第29話 災禍渦巻く宴 ⑴
芽吹き月の十五の日には、ぼくがまだ離宮に居た頃、ジークフリードが誘ってくれた皇族のみで宴を催すことが決まっている。だから今、ぼくたちが諸々の準備をしている貴族たちが呼ばれる宴は十五日の二日前、十三の日に開かれる。そう、ジークフリードのお誕生会だ。ケーキに年齢と同じ数のロウソクを立ててみんなでお祝い、なんてことはしない。そもそもこの世界にはまだ生クリームが存在しないから、ケーキと言ったら素朴なアップルパイとか、パウンドケーキみたいなものばかりだ。嫌いじゃないけど、生クリームが恋しい。
何より宴なんて言われても、庶民のぼくにとって恐怖しかない。豪華な宴だよ! レッツパーチーですよ! 宴って言ったらそう、嫌でもちゃんとしたおべべを着なくてはなりません! すごいやだ! だって白タイツとかアリの世界なんだもん、前世日本人は羞恥心で死ねます! ベッテがにっこり微笑みながらカボチャパンツと白タイツ出した時、泣きそうになったもん。断固拒否です!
ぼくは今まで自分のお金で衣装を買うことが少なかったので、大体の場合は皇后が衣装を作る時、一緒に作ってもらっていた。それを今回は一切自力で、しかも初めての宴席用の衣装を作ることになったんだ。何故かやる気満々のベッテの指示で何度も採寸と試着を繰り返してぼくはもう、くたくただった。本来なら何カ月も前から衣装を作る予約をしておかなければならないのだが、今回はデザイン見本として既にある程度作られたものの中から選ぶことにした。だからこその試着である。
ちなみに今日のテーラーを紹介してくれたのは、マウロさんである。ぼくが初めてこのタウンハウスに来た日、ルチ様に抱き抱えられたぼくが浮いているのを見て倒れてしまった。お付き合いもこれまでかと思ったが、あの後改めて正直に説明した。汗を拭き拭き「なるほど……」と呟いていたが、本当に納得したかは定かではない。帰りに玄関まで見送ったマウロさんは、考えることをやめた人の顔をしていた。申し訳ない限りである。
申し訳ないといえば、今この状態も申し訳ない限りなのではあるが。だからぼくは、素直に謝った。
「……ごめんなさい、イェレ様。巻き込んでしまって……」
「いいんですよ、スヴァンテ様。私も衣装は作らねばならなかったので。私こそ、スヴァンテ様に甘えてばかりでお礼のしようもありません」
「やめてください、イェレ様。ぼくの乳母はどうにも子供にふりふりだの、ひらひらだのを着せたがる癖がありまして。イェレ様がいてくださると、ぼくへの攻撃の手が緩むのでありがたいのです。ほら、ごらんください。ベッテがあのように生き生きしております……」
ほんとに生き生きしているベッテを眺めてぼくは呟いた。
そう、着の身着のままでラウシェンバッハ城から抜け出して来たイェレミーアス家族も、服がないのだ。とはいえ、メイドも侍従も害意や悪意のない者を選別して数人、一緒に連れて来ている。その時に、多少のドレスや衣装は持ち出したようだ。だが、ヨゼフィーネやベアトリクスは女性だ。新しい服が欲しいだろう。
というわけで、ぼくの衣装を見繕うことを言い訳に、彼女たちも別室で必要な衣装を作るようにフレートへ指示してある。だからぼくとイェレミーアスは今、同じように採寸と試着を繰り返しているのである。
「スヴァンテ様。普段着としてこちらのセーラーカラーのお洋服も、購入いたしますね」
「えっ、えっ、あっ」
抗議する間もなくどんどん決められていく。半ズボンの裾に白いリボンが付いた、たっぷりとした白いシフォンのスカーフを胸元で結ぶ紺色のセーラー服。ベッテってば、離宮でも買いたそうにしてたもんな。これ買うまでずっと勧められるやつや。ぼくに選択の権利はない。
でも仕方ない。ぼくは正式な宴にどんな衣装を着て行くのか知らない。だからベッテが喜々として選ぶジュストコールの折り返した袖に付いたレースや、フリフリヒラヒラのシャツだの、クラバットの色がどうだのというのをただ眺めている。キュロットに白タイツは断固拒否した。そこだけはどうしても譲れなかったぼくは交渉の末、ブリーチズに丈の短い靴下を履くことで手を打ってもらった。
何度も言うけど、この世界はゴム製品が存在していない。なので柔らかい革でベルト式のソックスガーターを作ってもらったんだ。丈の短い靴下は、そのソックスガーターで吊っている。これもそのうち、パトリッツィ商会で売り出すつもりだ。
そのソックスガーターを着用して見せたら、ベッテは目を見開き「いかがわ美しいッッッッ!!!!!」と叫んで白タイツを破いてしまった。怖い。
