第36話 初めての社交月 ⑴
「やっぱり、チーズやバターや牛乳のために敷地内で家畜を飼おう」
そう。こんなに緑に溢れのどかな風景なのに家畜が戯れていないのは何だか落ち着かない。牧歌的なはずなのに物足りない景色を眺めながら、ぼくは膝の上の籠を抱え直した。
「スヴァンテ様、それは隣の座面へ置いても大丈夫ですよ。私が押さえておきますから」
そう言って、イェレミーアスはぼくが抱えた籐の籠を視線で指し示す。相変わらず、座る時はぼくを膝に乗せるのがまるで使命とでもいうようにイェレミーアスはぼくを膝に乗せている。
アイゼンシュタットの迎えの馬車が来た時、イェレミーアスは紳士のお手本みたいな所作でベアトリクスとぼくをエスコートして先に馬車へ乗せてくれた。馬車へ乗り込んだ後、イェレミーアスがさも当たり前といった素振りでぼくを膝へ抱えた時、ベアトリクスは僅かの間ぽかんとしていた。普段からイェレミーアスは屋敷の中で至極自然にぼくを抱っこしたり、膝に乗せているのだが、知らなかったのだろうか。余りに自然な仕草なので当然、ベアトリクスもイェレミーアスからそうされて来たものだと思っていたが違うのだろうか。
反対側に少し行くと、貴族の居住区と平民の居住区を仕切る城壁がある。そこにはかつてはボーレンダー公爵の守る城塞があった。今は衛兵たちの宿舎として一部を使っているらしい。西城壁の草原を抜け、小川を渡るとそこはもう、
「アイゼンシュタット様のお屋敷は、中央二番街にあるのですよね」
「ええ。父と一緒に何度かご招待いただいたことがあります」
「わたくしも、メグに招待されてお母様と一緒に伺ったことがございますわ」
「ご令嬢のマルグレート様ですね。確か、ベアトリクス様の一つ上だったと記憶しております」
「ええ。リヒ兄様と同い年ですが、馬が合わないと申しましょうか……」
「トリクシィ。リヒと馬が合うご令嬢はなかなかいないと、私は思うよ……」
「ああ……」
ぼくが漏らすと兄妹はどこか遠くを見る生温かい目をした。快活でいかにもいたずらっ子、というローデリヒはおませなご令嬢からすれば、子供で相手にならないだろう。ご令嬢に嫌がらせとかをしたりはしないだろうけど、徹底的に空気は読まないだろうからなぁ。
いや、あれが普通の十歳だとはぼくは思うよ。公爵令息としてはどうかと思うけど、明るくてムードメーカーだし親しみやすくてぼくは嫌いじゃない。
「リヒ様はとても正直で良い方ですがご令嬢の喜ぶような言葉は到底、口にできないでしょうから……」
そう言ってぼくが宙を見ると、兄妹も同じように顔を上げた。いかん、いかん。これじゃまるで、ローデリヒが結婚できないみたいな言い方じゃないか。ぼくはできるだけ明るい声で、希望的観測を述べた。
「大丈夫です、そうは言ってもリヒ様は数少ない公爵令息。年頃になればご令嬢からの釣り書きが殺到するでしょう……」
「リヒが、その頃になってもご令嬢に興味を示さない可能性は高いですが……」
そうなんだよね。ローデリヒは何歳になっても「ちょっといい感じの木の枝」を見つけたと喜んでぼくに見せてくれるタイプの、いつまでも少年の心を持った大人になりそうだ。嫌いじゃない。むしろ微笑ましいんだけど。
「……うぅん……」
「ふっ……うくっ……ふふっ」
ぼくが唸ると、ベアトリクスは扇で顔を隠して肩を震わせた。必死で笑いを堪えているようだ。ちなみにローデリヒは、さすがに勉強をさぼりすぎたようで今日は来られないと朝一番に言いに来て、おやつを持って帰った。何しに来たのあの子。
「ああ、見えて来ました」
ぼくの肩にショールをかけると外を見せるため、イェレミーアスが窓を開けた。窓の方へ、少し腰を動かしてぼくが覗きやすいようにしてくれる。さりげない気づかいが素晴らしい。一体この子は人生何回目なんだろうと思うほどだ。
「ありがとう、イェレ様」
「はい。あれがアイゼンシュタット伯のお屋敷ですよ、スヴァンテ様」
「……」
イェレミーアスの指が柵に囲まれた森を指す。だからね、前世庶民のぼくからすると高位貴族の家ってね、防犯のためにお屋敷へすぐに到達できないようになっているからもう、外から見るとただの森林公園なんだよね。ただ、上部に侵入者除けの返しが付いた高い鉄柵にはアイゼンシュタット伯爵家の
