第38話 初めての社交月 ⑶
人払いをし、ローデリヒにも分かりやすいように、紙へ書き出しながら説明し始める。が、当のローデリヒはミートパイを口に詰め込みながら、ぼんやりとぼくの手元を見ている。
「美味しいですか、リヒ様」
「うん!」
「……よかったです……」
「……リヒ……」
イェレミーアスが頭を抱えている。うん。いいんだよ、イェレミーアス。ローデリヒはね、野生の勘で動ける子だから心配してないよ。ちょびっと嫌な予感は過る時があるけど多分、やる時はやる子だよ。おそらく。大方。きっと。そうじゃないかな。だといいな。
「……確認したいことがあるのでまずはどうにかして、薬学士に会えるといいんですけど……。そういえば、皇后陛下のお加減はいかがですか、ジーク様」
「うむ。変わりないようだ。皇宮医も毎日様子を見ているしな」
昨日の宴を見るに、まだお腹が目立っていなかった気がする。二カ月も経てば皇国の長い冬の始まりだ。何か、腹と腰を温めるようなものを考えておこう。
「でも、まだ妊娠三、四カ月といったところですよね。この先寒くなりますし、妊娠の初期は何かと不安定な時期ですので無理はなさらぬよう、お伝えください」
「うむ。伝えておく」
興味なさそうというか、脳みそ素通りという様子で聞いていたローデリヒが突然ぼくへ顔を向けた。
「なぁ、スヴェンはそういうの、どこで知るんだ?」
「へ?」
「妊娠三、四カ月が妊娠初期だとか、不安定だとか。寒いのなんでよくないんだ?」
「……」
「……」
「……」
「……えっ?」
ジークフリード、ローデリヒ、イェレミーアスが同時にぼくの顔を見る。え、だってそんなの常識じゃん? そこまで考えて、はっと我に返った。
――常識じゃなかったあああああああああああ!
この世界、治療法として
「えっ……と、本で読んで……?」
ぼくの目は今、回遊魚かというくらいに激しく泳いでいるだろう。何かを察したジークフリードは、膝に両手を付いて項垂れた。イェレミーアスはにこにこと笑っている。ローデリヒは、あっさり納得した。
「ふ~ん。すげぇな、本。やっぱオレも本読まないとダメか」
「……リヒ様は、すでに皇国の剣としての才能を開花させておいでですのでそのままでよろしいかと」
「そうか? だよな! オレはこのままで行くわ!」
実際、ただの脳筋ではないんだよな。ローデリヒは。ぼくの何気なく放った言葉で「寒いのはよくない」という無意識の意味までちゃんと読み取ったわけだから。
「ふふっ」
「? なんだ、スヴェン。何がおかしい?」
「いいえ。つくづく、ジーク様は人を見る目がおありだな、と」
「お? ……うむ。ごほんっ」
それは君のいいところで、才能でもある。人に恵まれるというのは運もあるし、なかなかに得難いものだ。ジークフリードは、頬を染めて難しい顔をし、それから唇を尖らせた。
「その、そんなに母上が気になるなら見舞いに来ればいいぞ? 紋章証もあるのだし」
「――!」
突然ひらめいた。そうだ。その可能性があるじゃないか。
「ジーク様、アイスラー先生の診察の時に、薬学士の方は同行されていますか?」
「ああ。その場で薬の指示をすることもあるからな」
「……! 近いうちにお見舞いに上がりましょう。みんなで、です。できれば薬学士が同行している、診察の際に」
ぼくの髪を弄って遊ぶ妖精たちに、リボンを渡しながらイェレミーアスが少し表情を曇らせた。イェレミーアスには妖精が見えているから、妖精たちもすっかりイェレミーアスと打ち解けている。なんせ気難しいルチ様が、イェレミーアスからはぼくを直接受け取るくらいだ。やっぱ妖精や精霊が美しいものが好きって話は本当なんだな、と実感する。
「スヴァンテ様。診察の際にリヒが居ては騒がしい上に邪魔になります。リヒは同行しなくてもよいのでは?」
幅が五ミリほどの、甘い光沢のあるアイボリーをシルクのリボンの中から選んで、イェレミーアスは妖精へ渡した。イェレミーアスからリボンを受け取った妖精は満足気に頷いて見せる。
「お、なんだぁアス。オレだけ仲間はずれかよぉ~」
「アスはよいがリヒはなぁ」
「なんだよ、ジークまでひでぇな」
「スヴェンだけを伴って、リヒとアスはオレの執務室で待つのはどうだ?」
「それでいいよ。じゃあ、その時に食うおやつ作ってくれよ、スヴェン。オレ、ミートパイがいい!」
「私はスヴァンテ様がお疲れになった際、スヴァンテ様を抱えて移動する必要がありますので同行します」
イェレミーアスがきっぱりと言い切った。イェレミーアスはぼくを抱えるのが自分の仕事だと思っているようだ。しかし、要らないと言い切れないから仕方ない。
「うむ。そうだな。スヴェンが疲れた時、スヴェンを抱える役目の者が必要だな。アスは同行、リヒは執務室で待機だ」
ちょっと待ってよ、ジークフリード。君、設定じゃなくて本気でぼくが病弱だと思ってないか?
