第18話 ひととせ明けの咲く花月 ⑴

 離宮の庭も皇宮の庭も、春の匂いに満ちている。蜜を含みながらもまだ固く閉じた蕾を、草木が抱いている香りだ。デ・ランダ皇国は冬が長いから、五月の初旬はまだ肌寒い日がある。今日は比較的暖かい方だ。

 柔らかな芝を踏みしめ、ぼくはルクレーシャスさんを急かした。

「ルカ様早く、早く! アルベルナの石板ですよ?! ワクワクしますね!」

「スヴァンくん、今飛ばすと帰りはずっとわたくしに抱っこされることになると思うよ?」

「……」

 すぅっ。流れるような動きで両手を上げたぼくの両脇へ手を入れ、ルクレーシャスさんはぼくを抱え上げた。

「素直に抱っこされるようになったのは、褒めてあげましょう」

「はい」

 離宮から皇宮への道程は、あまり警備が厳しくない。離宮は上皇夫妻のために建てられたのだから、当然といえば当然だ。皇宮はランゲルシュタット湾へとUの字に突き出した崖の上に建っている。崖下から皇宮へ上がる道はない。崖が反り返っているから、実質そこからの侵入が不可能なのだ。崖の下、海側は主に大量の物資の受け取り口だ。だから食料とか、庭に植え替える木とか、補修のためのレンガとか、大量の木材や本などを皇宮の魔法使いが魔法で崖の上まで引き上げる。

 崖全体に魔法結界が張られており、項に通行印のある者しか出入りできない。しかも生きていない者の通行印では結界が開かないんだって。つまり、切り取って入ろうとする馬鹿者対策もバッチリって訳。怖い。さらに崖側からは生き物は受け取れないのだとか。

 前庭の先には貴族の住む「エーデルツォーネ」と呼ばれる地域と、さらにその先には平民の暮らす城下町があって、さらにその向こうには農地があるらしい。皇宮の庭は高さ四メートルもあろうかという塀で覆われており、そこにも侵入者避けの魔法がかけられているそうだ。

 一度だけ、塀を越えようとした侵入者がミンチになっているから今日は庭へ出ない方がいい、と珍しくヴィノさんが室内へ入って来たことがあった。皇族の暮らす場所だから警備が厳重なのは当然だけど、怖くて泣きそうだった。そこまでする?! ってなった。殺意が強すぎるんだよこの宮殿。もちろん、皇宮の中も外も塀の周囲を衛兵が常に三人一組、常時六チームで巡回している。離宮と皇宮の間は生け垣だけど、皇宮と政宮の間には水の入った深い堀があり、橋がかかっている。庭側の出入り口も同様で、政宮側にも皇宮側にも鉄の門扉があり、橋で繋がっているのだ。おまけに政宮と皇宮の間は生け垣ではなく高い大理石の壁で仕切られている。下の方には見るからに痛そうなトゲトゲ、上の方はお椀を伏せたのかな? ってくらいの傾斜角度の返しが付いてた。初めて図書館へ行った帰り、政宮側から皇宮側を見てギョッとしたもの。多分、ここにも魔法の結界は施されているんだろうけど。

「こんなに怯えるくらいなら、他国への侵攻をさっさと止めたらよかったのに」

「止めたってそんなに都合よく侵攻された側が『はいそうですか』と恨むのを止めるわけがないんだよ、スヴァンくん」

「……だから初めから、誰かの恨みを買ってまで自分の利益のみを追及しちゃいけないんです。コストもリスクも高い」

 ぼくの言葉に、ルクレーシャスさんは少し苦い表情をして空へ視線を向けた。

「みんながみんな、君みたいに初めから過ちに気付くわけではないんだよ。スヴァンくん……。愚かな選択でも、それしか選べず踊るしかない状況もあるのさ」

 ルクレーシャスさんは金色の虹彩を遠くへ向けた。ぼくも俯く。

 皇国は神の子孫である皇王が全世界を統べるべき、と代々周囲の国々へ侵攻して国土を広げて来た国である。今の皇王、鶺鴒皇ヴェンデルヴェルトの代になってようやく、他国への侵攻を止めたのだ。皇宮の警備の強固さは、歴代皇王の罪の証左でもある。

