第25話 円滑洒脱、で行きたいよね……? ⑵
日本で七月に当たる、芽吹き月の初め。
離宮の数少ないぼくの荷物はすでに、マウロさんを通じてタウンハウスへ運び出した。買い替えられるものは全て置いて行く。朝食のために食堂へ向かう。部屋を出るために開けた扉を閉じる前に、鍵星の間を振り返った。
持ち出す身の回りのものは少なかったから、意外と部屋の様子は普段通りだ。五年も暮らしたけれど、ここは常にぼくにとって仮の住まいであった。
「これからは、ぼくらのおうちにみんなで住むんですよ」
ぼくが呟くと、妖精たちはくるくると周囲を飛んで手を叩く。
いよいよ今日は、作戦決行当日である。
今日もルクレーシャスさんと、ゆっくりいつも通りに朝食を取る。まだ低い位置にある太陽を眺め、食後のお茶を楽しむ。
「スヴァンテ様。では、行ってまいります」
「はい。気を付けてくださいね」
フレートとダニーが廊下に出てからしばらくすると、庭を皇宮側へ歩いて行く二人が見えた。重ねて言うけどコモンルームのテラスは出入り口じゃないんだよ、ちゃんと玄関はあるんだよ。ぼくが面倒だから使ってないだけで。
マウロさんがパトリッツィ商会の馬車を準備してくれている。その馬車へ乗り込むため、フレートとダニーは政宮の庭へ先んじて待機している予定だ。政宮の庭はそのまま、
しばらくして、見慣れた金髪が噴水の向こうに見えた。ジークフリードがゆっくりとテラスからコモンルームへ入って来る。護衛騎士へ片手で待機するように指示し、窓を閉めながらぼくを見た瞳には緊張と罪悪感のようなものが浮かんでいた。
「すまんな、スヴェン」
「……? もしかして、陛下にバレてしまいましたか?」
それも想定内だ。ジークフリードの護衛騎士から、ぼくらが離宮で何やら聞かれたくない話をしていたことは伝わっているだろう。皇王ならいくつかの予想を立てているに違いない。そういう意味でも、彼はいい皇である。いい皇が、人格者である必要はない。
「いいや。……オレたちが何か企んでいるとは気づいていらっしゃるが、今はまだリヒとオレのいたずらにお前が巻き込まれている程度にしか考えておられぬようだ。そうではなくて……」
体側で拳を握り、顔を背けてしまう。様子が変だ。歩み寄って手を伸ばす。顔を上げたジークフリードは苦しそうに吐き出した。
「オレの父が、……すまない」
俯いて拳を握ったジークフリードを、ソファへ座らせる。それからその傍らへしゃがみ込んだ。
「あのね、ジーク様」
膝の上で硬く握り締められた、ジークフリードの拳へ手を添える。
「ぼくは一度も皇王陛下のことを、憎んだことも恨んだこともありませんよ」
「……?」
縋るような瞳を真っ直ぐ見つめ返す。そうだよね。どんなに冷酷だと他人から非難されようとも、ジークフリードにとって父親だということに違いはない。普段の様子から察するに、ジークフリードは皇としての父を尊敬しているのだろうと考えられる。尊敬している父親を悪く言われるのは、ましてやその意志に反することは苦しいに違いない。
イェレミーアスの件で、ジークフリードはジークフリードなりに彼を助けるには何をすればいいのかを考えたのだろう。その過程でぼくが置かれた状況を理解したのではないだろうか。それでもジークフリードは、ぼくやイェレミーアスの味方になってくれたのだ。だから、その謝罪はしなくてもいい謝罪なのだ。それでも、謝罪せずにいられないのだろう。
「
「……っ」
じわり、と
「ただそれは、己の判断に責任を負う生き方でもあると、ぼくは思います。皇王陛下は皇王陛下の思う『最善』を選んでいるだけですから。それはだからといって自分の身が『皇王陛下の正義』によって害された時に、抵抗しないで従うこととはまた別の話です。時に互いの正義を守るため潰し合い、戦うこともあるでしょう。逆に己の正義を貫いたからこそ、誰かを意図せず害する結果になることも有り得ましょう。だからぼくは、皇王陛下を憎いとも、冷酷とも思いません。ジーク様はジーク様の思う正義を全うし、後悔の少ない人生を歩まれますよう願っております。そのためのお手伝いなら、ぼくはいくらでもいたしますよ。ね?」
「……」