真っ直ぐに背筋の伸びた門番の衛兵は、馬車を見るとすぐに門を開いた。躾が行き届いている。さすが皇国最古の家門である。
広大な森を抜け、手入れされた庭を行き、噴水を越えると屋敷というよりは宮殿と呼ばうに相応しい建物が見えて来た。馬車が回り込み、宮殿の広場へ停まる。
「やあ、妖精さんいらっしゃい。よく来たね。ほら、パパが抱っこしてあげよう。おいで?」
「お招きありがとうございます、アイゼンシュタット伯爵。初めまして。スヴァンテ・スタンレイと申します、レディ・マルグレート。大変光栄なご招待のお礼に、ささやかながらぼくの手作りのお菓子をお持ちいたしました。お口に合うとよいのですが」
籐の籠を差し出す。アイゼンシュタットが僅かに首を動かしただけで、侍従が籠を受け取る。堂々たる「貴族」の姿だ。荷物がなくなったので、胸へ手を当て左足を僅かに引いて頭を下げる。マルグレートがほう、とため息を零した。
「それから、こちらはマルグレート様への贈り物です。お気に召すものがあれば幸いです」
もう一つ、フレートが差し出した小さな籠をマルグレートへ渡す。中にはパトリッツィ商会で手に入る中でも、最高級のリボンをいくつか選んで妖精たちが摘んで来てくれた花と一緒に入れてある。マルグレートが中を覗き込み、明るい表情をして見せた。
「まぁ、リボンがたくさん……それにお花まで。素敵ですわ! スタンレイ公子」
「メグ様、お久しぶりですわ」
「お久しぶりね、心配していたのよトリクシィ。それにお二人ともお元気そうで何よりですわ、アス様」
「マルグレート様もお元気そうで何よりです。ご無沙汰しております、アイゼンシュタット伯爵」
「よい後ろ盾を得たね、イェレミーアス」
一見にこやかだけど腹の探り合いがないはずがないよね。ああ、おうち帰りたい。妖精たちと木陰で日向ぼっこしながら、レース編みでもしていたい。ベアトリクスにレース編みで飾り襟をプレゼントしようと奮闘中なのだ。木陰でね、もうすぐ完成する本邸を建てる大工さんたちを眺めるのが最近の楽しみなんだ。ローデリヒとイェレミーアスが剣の練習をする修練場とも近いし、花畑もあってお気に入りなんだよ。
気が遠くなりかけたが、持ち直してにっこりと微笑む。それからできるだけおっとりと首を傾け、頬へ手を当てた。
「イェレ様とぼくは、なんだかとっても気が合うのでルカ様にお願いして後見人になっていただいたのです。ね、イェレ様」
つまりイェレミーアスの後見人はルクレーシャスさんなので、下手なことをしたら言い付けます。軽く牽制の先制攻撃を打ち込んでみた。意外にも、アイゼンシュタットは腹を抱えて大きな声で笑った。
「あはははは! イェレミーアスも年不相応に落ち着いた子だけど、君はさらに聡い子だね。本当に六歳かい? イェレミーアスの父である先代のラウシェンバッハ辺境伯はケイローンと二つ名を冠するほどに知恵者だったから納得できるが、君はあの凡愚なアンブロスと小物なフリュクレフの血筋とは思えないな。まさに鳶が鷹を生む、だ」
「親が愚かだと、子は聡くなければ生きて行けぬのです。それが道理とは思いませんか? アイゼンシュタット伯」
嫌味で返して、にっこりと微笑み少し首を傾けた。しかしこの、アイゼンシュタットの横にいる女性騎士さんは大丈夫なんだろうか。さっきから俯いたままだし何やらブルブル震えてブツブツ呟いているけど、具合が悪いのだろうか。具合が悪いのに完全防備のフルアーマーとか、余計に良くないんじゃないだろうか。
「あの、大丈夫ですか? お加減でも悪いのでしょうか。どうぞ、無理をなさらず」
「んんぎゃあああああ!」
声をかけると飛び上がった女性騎士は、顔を真っ赤にして涙目である。多分、女性騎士だと思うけど。いかんせんフルアーマーなので目しか出ていない。割りとガチムチなアイゼンシュタットの横に並んでるから華奢に見えるけど、女の人だとしたら結構がっちりした方なんじゃないだろうか。フルアーマーなのに軽妙な動作を見せ、その場でピョンピョン飛び跳ねている。