 庭は綺麗で豪華でも、至る所に歴代皇王の怯える姿が見えるようだ。人の愚かさばかりが目に付いてしまう。ふう、と一つため息を吐く。ルクレーシャスさんは微かに笑った。

 というわけで、バルタザールが来ないことが分かっていればぼくにとっても、皇宮ほど安全な場所ないのだ。ジークフリード自らがぼくを侍従にと皇王へ直談判したこともあり、不敬を働かれることもないだろう。ルクレーシャスさんも一緒だしね。

「さぁ、今日はまず天文学の先生におやつを気に入っていただかなくては」

「わたくしの分はちゃんと取っておいてあるんでしょうね?」

「もちろん。ちゃんとベッテに『これはルカ様の分』って伝えてありますよ」

 そう。ジークフリードの教師たちは皆、侯爵伯爵家の次男や三男ばかり。皇太子殿下の教師なので、身分も高い。身分の高い貴族にぼくの作るお菓子は珍しいし、美味しいと噂していただくのだ。せっかくの機会、地道に味方を増やす作戦なのである。なので心証をよくするため、少し早めにジークフリードに指定された部屋へ到着した。フローエ卿は廊下の外で待つ体制だ。多分、こういう合間に皇王へ報告に行ってるんだと思うから居なくなってても気にしない。ルクレーシャスさんが扉をノックすると、オーベルマイヤーさんが中から顔を出す。

「おや、スヴァンテ様。お早いですね」

「ええ。楽しみで待ちきれなくて。初めまして、スヴァンテ・フリュクレフと申します」

 ルカ様の腕から下りて、胸へ手を当てて左足を下げる。年の頃は二十歳くらいだろうか。アッシュブロンドの髪、神経質そうなスモークブルーの瞳、モノクルの青年へ頭を下げた。青年はまるで不躾にご令嬢を眺めて叱られたような表情で頬を染め、ぼくの唇の左下を見た後、視線を泳がせた。

「……っ、エーベルハルト・ルーデンと申します。お遊びではないのです。殿下のお邪魔にならぬよう、しっかり学ばれますよう」

「はい。よろしくお願いします、エーベルハルト卿」

 久々真っ向からの悪意を向けられた。エーベルハルト・ルーデンといえば、皇族派派閥である伯爵家の三男だったはずだ。エーベルハルトが胡散臭そうにルクレーシャスさんへ視線を送る。

「で? そちらは? 付き人は別室で控えていてもらおうか」

「エーベルハルト卿、そちらはスヴァンテ様の侍従ではなく、ベステル・ヘクセ様です……っ!」

 オーベルマイヤーさんが慌てて割って入ったけれど、もう遅い。ルクレーシャスさんはぼくらが座るように置かれた机の向かいへ魔法でソファを置いて、足を組んで行儀悪く背もたれへ凭れて顎を上げた。完全に不機嫌を露わにして、エーベルハルトを見下ろす。

「そこまで言うのだ、わたくしの弟子だけではなく、わたくしも楽しませてくれるような素晴らしい授業をするのだろうな?」

 もうやだこの師匠。喧嘩っ早い。早すぎる。お菓子のことだけ考えてたい。泣きそう。

「……っ」

 顔を真っ赤にして拳を握ったエーベルハルトは、食いしばった歯の間からどうにか挨拶を絞り出した。

「……偉大なる魔法使いにお会いできて光栄です……」

 絶対に光栄だなんて思っていないエーベルハルトの挨拶を無視して、ルクレーシャスさんが指で空中を掻き回す。籐の籠がどこからともなく現れた。中身はおやつである。ルクレーシャスさんはぼくの作ったスイートポテトを頬張った。生クリームを入れればもっと美味しく作れるんだろうけど、生クリームを作るまでに至っていないのだ。実はスイートポテトは生クリームがなくても、バターと牛乳で十分作れる。素朴な味わいで素材が生きるのだ。スイートポテトと言ったが、本当にサツマイモなのかどうかは分からない。何か変わった食材や香辛料があれば分けてくれとお願いしてあるので、「今年のズルスカルトーフゥは豊作だそうですよ」とマウロが持って来てくれたのだ。ズルスなんとかって何だろう、と見てみたらサツマイモだった。この世界にもサツマイモはあるらしい。似たような植物、なのかもしれない。だってこの世界は多分、にゃろう小説とかカケヨメみたいな日本人が書いた創作物だろうから、きっと何でもアリだ。ズルスカルトーフゥは大陸南端の作物らしいが、皇国は大陸のほぼ中央に位置しているので、南の地域で栽培しているそうだ。しかしやはり、生クリームがほしい。生クリームがあれば作れる菓子のレシピが増える。甘いものはいい。心が潤う。ぼくはギスギスした空気に耐えられず、お菓子のことを考えることにした。