ぼくとしては白タイツを免れたので良かったのだけれど、何か大切なものを失ったような気がするのは何故だろう。
「ソックスガーター以外はこのベッテの選んだものにしていただきます」
「ええ……」
しかめっ面をして見せたけど、ベッテには逆らえない。白タイツはナシになったので良しとしよう。白タイツだけは本気で嫌だ。
「……むぅ」
小さい声で抗議の意思を表した。だがベッテに逆らえるわけがない。テーラーを営んでいる子爵夫人と顔を合わせた時に、プレゼントだと渡されたクマのぬいぐるみと向かい合う。
「ぼくはね、クマくん。ふりふりとか、ひらひらとか、できるだけ避けたいんだよ? だってさ、似合わないととても恥ずかしいじゃないか。だからリボンとか、ふりふりとか、レースは似合う人が着るべきだと思うんだよね?」
「お似合いですよ、スヴァンテ様」
ぼくが不満をクマくんに語っていると、イェレミーアスがそう言って微笑みかけてくれた。優しい。でもそれこそレースだのフリルだのを着こなしてしまいそうな超絶美少年に気遣われても、全然、全く、喜ばしくないんですよ! そう叫べたらどんなに楽だろう。せめて遺憾の意を表すために、ぼくは限界まで頬を膨らませて見せた。
「お世辞なんて要りません、イェレ様」
「いいえ、本当です。……ラウシェンバッハ城の敷地には、小さなデ・ランダル神教の教会があったのですが、そこに描かれた天使様にスヴァンテ様がそっくりなのです。だから初めてお会いした時、ラウシェンバッハの天使様が私をお救いくださったのだと驚きました」
少しはにかんでぼくへ微笑んだイェレミーアスは、嘘を吐いているとは思えない。恩人フィルターがかかって、ぼくが素敵に見えているらしい。いつかそのフィルターが剥がれた時が怖い。その瞬間は割りと早く訪れると思う。
「先日も私を気遣い『楽しんでもいい』とおっしゃってくださいましたね。ジークフリード殿下、リヒ、スヴァンテ様。多くの人間を巻き込んで助けていただいた私たちは、楽しんではいけないのだと心のどこかで思っていました。これ以上、迷惑をかけないように。これ以上、お世話にならないように」
勿忘草色の瞳が潤んでいる。ぼくはそっとイェレミーアスの手へ、自分の手を重ねた。
「いいんですよ。言ったでしょう。勝手に似た境遇だと考えて、見捨ててはおけないと思ったのはぼくのエゴだと。ぼくはイェレ様に恩を売ったのですよ。いつかとんでもなく高値で恩を買い取れと言い出すかもしれません。油断してはいけませんよ?」
とんとん、と柔らかくイェレミーアスの手を叩いてあやす。今にも雫が零れ落ちそうな勿忘草色の虹彩を覗き込む。その甘い虹彩は、縁がピンク色に滲んでいて優しい色だと、ぼくは思った。
「でも、そうですね。イェレ様が負い目を感じずに済むよう、何かぼくのお手伝いをしてもらえないか考えてみます。もし、お願い事が決まったら、お手伝いしていただけますか?」
「ええ、ぜひ。私でできることがあれば、何でもお申し付けください」
うーん、と考えるふりをする。実を言うと、お願い事は決まっている。貴族の令息には、一緒に勉強を受ける侍童が付くことがある。正式に認められていないとはいえ、ぼくは一応、公爵令息だ。だからイェレミーアスの名誉を傷つけることもない、イェレミーアスへも教育を受けられる一石二鳥なお願いを。
「ではイェレ様。ここにいらっしゃる間ぼくの侍童になって、遅れている勉強を教えてくださいませんか。恥ずかしながら、ぼくは離宮で教師からの教育をしっかり受けたことがありません。それから、もしよろしければヨゼフィーネ様からは貴族令息としてのマナーを学びたいのです。もちろん、それぞれに相応の対価をお支払いさせていただきます」
「いけません、スヴァンテ様! それはあなたの頼み事という形の、私たちへの
イェレミーアスの瞳を覗き込み、もう一度ゆっくりとねだる。
「ぼくはね、嫌われ者なんです。イェレ様。悪女レーヴェの息子、呪われた公子。本当のぼくがどうあれ、世間でのぼくの評判はそうなのです。だから、ぼくの教師になってくださる貴族はなかなかいません。同様に、大事な子息をぼくの侍童にしたがる貴族もまた、おりません。だからイェレ様に断られてしまうとぼく、困っちゃうなぁ」
首を傾げて、眉尻を下げる。子供のふりを全力でぶちかますんだ、ぼく。どうか絆されて首を縦に振ってくれ。そうじゃなきゃ、この家族にお金を渡す名目がなくなってしまう。せっかく助けたのに、金策のために変な連中と付き合って没落されても困るんだよぉ!