「ジーク様……。リヒ様、さすがに皇后陛下の御前でくらいは静かにできます、よね?」
ぼくが助け船を出すと、心象風景的にはその船の縁を思い切り蹴飛ばしてローデリヒは笑った。
「静かにはできねぇけど、大丈夫じゃね?」
できないのか。本当に大丈夫か公爵家。ジークフリードがぼそりと呟く。
「オレもこんなだったのか……」
ううん。君は残念な子ではなくてバカ殿下でしたよ。だからローデリヒとはまた、ちょっと違うかな。でも過去形だから大丈夫。
大変不敬な言葉を何とか飲み込む。絶望しかない、みたいな顔をしているジークフリードへ手を伸ばして眉尻を下げて見せた。
「大丈夫、ジーク様は大分成長なさいましたよ?」
「つまり否定はしないと」
「……リヒ様の、野生の勘のようなものもバカにできないとぼくは思うんですよね」
話題を変えて視線を逸らす。にっこり笑みを作って顔を傾ける。元々の性分もあるのだろうが、最近のローデリヒには自分がぼくを巻き込んだという自覚がなさ過ぎる。ぼくを巻き込んだ首謀者であるローデリヒが、当事者という認識を薄れさせてしまうのはよくない。そういうところから、企みは破綻するとぼくは思う。ローデリヒは良くも悪くもジョーカーカードなのだ。
「ですので、リヒ様も一緒に行きましょう。でもリヒ様。皇后陛下にご迷惑をおかけしたらしばらくはおやつ抜きです」
「ええっ!? じゃあオレは執務室で待ってるって!」
「ダメです」
「でもよぉ」
「これを機にいい加減、両陛下の前でくらいは失礼のない態度ができるようになりましょう。イェレ様を見習ってください! リヒ様はイェレ様とお一つしかお年が違わないのですよ!」
「アスはアスだもん。ちっちぇころから頭もよくて剣術も天才って言われてたんだぞ? 剣術しか褒められたことのないオレと比べちゃダメだろ、スヴェン」
ここまで一貫して「オレはオレ、お前はお前」を貫かれると逆に清々しい。嫌いじゃない。納得しかけてしまった。いかんいかん。ルチ様のお膝に抱えられたままローデリヒへ指を立てて見せる。
「リヒ様。そうやって礼節を守れないと、ちょっと前までのジーク様のようにルカ様に嫌われて徹底的に無視されるのです。いいのですか。皇王陛下はルカ様より陰湿でルカ様よりさらに稚拙でルカ様よりさらに狡猾ですよ。そんな方の機嫌を損ね続けて生きるおつもりですか」
「スヴェン、いくら父上でもそこまで酷くはないぞ」
「そうだよ、スヴァンくん。わたくし、気に入らないから一言も話さなかっただけでヴェンほど陰険ではないよ」
「……」
幼なじみと師匠の言い分を無視して、ローデリヒへ再び顔を向けた。イェレミーアスは静かに前を見たままだ。
「ぼく、リヒ様がその態度で皇王陛下から嫌われても助けませんよ。ちゃんと忠告はしましたからね」
「……っ、うそだろスヴェン? オレたち友達じゃん?」
「一方的に厄介事ばかりを押し付けるのは友人とは呼びません」
「……、……悪かった」
「……いいですか、これはリヒ様から始めたことですよ。ぼくにちゃんとイェレ様を助けさせたいのならば、リヒ様はぼくの要求に最大限応えねばなりません」
「うん……」
分かってる。十歳にこれを言うのは酷なことだ。本来ならば大人に相談して、任せるのが順当だろう。それでも、始めたのはローデリヒなのだ。その十歳のローデリヒは、六歳のぼくに事を押し付けた。その理不尽は、自覚してもらわなくてはいけない。
悪い子じゃないし、当たり前の十歳なんだよ、ローデリヒはね。そんなこと分かってる。分かっているんだ。でも、それは命取りになる。ぼくだけではなく、ジークフリードやイェレミーアスや、ローデリヒ自身の命を危険に晒してしまう。だからぼくは、お兄ちゃんとしてちゃんとこの子たちを守らなくてはいけない。言いにくいことも言わなくてはならない。導かなくてはならない。
