第17話 花便りの月 ⑵

 ジークフリードにも図書館での一件が耳に入ったのだろう。ぼくが皇宮図書館へ行かなくなってから一週間ほどして、前触れなくやって来た。

「……」

「……」

 しばらくは無言でお茶を飲んでいたが、ジークフリードはまるで鉛でも飲み込んだように重たそうに口を開いた。

「バルタザールは、侍従こうほから外した」

「えっ」

 ジークフリードがそこまでする必要はない。それにミレッカー家の成り立ちや、宮中伯という役職を考えると侍従候補から外されるのは痛手のはずだ。初代のミレッカー宮中伯、ヴォルフラム・ミレッカーは「裏切り者の鼠伯クヴィーク・グラーフ」と死ぬまで揶揄された。クヴィークというのは鼠の鳴き声。薄汚い鼠野郎、チューチュー鳴いて主を欺く卑怯者。そんな汚名を着てまで望んだ女王との婚姻は、なされなかった。主を裏切るにはそれなりの覚悟が必要ではある。当然の報いとも言えるかもしれない。

 宮中伯とは名誉伯と呼ばれることからも分かるように、限定的かほとんど領地を持たない文官伯爵のことを指す。逆に言えば、普通ならその限定的かつ、小さな領地でも財を成せるくらいの特別な領地や、役職を与えられた者のことを宮中伯と呼ぶのだ。だがそれだけに宮中で重要な役職に就けなければ、家を維持することができない場合もある。侍従候補から外されたというのは、次期伯爵である令息が表舞台から落とされたも同然だろう。このことでさらに恨みを買わないとも限らない。バルタザールもそんなことが分からぬわけではないはずなのに、ぼくへあんな態度を取ったのだ。それなりの覚悟はあったかも知れないが、冗談じゃない。

「ジーク様がそこまでなさる必要はありませんよ……?」

 遠慮がちに言ってみたが、正直これ以上巻き込まれたくない気持ちで一杯である。しかしジークフリードは静かに頭を横へ振った。

「ならぬ。オレがスヴェンへ図書館使用の許可を出したのだ。オレが特別にそれを許した。だがそれをオレの侍従こうほになろうという人間が害した。厳しく罰せねば、今後オレの侍従は他の貴族にどんな横暴を働いても許されることになってしまう。オレの許可を得た人間に対しても、無礼を働いていいことになる。何より己の欲望を優先し主の考えに背く人間など、側にいらぬ」

「……!」

 それにジークフリード自身が気づいたにしても、側近が教えたにしても、正論である。ここ数カ月のジークフリードの変化は目を瞠るものがある。まだ幼い横顔を眺めて、ぼくは初めてジークフリードの瞳にあおみどりが混じっていることを知った。

「……思慮深く、なられましたね」

「うむ。スヴェンに褒められるのであれば、オレの考えに間違えはないようだ」

 ティーカップを置いたジークフリードは、テーブルの上に置いた手を組んで仄かに笑みを浮かべた。いつの間にか、随分と信用されたものだ。

「ぼくだって間違うことはございますよ?」

「そうだろうか。そうだとしても、お前には間違いを正してくれる者があろう」

 それは、ジークフリードにはなかったものだ。誰もが彼の言うなりにするばかりだった。たった六歳でそのことに気づく孤独はいかばかりか。

「そうですね。ありがたいことです、ジーク様。人は宝にございますれば」

「そうか。なれば出会いは宝さがしのようなものかもしれぬな」

「真にございますね。人生とは大海原へ小舟でこぎ出すようなものかもしれません。広大で悠然として、途方もなく恐ろしい。けれど己の手でオールを持って漕がなくては、どこへ流れるとも知れぬ酷く孤独な旅にございますね」

「だからこそ、信じられる友というものは尊い。今日はな、スヴェン。お前に頼みがあって来た」

「ぼくができることならば、何なりと」

 初対面のジークフリードの印象は最悪だったけれど、今はそこまで彼のことが嫌いではない。数カ月で王としての可能性を見せた彼を、見守りたい気持ちになるくらいには。

「オレはお前を、側近にしたい」

「……え?」

 それとこれとは話が違うっていうか、ぼく二年後には離宮を出るつもりでいるって今は言えないからどうしよう。どうやって断ろう。テーブルセットのソファへ座るルクレーシャスさんへ横目で視線を送る。ルクレーシャスさんはゆったりと紅茶を一口含んで、にっこり微笑んで見せた。面白がってる、完全に面白がってるこの人。