ダメ押し、とばかりにクマのぬいぐるみで少しだけ顔を隠して上目遣いでイェレミーアスを見つめ、綿の詰まった手を取って振る。
「おねがい、イェレさま?」
「――っ、ズルい、ですよ……、スヴァンテ様……っ」
わぁい、効いた! よかったぁ、これ以上の策はなかったんだ。あとはどうやってイェレミーアスに「うん」って言ってもらおうかと悩んでいたんだよ。
しかし頬を染めて瞳を潤ませたイェレミーアスの色気すごい。前世も今世も男のぼくでも、何やらいけない気持ちになっちゃう怖い。これが美少年の力。美少年すごい。美は全ての問題を
「ぼくも区切りを、付けなくちゃ」
「?」
首を傾げたイェレミーアスへ、唇だけで笑って見せる。
今回の宴には両親がやって来る。そこで話を付けてしまいたい。どちらの家とも縁を切る、と。
ぼくはもう、色んな人に助けられながらもスヴァンテ・フリュクレフとしての人生を一人で歩いていくと決めたのだから。
「ぼく、今からすごく勝手なことを言うので、遠慮なく怒ってくださっていいんですけど」
採寸も試着も終わり、服選びに夢中になっているベッテと子爵婦人を眺めながら、ぼくらは並んでオットマンスツールへ座っている。
ほら、ぼく小さいから靴を履く時に座るんだよ。背凭れも肘掛けもない、四角いソファみたいなものだ。ぼくに合わせてあるから、イェレミーアスには窮屈だろうに、きちんと揃えられた足へ目を落とす。
「ぼくね、離宮にいる時、毎日がとても苦しくて、本当は泣きたいのに我慢して、でも我慢しているから苦しくて、ぼくが苦しい理由を考えると悲しくて不安で仕方なかったんですけど」
「……」
「イェレ様も、そうだったらやだなぁって。そんなのは、ぼくの勝手な想像でしかないから、ちゃんと違うって怒ってくださっていいんですけど」
ぽろん、と勿忘草色の瞳から小さな雫が溢れる。ぼくらはどちらからともなく、手を繋いだ。
「ぼくねぇ、イェレ様。ぼくの親だと言う人たちに、一度も会ったことがないんです。多分、今度の宴で初めて顔を見ることになるんですけど。顔も見たことのない人のことを憎んだり恨んだりするのって、なかなか難しくて。だからぼくは、ただただいつでも不安で」
視界が揺れている。無意識で足を揺らしていたようだ。ぼくは初めて、子供らしさを装うためではなく、自発的に足を揺らしたのだ。そのことにちょっと驚く。
「でもね、ぼくにはルクレーシャスさんが居てくれて、我慢しなくていいんだよって言われて初めてわんわん泣いちゃって。そしたらちょっと気持ちが楽になったんです。ほんとは悲しくて、不安で泣きたかったんだなぁ、って」
ぼくには二十五歳まで生きていた、前世の記憶があるから五歳児ではない。けれど不安でいつだって泣くのを堪えていたのだとルクレーシャスさんに気づかされた。ならば本当にただの十一歳の子供であるイェレミーアスは今、どれほどの不安と悲しみを抱えているだろうか。
「だからぼくがまた泣いちゃいたくなった時、イェレ様にぎゅってしてもらっても、いいですか」
もし君が泣きたくなった時、ぼくが傍にいるから。
そう言って顔を上げる前に、イェレミーアスに抱きしめられた。
穏やかで優しい子だ。聡くて賢い子だ。だからうんと我慢していたに違いない。我慢しなくていいって、言ったのに。
それでもイェレミーアスは、声を押し殺して静かにぼくの肩を濡らした。
