのは、経験によって成熟していく。その瞬間を、ぼくは見たのだろう。
これは確かに成長ではあるが、本来なら負わなくて済んだはずの傷でもある。ぼくはこの子を、これからできるだけ傷を負わずとも成長できるように見守って行きたい。ぼくが貴族向けの養護院でしたかったのは、おそらくそういうことなのだ。
貴族の、しかも男児が厨房に近づくことは皇国の常識ではタブーである。しかしぼくはよく料理をするので、厨房への出入りを止める使用人はいない。一階の端っこ、北側の一番広いスペースが厨房だ。
「ダニー、おなか空きました。パンと、ハムと、チーズと野菜を少しもらってもいいですか」
「おや、坊ちゃん。おはようございます」
「うん。おはよう、ダニー」
イェレミーアスは、ダニーがぼくのために空けてくれた作業台の隅へ椅子を置いた。それからぼくを抱え直し、椅子へ座る。好きなように野菜とハムとチーズをパンへ挟んで、皿へ載せてイェレミーアスへ差し出す。
イェレミーアスは両手でぼくを抱えたまま、手を上げようとしない。仕方ないのでぼくは、サンドウィッチをイェレミーアスの口元へ運んだ。顔のパーツとしては小さなイェレミーアスの口は、開くと意外と大きいのだとぼんやり眺める。まるでぼくに聞かせるため、と言わんばかりに額を押し付けられ、咀嚼の音が骨を伝って響くことに僅かばかり安堵する。
小食のイェレミーアスがぼくへ伝えてくれる。食べようとしている。生きようとしている。今はまだ、それだけで十分だ。
ダニーが水の入ったコップを二つ、ぼくらの前へ置いた。
「ありがと、ダニー」
「坊ちゃん、ゆっくり食べてください」
「あとでまた、お菓子を作りに来ますね」
「はい。何か準備しておくものはありますか?」
「うーん。じゃあ、バターを常温にしておいてください」
「かしこまりました」
サンドウィッチを食べてダニーへ礼を言って厨房を後にする。イェレミーアスがぼくを抱っこしようとしたが、首を振って見せた。
「コモンルームまで、歩きます」
「……分かった。歩くのが早かったら、言うんだよ? ヴァン」
「はい、イェレ兄さま」
元気よく答えた五分後、ぼくはイェレミーアスへ向かって両手を上げた。
「イェレ兄さま、抱っこしてください……」
くそう。コモンルームはもう、目前なのに。もう一歩も足を前へ出せる気がしない。
いつも通りにイェレミーアスに抱っこされて現れたぼくへ、ルクレーシャスさんは少し微笑んだ。ローデリヒはだらしなくソファの肘掛けに載せていた足を退け、体を起こして自分の服についたお菓子の食べかすを払った。ヨゼフィーネとベアトリクスはいない。ぼくがコモンルームを見渡すと、ローデリヒが先んじて答えた。
「かーちゃんが来てるから、伯爵夫人とトリクシィは温室で茶を飲んでる」
「そうですか。約束通りに来てくださったんですね。あとでお礼にまいります」
いつも通りにぼくを膝に乗せてソファへ座ったイェレミーアスへ、問いかける。
「イェレ兄さま。これからぼく、イェレ兄さまにとってはとてもつらい話をします。だから、つらくなったらお部屋へ戻ってください」
イェレミーアスは、勿忘草色の虹彩でぼくをじっと見つめた。その瞳は風雨に晒されくたびれたように、僅かにざらついている。
「大丈夫だ、ヴァン。ただ私がつらくなったら、抱きしめてくれるかい?」
「はい」
ぎゅ、っと抱きしめる。まぁ、細っこくて小さいぼくがイェレミーアスに張り付いているようにしか見えないわけだけども。しばらく抱きしめて、それからいつものようにイェレミーアスの膝へ横向きになろうとした。するとイェレミーアスは、ぼくの膝を揃えて自分の足の上へ置いた。それからぼくのお腹を守るように自分の手を回し、肩へ顎を載せて頬をくっつける。
「……アスが重症化してる……」
「うんまぁ、しばらくは仕方ない、のかな……広い心で見なかったことにしなさい、リヒくん」
うん。二人の反応も分かるけど、イェレミーアスの気持ちも分からないではないので上半身をずらしてイェレミーアスの顔を見る。微かに疲れが見える弱った美少年の笑みに、勝てる人間がいるだろうか。ぼくは負けた。頬を軽く押し当て、お腹へ置かれたイェレミーアスの手へ自分の手を重ねる。
「来週から、ぼくとイェレ兄さまは皇宮でジーク様と一緒に勉強と剣術を習うので、リヒ様はいつも通りにしてください。剣術の時だけ皇宮へおいでになる、とかでも結構です」
「お、うん」
「ぼくは、合間の時間に皇后陛下を診察する皇宮医や薬学士と接触を図ります。時間がかかってもいいので、食物アレルギーについての知識があるかどうか確認します。併せてジーク様と共に皇宮の記録の中にもそのような記述があるか、調べますのでイェレ兄さま、リヒ様と別行動になることも出て来ると思います」
「うん。分かった」
「そんなわけで、ルカ様にも当分はご一緒いただきたいのです」
「わたくしは、君のおやつさえあればどこへでも行くよ」
「はは……」
ほんと、ぼくはルクレーシャスさんの食べている姿しか、ここ最近見ていないわけだが。それでも頼れる師匠ではある。
「それから、こちらの方が先になると思われますが」
イェレミーアスの手を軽く握った。これは今、ヨゼフィーネとベアトリクスが居ない時に言う必要がある。
「三日後、エステン公爵家へお邪魔させていただきます。ルカ様、ぼくの声を大人の男性の声に変えられますか?」
「できる。わたくしにできないことなどないよ、スヴァンくん」
「では、ぼくがブラウンシュバイクを尋問します。誰が自分を襲う可能性があると思っているのか、ミレッカーが関わっていることまで知っているのか、確認します」
「私も行くよ、ヴァン」
イェレミーアスの手を握り締めたぼくの手の上へ、手を重ねられた。重ねられた手のひらが熱い。
「聞きたいんだ。聞かなくちゃ、私は前に進めない。どうして、父上を殺したのか。殺すつもりではなかったとして、なぜ父上ではなくハンスイェルクを信じたのか。いつから、父を、私たちを、憎んでいたのか」
「……」
ローデリヒは、ショックを受けた表情でイェレミーアスを見つめた。それは単純に「信じていた家臣に裏切られた」のではない。過ごして来た何年もの日々を、踏み躙られる行為であると実感したのかも知れない。
「イェレ兄さま。到底納得できない理由かもしれません。それでも?」
「それでも……なぜ父上が殺されなくてはならなかったのか、知らなくては。恨むことも、憎むことも、できない」
「……分かりました。でも、ぼくが止めたら帰りましょう。いいですね?」
「……うん……」
小さく答えて、イェレミーアスはぼくの肩へ顔を埋めた。脇へ下りて膝立ちになり、イェレミーアスの頭を抱える。
「大丈夫ですよ、イェレ兄さま。ぼくが一緒にいますからね」
「……うん」
例えブラウンシュバイクに会わせた途端、罵倒したとしてもそれがイェレミーアスに必要なら止める気はない。復讐は何も生まないなんて思わない。それでイェレミーアスの心を守れるのなら、構わないとすら思う。けれどきっと、この優しく思慮深い子はそんなことをしないだろう。だからこそ、好きにさせて寄り添うべきだとぼくは思った。
そんなのはぼくの都合のいい希望的思考でしかないのだと、思い知らされることになるのは大分後のことになる。
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