「……謹んで、……お受けいたします……?」

 断ったら理由を聞かれるだろう。だがぼくは離宮を出るまで極力、波風立てたくない。狡猾な皇王に知られたら怪しまれるに決まっている。ならこれ以外の答えなど出せるわけがない。

「うむ。お前の体調が良い時だけでいい。週に二、三日ほど、オレの部屋に顔を出すが良いぞ。なんならお前の望む授業をオレと一緒に受けてもいい。詳細はのちほどオーベルマイヤーと話し合ってくれ。それだけを取り急ぎ伝えに来たのだ。今頃オーベルマイヤーがオレを探しているだろうから、今日はこれで失礼する。ではな」

「オーベルマイヤー様の白髪が増えぬうちに、お戻りになってください」

「ははっ、戻ったらねぎらうとしよう。外はまだ寒い。見送りはここまでで良いぞ」

「ではこちらで失礼いたします」

「うむ」

 テラスを出て、噴水の向こうへ歩き出すジークフリードを見送る。途中でラルクと会ったのだろう、二人の元気な話し声がここまで聞こえて来た。いつの間にか後ろへ立っていたルクレーシャスさんが呟く。

「いやはや、彼はここ数カ月で変わったね」

「本当ですね。子供って、成長が早いなぁ」

「君も子供だよ?」

「あはは、中身は三十歳だって言ったじゃないですか」

 ルクレーシャスさんはぼくを抱え上げて眉尻を下げた。

「子供じゃないか。たった三十歳でしょ?」

 そうですね。二百年以上生きている獣人であるルクレーシャスさんからすれば、ぼくなんかピヨちゃんですね。言い返すのも億劫なのでにっこり笑ってごまかす。

「しかし何で皆さん、ぼくが病弱だと思い込んでいるんでしょうね」

「儚い風貌だからだろうねぇ……」

 はかない。はかない……、穿かない? なにそれ酷くない? いや、この世界の男性用パンツってね、ほらニット素材がないからこう、布製のボクサーパンツみたいな腰で紐を結ぶヤツか、ビキニの紐パンみたいなヤツなんですよ。それかほら、膝上丈のカボチャパンツみたいなの。これは女性と男女区別なく子供もそう。でもほら、ブリーチズみたいなピタっとしたボトムの時はね、シャツがこう、裾がながーくなってて、股の所でボタンを止めるようになってるの。だからまぁ、ブリーチズの時はそりゃ穿いてないといえば穿いてないわけだけども。

「人のこと変態みたいに言わないでくださいよ。下着を穿かない風貌ってどんなですか」

 ルクレーシャスさんは、金色の瞳をまん丸にした。

「……うん……まぁ……現実を認めないと、君はいつか痛い目を見ると思うよ。っていうか痛い目見たばっかでしょ」

「……?」

 パンツとバルタザールと病弱に見られることに一体何の共通性があるのか。険しい顔をして唸るぼくをルクレーシャスさんは暖炉の側のソファへ下ろした。ちなみにぼくは別に病弱ではない。風邪を引く時もあるし、体力もあるとは言い切れないが、それなりに至って普通の六歳児なりの健康体ではある。はずだ。

 昼前になって、ラルクが字を習いに来た。そのままテーブルマナーの授業を兼ねて一緒に昼食を取るのが最近の日課である。ルクレーシャスさんが来るまではいつも一人で食事していたので、最近は賑やかな食卓である。昼食を終えてコモンルームでラルクやルクレーシャスさんと談笑していると、庭の噴水の向こうに赤毛がちらほらと見え隠れした。

「こんにちは、スヴァンテ様」

「こんにちは、オーベルマイヤー様。午前中にジーク様からお話は伺いました。ご足労をおかけしましたね。こちらでお茶でもどうぞ」

 テラスからコモンルームへ入って来たオーベルマイヤーさんは、いつも通り大量の汗をハンカチで拭っている。細い人なのに何でだろう。代謝がいいのかな。悪い病気じゃなきゃいいけど。お茶を勧めてテーブルセットのソファへ案内する。ぼくも向かいのソファへ座った。当然、ルクレーシャスさんもぼくの横へ座っている。