ほんの少しでもいい。どうしたら、この子の気持ちは楽になるだろうか。そんなことをぼくは、ずっと考えてしまうのだ。それすらきっと、とても傲慢なことだと知りつつも、たとえ僅かでもこの子が心健やかであれと願ってしまうのだ。
イェレさま、いいこ。
自然にぼくの手は、イェレミーアスの背中を撫でていた。押し当てられた額が、熱を持っているのが分かる。嗚咽混じりの吐息も熱い。
ベッテが気づいてこちらを見た。小さく首を横へ振る。イェレミーアスの体はまだ細く、保護が必要な子供であると改めて感じる。嗚咽が少し途切れ途切れになった頃、ぼくは最大限の子供らしさを絞り出してベッテを呼ぶ。
「ぼく、喉が乾きました! お水ください、ベッテ」
「……かしこまりました」
それだけで察してくれたベッテが何事かを言いつけると、メイドがワゴンにピッチャーやグラスを載せてやって来た。ベッテはぼくへ濡らしたタオルを差し出す。そっとイェレミーアスの頬へ触れると、勿忘草色の虹彩はまだ揺れている。
「きらびやかなお洋服を眺めたら、目が疲れてしまいました。イェレ様もどうですか? 冷たいタオルを目の上へ置くと、疲れが取れますよ」
「ふふ……。本当にあなたは……ありがとう」
ぼくはただ、きれいなお目々が腫れてしまうのはもったいないなぁと思っただけなんだ。大人の都合や勝手で振り回される子も、悲しい思いをする子も、減るといい。きっとぼくには、ぼくが見渡せるほんの少しの人しか助けられないから、いなくなればいいなんて言えやしないけど。
せめて目の前で泣いているイェレミーアスにくらいは、手を差し伸べられる人間でいたい。大人の欲望のために搾取される子供を、見たくないんだ。それはとても醜いことのはずなのに、前世の世界でもこの世界でもありふれた風景だけれども。ぼくはそれを、否定し続けていたいんだ。
だからこそぼくは向き合わなくちゃいけない。親という人たちに見捨てられてしまった、スヴァンテ・フリュクレフの代わりに。そしてぼくがここで、スヴァンテ・フリュクレフとして生きて行くために。なにより君の敵を討つために。まとめてダメ出ししてやるから、見ててね! 本物のスヴァンテ・フリュクレフ。そしたら君は、ほんの少しでも楽になれるだろうか。ぼくが君にできることって、それくらいしかないんだ。
ぼくとイェレミーアスは、目を濡れタオルで冷やしながら、顔を上へ向け壁へ凭れた。手は繋いだままだ。ぼくはイェレミーアスの手を、ぎゅっと握りしめた。
「イェレ様。ぼくはぼくらのことを嘲笑おうと物見高く覗き込む奴らへ、最高の笑顔を向けるつもりですよ。絶対に幸せになってみせるし、今だって幸せだって見せつけてやるんです。絶対に不幸になんて、なってやるもんですか」
ですからイェレ様。幸せでいてください。幸せでいて、ほしいんです。そのためのお手伝いをさせてください。これはぼくの、我儘なお願いです。
そう、呟く。イェレミーアスは微かに頷いて、繋いだ手を揺らした。
「……ええ、スヴァンテ様。優雅に美しく、微笑んでやりましょう」
お傍を、離れません。
密かに囁いたイェレミーアスの手に、力が込められるのが分かった。
ぼくらには味方が少ない。手札も少ない。権力だって持ち合わせていないけれど。
少ない味方は、頼もしくて優しい。だから進もう。顔を上げて、堂々と。
さぁ、思惑入り乱れる宴が始まる。
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