「リヒ様。相手は地位も権力も有した大人です。人脈も金銭も体力も子供のぼくらが正攻法で勝てる相手ではありません。子供であることで相手の虚を突けるかもしれませんが、それとて大した強みにはなりませんし、一度しか使えない手です。ジーク様や公爵家令息であるリヒ様を亡き者にするのは、さすがに家族が黙っていないでしょうから可能性は低くとも、ぼくとイェレ様は邪魔になれば殺す方が楽でしょう。ぼくはこの話をお受けした時から、その覚悟はしております。リヒ様は、どうですか。自信がないのなら、ぼくらのためにもこの件はお父上にお譲りください」
「リヒ」
「?」
すっかり項垂れてしまったローデリヒへ、イェレミーアスは穏やかな声で語りかける。
「もう十分すぎるくらいだ。そのくらい、君がスヴァンテ様を頼ったのは正しいことだったと私も思う。だから私をスヴァンテ様に引き合わせてくれて感謝している。だからもう、リヒは普段の生活に戻っていい。また、遊びに来てくれ。君が私の友であることはこの先も変わらないのだから」
「オレ、そんなつもりじゃなかったんだ。アス、スヴェン」
「分かっていますよ。ただ、相手があまりに複雑すぎるかもしれない。だからぼく、リヒ様を守れるかちょっと自信がないんです。エステン公爵家を表立って巻き込んでしまうことに躊躇しています」
ぼくは自分の膝に置いた手へ、空いた手を重ねた。自分の手の甲をぼんやりと目路に入れる。
「思ったより、関わっている人物が多く根が深そうです。どうやら黒幕はぼくとも悪縁がありそうですし、自分自身のためにも逃れるより暴いた方がいいかもしれない。でもリヒ様は違う。今ならまだ、エステン公爵は同じ皇族派の高位貴族として看過できずに手を出した、ということに収めておける。無関係を装えます」
「……ごめん」
今、ローデリヒは責められているような気持ちだろう。理解できる。それでもこの子はこの場面で、謝罪が出て来るのだ。だからこそ、巻き込めない。彼だって、まだ大人に守られるべき子供なのだから。
「あんまり気に病まないで、リヒ様。事実上、ぼくの敗北宣言なんです。リヒ様までお守りする自信がありません。だからできれば、お父上の、公爵家のお力でご自身を守っていただきたい。それだけのことなんですよ」
ぎゅっと噤まれたローデリヒの唇をぼんやりと眺める。「でも」も「だって」も続けない。それが彼の聡明で素直なところだ。
何よりミレッカー親子が関わっている。あの狂気が代々受け継がれたものだとしたら、企みはこの件だけに留まらないだろう。他にも何か企んでいる。そんな気がしてならない。アイゼンシュタットが接触して来たのも、皇王の勅命を受けていそうなことを仄めかして来たことも怪しい。皇王さえ踏み入ることのできなかったもっと大きな企みに、繋がっている気がしてならないのだ。
思考を巡らせながら顔を上げると、ジークフリードと目が合った。
「ジーク様はもう、今さら後に引けないのでとことんまでお付き合い願いますよ」
「お、うむ……」
「ミレッカーが何を企んでいるか分かりませんが、ハンスイェルクがミレッカーと繋がっていると見た方がいいでしょう。その仲介役をしたであろうシェルケも確実に怪しい。ことによってはハグマイヤー、シュトラッサー、メスナー辺りも要注意です。ラウシェンバッハ城に彼らの間者がどれほど潜んでいるかも分からない。皇王陛下はもう少し詳しく何かを掴んでいるかもしれません」
「それとなく、父上に探りを入れて見る」
「あまり無理はなさらず」
「うむ。では近いうちにスヴェンとアスを皇宮へ呼ぼう。紋章証があるから、いつ来てもいいのだしな。スヴェンがオレと共に勉強をすることは皆が周知しているし、アスはスヴェンと同じベステル・ヘクセ殿が後見人なのだから同行して不思議はない。リヒも、遊びに来い」
「……はい」
ローデリヒの頭は今、ぼくの言ったことでいっぱいだろう。まだ十歳。随分厳しい物言いをした自覚はある。それでもぼくは、当事者ではない幼子を巻き込むことにどうしても抵抗がある。まして、ローデリヒにはまっとうな親が居る。黙っていても継承できる、身分もある。わざわざ危険に首を突っ込ませる理由はないのだ。
「で、スヴェンは薬学士に何を確かめたいのだ?」
「薬学士に、人によっては特定の食べ物が死に至る原因になる、という知識があるかどうかを確かめたいのです。できれば、それをミレッカー宮中伯も知っているかどうか、ハンスイェルクもそれを知っていたかどうか、それを裏付ける証拠があればいいのですが……」