「すみません、ベステル・ヘクセ様。スヴァンテ様」

「オーベルマイヤーさんが悪いわけではありませんよ」

 そう。悪いのはエーベルハルトの頭だ。にっこり笑って机の横へ立つ。ジークフリードが来るまで、ここで待つことにしよう。

「ルカ様、美味しいですか?」

「うん。やっぱりスヴァンくんはお菓子作りの天才だね」

「……はっ。貴族で男のくせに菓子作りなど……!」

 うわぁ、もうやめて。君は知らないだろうけど、その偉大なる魔法使いすんごく気が短いんだよ。ルクレーシャスさんが爆発するのを見たくなくて、目を閉じたぼくの鼓膜をオーベルマイヤーさんの静かな声が打つ。

「エーベルハルト。出て行きたまえ」

「……は?」

「聞こえなかったか。殿下がいらして直々に言い渡される前に、今すぐここから出て行きたまえ」

「オーベルマイヤー卿、一体何のおつもりか!」

 覚えているかな? オーベルマイヤーさんは、子爵である。つまり、オーベルマイヤーさんは役職では上でも、貴族としてはエーベルハルトより位が下なのだ。そりゃ面白くないだろう。だからこの態度なわけである。

「出て行きたまえ」

 しかしオーベルマイヤーさんは譲らなかった。いつもの穏やかさや、気の弱そうなおどおどした態度はない。その時ちょうど、ノックもなしに扉が開いた。

「お、スヴェン。もう来ていたのか。早いな」

「このような機会を与えてくださり恐悦至極でございます、ジーク様」

 ジークフリードは室内を見渡してすぐ、オーベルマイヤーさんへ視線を向ける。

「うむ。……フレッド。何があった」

 ジークフリードがオーベルマイヤーさんへ短く尋ねた。オーベルマイヤーさんは胸に手を当て頭を下げる。

「エーベルハルトがスヴァンテ様とベステル・ヘクセ様へ無礼を働いたのでたった今、解雇通告をしたところでございます」

「うむ。……悪いな、スヴェン。天文学を楽しみにしておったのだろう? さっき廊下でヴェッセルスに会った。今日のところは一緒に帝王学を聞いて行くがいい」

 ジークフリードはにこにこと笑顔のまま、脇へ歩み寄り、ぼくの肩を叩いた。ぼくの隣の、空いた机を叩いてエーベルハルトが叫ぶ。

「わたくしは無礼など働いておりません! 殿下!」

「先程から黙って聞いていれば好き勝手にほざきおって小僧、わたくしと弟子を侮辱する、その覚悟はあるか?」

「ではスヴェンやベステル・ヘクセ殿が貴様に無礼を働いたとでも言うのか、エーベルハルト」

 ルクレーシャスさんとジークフリードはほぼ同時に口を開いた。ルクレーシャスさんはいつの間にかぼくの横で、杖をエーベルハルトへ向けている。

「わたくしはなにも……っ!」

「ほう? 何もしていない、と? ならなぜベステル・ヘクセ殿は貴様に怒っている?」

 エーベルハルトをジークフリードはじろりと睨んだ。それからオーベルマイヤーさんへ、軽く手を振る。

「フレッド、何をしておる。衛兵を呼べ。そいつを早くつまみ出せ」

 オーベルマイヤーさんが扉の外へ声をかけると、衛兵が室内へなだれ込んで来た。取り押さえられたエーベルハルトは呆然としている。

「スヴァンくん、人をブタにする魔法を見たくないかい?」

「……ダメですよ、ルカ様。やめてください」

 こそこそとぼくらが囁き合う中、ジークフリードは顔色一つ変えず、呆然としているエーベルハルトへ口を寄せた。

「エーベルハルト」

「……?」

「オレならだませるとでも思っているのか。立場の難しいスヴェンならしゃく位を盾に言いくるめられるとでも? 貴様のようなごうまんで浅知恵の人間に習いたいことなど何もない。二度と皇宮への立ち入りまかりならぬ」