「己のためだけの正義を貫くことも、できるだけたくさんの人の正義を守るための最善策を選択することも、ぼくらはぼくらの意志で選べるのだから」
無言で俯くジークフリードをあやすように手を揺らして、顔を傾ける。ジークフリードは何度も頷き、しばらくして唇の端を無理矢理引き上げて見せた。とんとん、とジークフリードの拳を軽く叩いて、元気よく立ち上がる。
「というわけで、ぼくはぼくの正義を貫くために徹底的に皇王陛下と交戦しますよ!」
胸の前で手を打つと、ジークフリードはぼくの顔を眺め、目を丸くしてから大声で笑った。それからテラスへ続く窓を開き、護衛騎士へ命じる。
「ラルクたち親子を連れて、政宮を見学させてやりたい。準備せよ」
「は」
短く答えて護衛騎士たちが庭の方を向き並ぶ。顔なじみの護衛騎士たちは当然、ジークフリードがラルクと仲良くしていることを知っている。そもそもここ半年ほどの間が大人しかったからと言っても、この幼い主が暴君であった頃を知っている者たちである。だからこの命令にも疑問を持たなかったようだ。
「ラルク! ラルクは居るか!」
「なんでしょう、殿下」
いつも通り
「これから政宮へ見学に来ないか。見たいと言っていただろう」
ちらり、とぼくへ視線を送ったラルクが、もじもじと後ろへ手をやり体を揺らす。
「いいのか、スヴェン」
「いいよ。ジーク様が連れて行ってくださると言うのだから、ありがたく見学させてもらおうか」
「あの、殿下。じゃあ父ちゃんと母ちゃんにも見せてあげてもいいですか?」
ラルクはこういう、子供らしいところがあるのは以前からだ。護衛騎士も少し笑ってラルクへ視線を送っている。ジークフリードは鷹揚に頷いた。
「いいとも。スヴェンも一緒なのだから、一緒で構わんだろう」
「ありがとう存じます、ジーク様」
ぼくが礼を言う。ひとしきり小芝居が終わるとコモンルームを振り返り、ジークフリードがニヤリと唇を歪めた。コモンルームの入口の扉を開いて、待機していたフローエ卿へ声をかけるのが聞こえて来る。
「カルス、ラルク一家を政宮見学に連れて行く。離宮が空になってしまうから、警備のためお前はここで待機だ」
「……かしこまりました」
フローエ卿は、我儘殿下が戻って来たことに多少、面喰らった様子である。しかしナイスだジークフリード。これで皇王に告げ口できる人間がいなくなった。例えぼくらの企みに気づいたとしても、そこから慌てて皇王へ知らせたとしてその間に皇宮を立ち去れるだけの時間は稼げる。
いつも通りにぼくの焼いたスコーンを頬袋へ詰め込んでいたルクレーシャスさんが、やおらに立ち上がった。その手には魔法の杖が握り締められている。
「あの子は本当に変わったねぇ」
「本当ですね。眩しいくらいです」
顔を合わせ、テラスへ向かう。魔法の杖を持つルクレーシャスさんは堂々としている。ああ、この人は本当に偉大なる魔法使いなのだと少し感動した。
「ベステル・ヘクセ殿、よろしく頼む」
「まぁ、わたくしもここらでかわいい弟子に良い所を見せておきたいからね」
「そうですよ。このままじゃルカ様、ただのいつもお菓子を口いっぱいに含んでる人ですからね!」
ぼくがそう口にすると、コモンルームの方からふわりと藍色のベールが降りて来た。背中から抱きしめられる。いつもなら抱き上げられるところだが、今日はちゃんと我慢してくれたようだ。
『……ヴァン』
耳元で囁かれて身震いしてしまった。だっていいお声なんだもん。
「ルチ様。ルカ様と仲良くしてくださいね」
『……分かった』
しかしルチ様は、そのままぼくへ頬ずりして囁く。
『ようやく、会える』
「……? 会えるって、誰にですか?」
答えずルチ様はにっこりと微笑んで立ち上がった。ジークフリードの護衛騎士たちがイタイ子を見る目でぼくを見ている。いいんです。もう慣れっ子なので。ジークフリードだけが、きょろきょろとぼくが視線を送っている方を見ていた。
「精霊が、来ているのか」
「ええ。今のところ順調ですよ」
悪意を見分けるために、ジークフリードにはルクレーシャスさんの魔法で精霊を呼び出していると説明してある。さすがはベステル・ヘクセ様、ということにしておいた方がぼくにとって都合がいいからだ。大人数でぞろぞろと連れ立って離宮の庭を抜け、皇宮の庭へ入る。そこにはローデリヒが待っていた。