「ありがとうございます。実はですね、こちらでいただくお菓子が美味しいと家で話したら娘がパパ狡いって拗ねてしまいましてね」

 おうちで娘さんにパパって呼ばれてるんだぁ。ほんわかしちゃう。それから、同じ年頃だろうフレートのことが少し気になった。この世界ではもう結婚して子供がいてもおかしくない年齢だ。フレートが結婚しない理由の何割かはきっとぼくだろう。無意識に扉の横へ立つフレートへ目をやる。フレートは視線で疑問符を送って来た。慌ててなんでもない、と首を横へ振る。

「ああ、ではよろしければこちらをどうぞ、お嬢さまにお持ちください。ベッテ。オーベルマイヤー様が持ち帰れるようにお包みして」

「かしこまりました」

 今日のおやつはラングドシャクッキーである。結構、簡単に作れるんだよ。ラングドシャクッキーは卵白しか使わないから、残った卵黄を使ってエッグタルトも作ったんだ。この世界、生クリームがないからどうしても生クリームなしのレシピになっちゃうんだよね。生クリーム作れないかなぁ。

「早速ですがスヴァンテ様。陛下もお許しになられたので、スヴァンテ様を正式に皇太子殿下の侍従として、お迎えすることになったのですが」

「はい」

「スヴァンテ様はお体が弱いので、まずは週に二回ある天文学の授業を皇太子殿下とご一緒に受けるというのはどうでしょうか」

「……! 天文、学……!」

 ルクレーシャスさんは偉大なる魔法使いで魔法全般や歴史には詳しいけれど、天文学とかには詳しくないんだよね。しかもこの国の天文学って微妙に暦学とも被っていて面白そうなんだ。独学で本を読むのもいいんだけど、やっぱりちゃんとした専門家から話を聞くのは違う。ぼくは相当、きらきらと目を輝かせていたのだと思う。オーベルマイヤーさんは子供を見る目で微笑んだ。

「よろしゅうございますね?」

「……はいっ!」

「それから、皇宮図書館へは行きにくいでしょうから、皇室書庫への立ち入りを許可されましたよ」

「皇室、書庫……!」

 ふおお。それって古代遺跡の石板とか、皇室しか閲覧できない貴重な古文書が保管されている場所だよね。うわぁい、いいよ週二くらいはジークフリードの相手をしてやろうじゃないか。

「……それも、ジーク様の取り計らいですか?」

「ええ。どうやら皇太子殿下はスヴァンテ様と、本当にお友達になりたいとお考えのようです」

 あの変りようはそういうことだったのか。甘やかすだけの人は、別にジークフリードを思って甘やかしているのではないと知ったのだろう。だから苦言を呈したぼくを側に置きたいらしい。それを気づけた時点で彼は、すでに愚かではなくなったのだ。

「……殿下はあなたとあなたの乳兄弟を見て、『信頼』というものを肌で感じたのでしょう。ご自分の傍にはそれがないことも。ですので、できればあなたと信頼関係を築きたいとお考えのようです」

「……」

 どんなに親しくなっても、ラルクは主であるぼくが命じない限りジークフリードよりぼくを優先するだろう。ぼくだって、ラルクとジークフリードどちらを優先するかと問われたら当然、ラルクと答える。ジークフリードには、そんな相手がいないのだ。

 鶺鴒せきれい皇ヴェンデルヴェルトは冷静で冷酷な判断も下す皇らしい皇だ。ゆえに貴族は彼に畏怖を持って接している。皇王を懐柔できぬのであれば、次期皇王であるジークフリードを幼いうちに手懐けようという輩ばかりなのだろう。そんな大人たちが、ジークフリードを我儘に育てたのだ。

「殿下の信頼に足るよう、精進いたします」

 立ち上がって、胸へ手を当てて頭を下げる。ジークフリードが望むような関係にはなれないだろう。けれど、最大限の努力をすると約束しよう。

 ぼくはジークフリードより、ラルクの方が大事だ。けれど、できるだけジークフリードの信頼に応えよう。ぼくは彼が嫌いではない。ぼくが離宮を出るまでの一、二年の間に信頼できる人間に出会えるかもしれないし、何よりジークフリードにはオーベルマイヤーさんが付いている。