え、ほんと大丈夫なのこの人。よく見たらこの人、鉄球にトゲトゲの付いたあれ、めちゃくちゃ重そうなモーニングスターを持ったまま飛び上がってるんじゃない? あんなゴリゴリ信じるは己の腕力のみな殺傷能力しかない打撃専用武器、スコップでも振り回すかのように軽々扱わないでほしい。怖い。
「あの……?」
「お、ほ、ほほ~ほほ、ほひっ、よ、よ、妖精さん……っ」
え、ほんとこの人大丈夫か。首を傾げて歩み寄ろうとすると、イェレミーアスに抱え上げられた。
「お久しぶりです、アイゼンシュタット伯爵夫人」
アイゼンシュタット伯爵夫人んんんんん?! この挙動不審な女性騎士さんが?! 目をまん丸にしてイェレミーアスを仰ぐと、美貌のピンクサファイヤはちょっと眉尻を下げて唇を笑みの形にして頷いた。ヤバい、驚きの余り思わず指さすとこだった。
「いいいいい、いらっしゃい、ピンクサファイヤのおうじさま……妖精さんっ……ほわぁぁぁ! 妖精さんと王子さま……あなた、あなたっ! ほんとうに妖精さんだわ……っ」
「そうだろう、そうだろう? 私は嘘を吐かないよ、マルテ」
マルテ。どこかで聞いた名前だ。マルテ・アイゼンシュタット。マルテ……、……。
「堅牢のマルテ! もしや、マルテ・シュレーデルハイゲン様ですか?!」
「えっ、えっ、えっ、妖精がわたしの名前を呼んでる……っ、呼んでるわ、ルーヘン……っ! どっ、どどっ、どっ、どうしよう……っ!」
「呼んでるねぇ。あっはっは。驚いただろう? 妖精さん。妻はかわいいものが大好きでねぇ。君のこと、きっと好きだろうと思って呼んじゃった。あっはっは」
「きゃあ……っ!」
ゴスゴス鈍い音をさせて、アイゼンシュタットの肩を叩いているマルテさんを呆然と眺める。割りとゴツめのアイゼンシュタットが、その衝撃に堪えきれずよろめいている姿は怖い。普通に引く。
「こちらこそ、皇国初の女性騎士にしてオーベルジェの反乱では五万の軍勢を相手にシュレーデルハイゲン城を守り抜いた英傑『堅牢のマルテ』様にお会いできるだなんて、光栄です」
すごい人なんだよ、皇国はバカバカしいほどの男尊女卑社会だから女性は爵位を継げないし、騎士になることもできない。マルテさんはその常識を覆した初めての女性だ。もちろん、お父上のシュレーデルハイゲン閣下の力もあるが、実力がなければ認められるものではない。
「はわわ……どうしようルーヘン、妖精さんに褒められてるわたし、褒められてる……!」
しかしなんだろう、二つ名と目の前の人物が繋がらないな。始終はわわわしている。本当にこの人、ぼくが本で読んだ英雄だろうか。本が多少盛ってるにしても、こんなはわわわした人が戦えるんだろうか。アイゼンシュタット公爵と夫人は夫婦で戦場に立てば「血風灰塵」の異名を持つ。曰く、二人の通った後には塵も残らぬ、と。
「どうだい、マルテ。妖精さんをね、メグのお婿さんに来ないかって誘ってるんだけど」
「おっ、おとっ、お父様っ!」
「あっ、あなっ、あなたっ!」
「「天才ですわっ!」」
母子が見事にハモった。何だろうこれ。何だろう。アイゼンシュタット伯爵家側の反応が予想と大分、違う。ぼくの脳裏には、パイを頬張りながら勝ち誇るローデリヒの言葉が聞こえた気がした。
ルーヘン様、おもしろい人だって言ったろ? スヴェン。
考えることを放棄したぼくに、伯爵家の執事さんから救いの一言が耳へ届く。
「ともかく、お客様を屋敷の中へご案内させてくださいませ、伯爵様」
「そうだね、妖精さん! さ、こっちにおいで!」
アイゼンシュタットがぼくへ手を差し伸べる。すい、とイェレミーアスが半身を交わして笑みを浮かべた。
「お気遣いなく、アイゼンシュタット様。スヴァンテ様は私がお連れいたしますので」
「……イェレミーアス、君……」
まじまじとイェレミーアスの顔を見て、アイゼンシュタットは自分の顎を指で撫で回した。イェレミーアスはいつも通り、穏やかな笑みを浮かべてアイゼンシュタットに相対している。
「大分、いい顔をするようになったじゃないか。うん、今までの『この世の全てに興味がない』って顔より随分いい。うふふ、いいねぇ、やっぱり君は面白いねぇ、妖精さん」