「母上の見舞いにかこつけて、ゆっくり聞き出すがいい。そういうのお前、得意だろう? スヴェン」
ジークフリードは実に人の悪い笑みを浮かべ、ティーカップを仰いだ。
「とはいえ、二度と会わないとか付き合いを控えるとかではないのでリヒ様、今まで通りに遊びにいらしてください。エステン公爵とのお約束もありますし、残りの短い社交シーズンにやることがいっぱいなんですよ……」
「うん。一週間後に母上からお茶会の招待があると思う。父上もその日は空けておくと言っていたから、オレが迎えに来る」
ちょっと元気がないな。でも本当に危険なんだ。謀って人を殺すような人間にとって、ぼくらのような子供を殺すことなど造作もない。一度罪に手を染めた人間は、罪を重ねることに躊躇がなくなる。己の目的のために人を踏み躙ることを是とした人間もまた然り、だ。子供を踏み躙ることなど、大人より容易いくらいにしか思わないだろう。ふと、ルクレーシャスさんの言葉が過った。
――人は人を殺す。富み満ち足りても、貧困に喘ぎ追い詰められても、それぞれの理由で同族を殺す。
そんな人間を相手に、道理や慈悲や綺麗事など、通用しない。
だけど、だから、なればこそ。ぼくは愚かしいほどの綺麗事を以て、立ち向かう。もう抜けられないジークフリードやイェレミーアスは別として、ローデリヒを巻き込む権利はぼくにはない。
「ですからリヒ様は、誰かに何かを聞かれてもそのまま答えてください。難しくて分からないことは『難しくて分からない』、知らないことは『知らない』と。喋っちゃいけないことは黒幕がミレッカーだとぼくが疑っていること、ハンスイェルクとシェルケも疑わしいこと、ぼくらが彼らの関与を暴こうとしていることをエステン公爵が知っているということ、のみです。これ以外は、素直に答えていいですよ」
「えっ? いいのかよ?」
「どうせリヒに嘘は吐けないだろうしな」
ジークフリードは腕を組んで頷いた。イェレミーアスも同意して一つ、首を縦に振った。
「そうですね。リヒに高度な駆け引きは無理ですね」
「ええ。なのでリヒ様をよく知らないだろう相手が、勝手に疑って混乱してくれれば都合がいいのでリヒ様はぼくが言った『どうしても誰にも言ってはいけないこと三つ』以外は好きにしていいです」
「さ、リヒ。スヴァンテ様がおっしゃった、言ってはいけないこと三つを復唱してごらん」
イェレミーアスがローデリヒへ、指を三本立てて見せた。
「言ってみろ、リヒ」
「まさかもう忘れたの? リヒ」
「嘘だろう? さっきスヴェンが挙げたばかりだぞ?」
「酷くね? オレの扱い酷くね? さすがに覚えてるわ! スヴェンが疑って探ってることは内緒、ミレッカー、シェルケ、ハンスイェルクの話はしない、父上がオレらに協力してくれてることは内緒、だろ!」
「リヒ様、よくできました」
皇国の筆頭公爵家の嫡男という立場上、ローデリヒが彼らに接触する機会は多い。ぼくやイェレミーアスへ無理矢理、接触を図るより理由と場所を用意するのは簡単だ。だから彼らはローデリヒから情報を引き出そうとするだろう。
「リヒ様。ぼくはあなたを仲間はずれにするのではありません。おそらく彼らは今後確実にあなたへ接触して来るでしょう。その彼らを、混乱させるのがあなたの役目です。この情報戦で、あなたは切り込み隊長なのですよ」
口へ当てていた拳を下げ、少し首を傾ける。ローデリヒへ視線を流し、唇を笑みの形へ吊り上げる。そう、君はぼくらのジョーカーカード。その是非は、いつそのカードを切るか、使い手の運と度胸次第。
「しかもあなたは、いつも通りでいいのです。いつも通りのあなたが、彼らを混乱させます。あなたはこの情報戦の切り札です。どうです、カッコイイでしょう?」
「……おう! それならオレ、いっとう得意だ!」
元気よく顔を上げ、胸の前で己の手へ拳を打ち付けたローデリヒは、生粋の戦士の表情をしていた。
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