「オーベルマイヤーさんが執事であることは、殿下にとって幸いですね。こんなに殿下のことを考えておられる」

「はは。お恥ずかしいことですが、スヴァンテ様が以前、殿下に招待状の手渡し方について苦言を呈されたでしょう? その時に私はなんて愚かなのだろうと反省させられたのですよ。たった六歳の子ができることを、私はして来なかった。殿下が愚かなのではなく、殿下を愚かにしたのは私である、と」

「殿下が愚かである方が都合の良い方も多いでしょう。だがそれではいずれ近いうちに国が滅びましょう。愚かであれば傀儡かいらいになる。いずれ皇になる殿下が傀儡かいらいになれば政治は揺れる。政治が揺れれば国は揺れる。国が揺れれば統治は乱れる。その責任を取るのは未来の子供たちです。自分の、かわいい、子供や孫かもしれない。そう考えれば己の欲のみを実行することなどできましょうか」

 にっこりと微笑んでティーカップを置く。オーベルマイヤーさんは呆けたようにぼくの顔を見つめた。折よくベッテがお菓子を包んで小さな籠に持って来た。

「オーベルマイヤーさんのお嬢さまは、何色がお好きですか」

 ぼくが尋ねると、魔法が解けた人みたいにオーベルマイヤーさんは何度も瞬きをした。

「へっ……? あ、ああ……青が、好きですが……」

「ベッテ、青いリボンを籠に結んでください」

「承知しました」

「そこまでお気遣いされては、うちの娘がスヴァンテ様と結婚すると言い出しかねません」

 紅茶を飲み干し、オーベルマイヤーさんが後頭部を掻く。ぼくはおどけて、人差し指を唇へ当て、片目を瞑って見せた。

「おや、大変光栄ですとお伝えください」

「いや参った。スヴァンテ様は、そういう行動をお控えになった方がよろしいかと」

「自覚がないのですよ。言っても無駄です」

 それまで黙っていたルクレーシャスさんが一言口を挟む。なんですか。二人してぼくを見てため息を吐かないでください。

「ベステル・ヘクセ様、自覚がないとは?」

「読んで字の如くです。『普通』の基準が自分の顔ですから、ね?」

「ああ……それは周りがみんなカボチャやジャガイモに見えるでしょうし、審美の基準がスヴァンテ様ならうちの娘など女神カロリーネ似ですよ……」

 女神カロリーネとは、芸能と踊りの神ヨーズアの末娘でまぁ、日本で言うオカメみたいなあまり容姿の美しくない女神のことである。しかし芸術に造詣の深い女神で、踊り子と吟遊詩人の守護者で素朴な庶民派の神様なのである。いくら人は見た目ではないとはいえ、自分の娘にそんなこと言っちゃいけませんよ、オーベルマイヤーさん。

「そんなわけありませんよ、ぼくだって美醜の区別くらい付きますってば。ルカ様が大変にお美しいことくらいはちゃんと分かりますよ」

「ほらね、無自覚でしょう?」

「ええ……はぁ……ベステル・ヘクセ様がお美しいのは私も同意しますよ……?」

 ほらね。何なんですか、ぼくの美的感覚はおかしくないでしょう。

「……まぁ二歳でこの世で一番美しいものを見たら、後はもう全部カカシにしか見えないよね……」

 そう呟いて、ルクレーシャスさんはラングドシャクッキーを大量に口へ放り込んだ。

 ベッテが青いリボンを籠へ結んでぼくへ差し出す。立ち上がったオーベルマイヤーさんへ、籠を渡した。受け取りながら、オーベルマイヤーさんはジュストコールの前を手の平で伸ばした。

「いつもスヴァンテ様には何から何までお気遣いいただいて申し訳ありません。それでは、来週の十七の日にお迎えに上がります」

「よろしくお願いします」

 噴水の向こうへえっちらおっちらと消えて行く赤毛を見送って、暖炉の前のソファへ戻る。ラルクはヴィノさんが呼びに来て、庭の手入れへ行ってしまった。ベッテはティーセットやティースタンドが載ったワゴンを片付けて出て行く。

「しばらくは怠けて暮らせると思ったのになぁ」

 ぼやくとルクレーシャスさんがクスクスと笑った。

「諦めなさい」

 庭へ目をやると、桃の花がちらほらと薄桃の花を付けているのが見えた。長かった冬ももう、終わるらしい。どうやら忙しい、春の初めになりそうである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る