まただ。アイゼンシュタットはまた、自分の唇をゆっくりと舐めた。その目には、紛う方なき狂気が浮かんでいる。やっぱり、この人は一筋縄ではいかない。
アイゼンシュタット伯爵夫人とマルグレートのためにぼくを呼んだ、というのは建前だろう。油断できない相手だ。先導されるままに屋敷の中へ入る。ベアトリクスはマルグレートと庭を散歩すると言ってその場へ残った。やはりマルグレートにぼくを会せることが目的ではなかったのだろう。
案内されて屋敷へ入ると、玄関ホールから見える大きな階段の踊り場に、
「私はね、君とイェレミーアスがどうやって知り合ったのかとても興味があるんだよ」
応接室へ通され、お茶が並ぶなりアイゼンシュタットはそう切り出した。イェレミーアスはぼくを膝へ乗せたまま、穏やかに微笑んでいるがこれぼくにも分かるぞ。作り笑いだ。それも結構、鉄壁のヤツ。
「ジーク様を通じてリヒ様からのご紹介ですよ。ジーク様は、ぼくの幼なじみですので」
嘘は言ってない。アイゼンシュタットはローデリヒを知っているようだし、ローデリヒはアイゼンシュタットを嫌っていないから、嘘は吐けないだろう。だからその部分について、ぼくらが嘘を吐くのは好ましくない。アイゼンシュタットがその穴を突かないとは限らないからだ。
ぼくがそう答えて、頭を傾けると髪の間からほろほろと小花が零れ落ちた。
「よ、妖精さん……本当に髪にお花が咲いてる……すごい……美しい……」
マルテのことは気にしないことにした。気にしたら負けだ。何故かそんな気がした。
「君、今までずっと離宮に居て表には出て来なかっただろう? 妖精さん。君が妖精と呼ばれるにはちゃんと理由がある。以前から君のことは、誰も姿を見たことがない『離宮の妖精』と一部の貴族には呼ばれていたんだ。君は知らないようだけど、フリュクレフの王族といえば精霊から愛されているから銀の髪、淡い瞳の色の美形揃いと有名だ。アンブロスもそれなりだから、フリュクレフ令嬢とアンブロスの子はきっと美しいだろう、とね」
「皆さんお暇なようです。困ったものですね、スヴァンテ様」
「知らぬものへ、人は想像を膨らませる生き物ですから」
精霊から愛されている。イェレミーアスもおそらく、アイゼンシュタットの発言を警戒しているだろう。元々フリュクレフ王家が精霊に愛されているというのなら、精霊学の第一人者であるルクレーシャスさんが知らないはずがない。アイゼンシュタットはその情報を、どこから得たのか。
「そうかな? フリュクレフ王家特有の雪色の肌一つ取っても、青白いだけのクリストフェルやシーヴとは違う。君の肌は雪というより、まるでガーデニアの花弁のように甘く匂い立つ色合いなのは何故だろうね? 君自身が花だと皆、噂していたよ?」
守るように抱き込まれ、肩へ置かれたイェレミーアスの手に力が籠るのが分かった。イェレミーアスがすごく不愉快だと感じていることだけは伝わって来る。イェレミーアスも美形だから、不躾な値踏みをする視線には覚えがあるのかもしれない。確かにこのねっとりと纏わり付く眼差しは不快だ。
「……ご期待に添えず、皆さんがっかりなさったことでしょう」
ルチ様の寵愛のお陰で、ぼくに毒の類いは効かない。だから遠慮なく紅茶へ口を付ける。アイゼンシュタットは僅かに意外、という表情をした。
「いいや。期待以上さ。アンブロスに似た平凡な髪色、瞳も鳶茶でここまで美しければ、きっとフリュクレフ王家の色彩を持って生まれていれば変態どもがこぞって君を手に入れようとしただろうね。例えば――」
つまらなさそうにティーカップを弄び、アイゼンシュタットはあの偏執的な瞳をぼくへ向けた。
「――エステル・フリュクレフに未だ執着している、ミレッカー宮中伯家とか」
「――っ」
イェレミーアスに倣って笑顔の仮面を被っておかなければ、露骨に不快感を表してしまっていただろう。ゆっくり顔を傾けると、アイゼンシュタットの虹彩はぼくの唇の左下へ流れた。
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