「そ、そのようなこと決して……!」

 何か口にしようとしたエーベルハルトを一瞥した、ジークフリードの口元が笑みを刻んでいるのが見えた。

「これ以上ここでわめき立てられてはふゆかいだ。つまみ出せ」

 ジークフリードが護衛の騎士たちへ命じる。ぼくはそっとため息を吐いて、自分のつま先へ視線を落とした。

「どうか、フリュクレフ公子! ベステル・ヘクセ様と殿下へ誤解だと説明を!」

「大鷲と梟が皇国の空で出会う頃にまた会いましょう、エーベルハルト卿」

 ぼくはつま先へ向かって吐き出した。細くても成人男子だ。暴れるエーベルハルトを衛兵数人がかりで押さえているが、なかなか外へ連れ出せない様子である。

「……! そんな……! どうか、どうかご説明を! 誤解です!」

「貴族で男なのに菓子作りが趣味の愚かなぼくには、何のことか分かりかねます。ご機嫌よう、エーベルハルト卿」

「……! どうか……っ!」

 それ以上は扉に阻まれて聞こえなくなった。傍らの机へ手を置いたぼくの顔を、ジークフリードは申し訳無さそうに覗き込んだ。

「すまんな」

 やっぱりか。ぼくは目を閉じ、唇を尖らせ微かに顔を背けた。

「初めからエーベルハルト卿を、追い出す算段だったのですね」

「もっと派手にベステル・ヘクセ殿を怒らせると思っていたのだが」

「皇族派のエーベルハルト卿を教師から外すのは、それなりの理由が必要だからですね」

「うむ。やはりスヴェンはかしこいな!」

 ルクレーシャスさんも途中から気づいていたのだろう。ソファに座ってスイートポテトを頬張り始めている。

「しかしスヴェン、さっきのは何だ?」

「?」

「ワシがどうのというやつだ」

「ああ……。大鷺座は大陸の北端でしか見えぬ星座、梟座は大陸の南端でしか見えぬ星座なので、大陸のほぼ中央に位置する皇国でこの二つを同時に見ることなど不可能なのですよ。天文学の教師なら、知っていて当然のことです」

「……それは高等貴族学校にて習うこと。五歳でそれを知っておられるスヴァンテ様相手に侮ったエーベルハルト卿を多少、不憫に思いますよ」

 オーベルマイヤーさんが汗を拭った。それはぼくのせいじゃないので知りませんね。この世界の貴族なら、ルクレーシャスさんが絶対に喧嘩を売ってはいけない相手だ、ということくらい知っていて当然だろう。そんな分別も持たないのに傲慢に振る舞っていたからこそ、ジークフリードの策に嵌るわけだが。

「つまり、ワシがどうこうとは天文学を用いて言うところの二度と会いたくないという意味か」

「その通りです」

「なるほど、そんな知的なやり返し方もあるのだな。ゆかいなことを知った」

 ジークフリードはぼくと友達になりたいかも知れないが、利用されるのは不愉快である。覚えず眉根が寄ってしまう。ジークフリードは叱られた幼子のような表情で、顔を上げずに答えたぼくを覗き込んだ。

「すまん。お前をまきこんで」

「どうせ巻き込むおつもりなら、これからは事前に教えてください。もっと穏便に、相手も気づかぬうちに辞めさせることもできたのですよ。わざと恨みを買うやり方は得策ではありません」

「……そうか」

「ええ」

「後学のために、スヴェンの考えたおん便なやり方というのを教えてほしい」

 ふむ。顎へ指を当て、その場でしばし考える。そろそろ肩まで届こうという髪が、さらりと流れる音を聞きながら考える。

 これはジークフリードにとって、今後人をどう扱うかの実習教育にもなるだろう。思考することに没頭していたぼくは、エーベルハルトが騒がしく退場した扉から、人が入って来たことに気づかなかった。

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