「よ、スヴェン。ジーク」
「リヒ様、こちらでお待ちいただいていたのですね」
「リヒも居れば、父上が邪魔しに来た時の見張りにもなるし足止めにもなるかと思ってな」
「……すごい、ジーク様は策士ですね」
「お前に言われるとこそばゆいな、スヴェン」
離宮と皇宮の境界を守る騎士が、ちらちらとこちらへ視線を送っている。すごい目立つよね、美人さん揃いだもん。その上、見えないけど明星の精霊まで加わっているんだよ。わぁ、豪華。とか言っている場合ではない。
ルクレーシャスさんの魔法で、ジークフリードの護衛騎士たちにはぼくらの存在が徐々に認識できないようになっているらしい。ぼくらの会話も聞こえないようにしてあるそうだ。振り返ると、護衛騎士たちは何だかぼんやりとした表情で足取りもふわふわしていて危なっかしい。勝手なイメージだけど、夢遊病の人ってこんな感じかもしれない。
「ルカ様、ルチ様。ラウシェンバッハ辺境伯のご遺体をしっかり確認して来てくださいね。肌に鬱血や斑点などないか、眼球の状態、歯や歯茎の状態、手足の爪から頭髪の状態まで詳しくですよ」
貴族が亡くなった場合、よほどご遺体の損傷が激しい場合以外は遠方からの弔問客のために遺体へ保存魔法を施す。特に辺境伯はその名の通り辺境に城を構えているわけだから、弔問客は遠方から来る。だから当然、ラウシェンバッハ伯爵の遺体も保存魔法が施されているはずである。つまり、亡くなった時の状況が分かる。これは重要なことだ。
「そんなもん、何で必要なんだ? スヴェン」
「暗殺の可能性があるから、本当にザネルラ熱で亡くなったのかを確認するためですよ。リヒ様」
「アイスラーにザネルラ熱の患者に見られる特徴を聞いていたのはそのためか、スヴェン」
「ええ。杞憂ならそれでいいですし、杞憂ではないのならば手を打たねばなりません。ラウシェンバッハ辺境伯を害した人間がいるのなら、イェレミーアス様をそのままにしておくわけがありませんから」
「……お前が味方でよかったよ、スヴェン」
「あはは。今は味方、ですよリヒ様」
口元を手で覆って笑うと、ローデリヒは大げさに驚いて見せる。ローデリヒの向こうでジークフリードは笑うのを堪えた表情でぼくとローデリヒを交互に眺めている。
「ええっ?! そんな、オレたちもう友達だろ? そうだって言ってくれよ、スヴェン」
「ははは、からかう相手ができてよかったな、スヴェン」
「本当にリヒ様は素直で、からかいがいがありますね」
正直、二人には今回の件でこちらの手の内を明かし過ぎている。敵対するより仲間に引き入れてしまった方が楽だ。そう。ぼくはあくまで表向きは皇王の意に沿った風を装うが、皇王はそうは取らないだろう。皇王に目を付けられてしまった仲間、である。今後警戒されるに決まっているし、心証は悪くなるだろう。
反面、ジークフリードにとっては父に背いてまでイェレミーアスへ手を差し伸べたことになるわけで、ローデリヒも彼には大きな恩ができたことになる。だからジークフリードは「父の忠臣」ではない完全なる「自分の味方」を二人も、この年で得たことになるのだ。この意味は大きいだろう。
「ジーク様。あまり気に病むことはありません。むしろ皇王はジーク様を褒めるべきかと。八歳を目前に、将来有望な騎士を二人も忠臣として得ることになるのです。責められたらそう、お答えください」
ぽかん、と口と目を開き、ジークフリードはぼくを見た。それから額に手を当て、腹を抱えて笑い出す。
「ははっ! はははは! おまけに父上に苦い顔をさせるほどの皇国史上最高の参謀を得たのだと、誇ってやらねばなるまいよ、スヴェン」
「うふふ、陛下はふてくされるでしょうねぇ」
「ふふ、母上に慰めてもらうだろうからいいさ」
皇宮の庭と、政宮の庭の境界はもうすぐそこだ。そして、ここが一番警備の厳しい場所でもある。ところが皇宮と政宮の間の門扉を警備している騎士たちは、あっさりとぼくらを通してしまった。ジークフリードと顔を見合わせる。ルチ様がにっこり微笑み、人差し指を唇へ当てた。
『ヴァンたち、存在、希薄にした』
「……つまり門番さんには、ジーク様しか見えてない感じですか?」
『そう。認識、できない。わたしたちの、ように』
妖精みたいにってこと? すごい、ルチ様そんなこともできるんだ。
「どうやらわたくしの魔法より精度がいいようだ」
ルチ様の魔法の痕跡を読み解いているのか、ルクレーシャスさんは空中を睨んでいる。魔法陣を見ているのだろう。
「わたくしだって、すごいんだからネっ!」
「分かっていますよ、ルカ様は魔力を温存しておかなければなりませんから。向こうに着いたらルカ様のお菓子を用意しておきますね」
「パイがいい! わたくしご褒美はパイがいいよ、スヴァンくん!」
堀に掛けられた橋を渡り、政宮側の門番へジークフリードの護衛騎士が声をかける。ここもあっさりと通してくれた。政宮の庭を進み、東の端にある門を目指す。その門の先は貴族の居住区だ。生垣を過ぎ、薔薇のアーチや噴水を抜け、外門へ続く広場へ出る。フレートがこちらに気づき、頭を下げた。ダニーはすでに、荷台の中で手を振っている。
「ジーク様、リヒ様。ひとまずはここでお別れです。ジーク様は後日正式にご招待しますから、楽しみにしていてくださいね。お誕生日の贈り物を用意して待っております」
「うむ。オレはできるだけ父上を足止めしておく。頼んだぞ、スヴェン」
「かしこまりました」
「オレも、自分ちの馬車に乗って出発する。後で会おうぜ、スヴェン」
「はい。リヒ様もお気を付けて」
「うん」
ローデリヒが手を差し出した。その手を掴んで軽く上下する。駆け出すローデリヒを見送ってジークフリードへ向き直ると、軽く首を横へ振られた。
「またすぐ会いに行く。永遠の別れではあるまいし」
「……そうですね。ではルカ様、行きましょう」
「ジークくん、スヴァンくんたちの馬車が見えなくなってから手を一つ、叩きなさい。そうすれば彼らは元に戻るから」
ちら、と見やるとルチ様がこくん、と頷いていた。術はルチ様がかけたものだけど、ルクレーシャスさんがかけた魔法だということになっているからね。
「ベステル・ヘクセ殿もお気を付けて」
ジークフリードの護衛騎士たちを目で指し示して、ルクレーシャスさんは杖を掲げた。ルチ様が手を伸ばしてぼくの頬を撫でた。
「いってらっしゃい、ルチ様、ルカ様」
「うん。きっと君より先にタウンハウスへ着いてしまうよ、スヴァンくん」
「はい」
フレートたちは荷馬車の荷台へ、ぼくはマウロさんが乗って来たのであろう、馬車のキャビンへと乗り込む。マウロさんがキャビンの窓を開けてくれた。
「ジーク様、それではまた後日改めて」
「おう。すぐに行く。待っていろ。はは。……困ったな。どうしよう、スヴェン。オレはどうやら、少し寂しいらしい」
「……、ぼくも、少し、寂しいです。ジーク様」
本当に、去年の今頃は君のことをこんな風に思うだなんて考えもしなかった。
手を上げたジークフリードを、皇宮へ置いて行くことへ微かに浮かんだ寂しさに胸を押さえた。作り笑いは得意のはずなのに、ちっとも笑えずに情けなく下がった眉のまま、手を振る。馬車が動き出した。ぼくは見たことのない政宮の広場から先の景色を眺めた。ぼくは皇宮へ来た時のことを覚えていない。
しばらくすると、外門が見えて来た。政宮を訪れる貴族は多い。順番を待つ間、ぼくは正直とても緊張した。誰かが追いかけて来るんじゃないか、皇王が来るんじゃないかと気が気ではない。分厚い外壁を通り抜けるため、門をくぐってすぐの中は薄暗い。外門を通過し、橋を渡る。
視界が開けた。跳ね橋を渡って真っ直ぐ伸びているのが大通りで、それから左右に開けた石畳の道。その先まで広がる景色。そう、ぼくはこの世界に生まれて初めて、箱庭ではない、広い景色を目にしたのであった。
その気持ちを、なんと言い表せばいいのだろう。ああ。世界はこんなにも広かったんだ。ぼくの知らないところで、広がっていたんだ。これからは本当の意味で、自分の足でどこへでも行けるんだ。
マウロさんは優しい笑みで、ぼくへハンカチを差し出した。どうして泣いているのかと尋ねられてもきっと答えられない。どうしてだか、胸がいっぱいで涙が流れて仕方ないんだ。
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