第16話 花便りの月 ⑴

 バルタザールには会いたくないけど、離宮の書庫やフレートに手に入れてもらう書物には限界がある。せっかくジークフリードがぼくを思って考えてくれたのだし、皇宮図書館の蔵書には興味があるに決まっている。だがバルタザールには会いたくない。

「うう~ん」

 ジレンマで唸るぼくに、ルクレーシャスさんはあっさりと提案した。

「わたくしを連れて行けばいいんだよ?」

「! その手がありましたね」

「ほんと、君は人に頼ることをしない子だね。わたくしのことを上手く使いなさいと言ったじゃないか」

「ありがたく使わせてもらいます。ルカ様、一緒に皇宮図書館へ行ってください」

「いいよ」

 というわけで初春の晴れた空が綺麗なある日の午後、離宮からさらに皇宮の庭を真っ直ぐ突き進んで、貴族に開放されている政宮にある皇宮図書館へ赴いた。おもむ、赴いたんだけど。

 遠い。めちゃくちゃ遠い。離宮が離宮って呼ばれる所以を実感している。皇宮は東西に長く広い。主に南側は庭になっており、北側は崖で崖の向こうは海という自然の要塞になっている。サーベア離宮は西端にあるから、ぼくは南寄りにある庭を東へひたすら進んでいるわけだ。離宮、皇宮、政宮と建物が続いている。政宮とはつまり、役所のようなものだ。そこで様々な手続きや裁判ができる。とはいえ、基本貴族しか入ることを許されない。平民には裁判をする権利も権利を主張することも許されていないから、手続きなど必要としないというわけだ。平民も土地の売買や登記はするが、文字が書けないのでそういう場合は下級貴族が代筆や手続きの代行をする。悪い相手に捕まれば、金だけ騙し取られたりなんてこともある。だから力のある商人が代行することもある。そう、マウロさんのようにね。それだって文字さえ読み書きできれば、起きない問題なのだ。

 つらつら考えながら、まだ蕾は固いが春の匂いで満ちている庭を行く。皇宮の庭を抜ける手前で、ぼくはルクレーシャスさんに両手を上げて見せた。

「……ルカ様、だっこ……して、くださ、い……」

「うふふっ! わたくしの弟子が珍しく子供らしいことをしているよ!」

「もう何とでも言ってください。もう歩けない。あんよ痛いんです。ルカ様だっこ!」

「あははっ」

 上機嫌のルクレーシャスさんは、ごった返すとまではいかないけれどそれなりに人の居る廊下を颯爽と抜けて行く。貴族にであれば誰でも入れる場所だから、視線も多い。

「失礼ですが、ひょっとしてベステル・ヘクセ様ではございませんか?」

「そうだよ。だがわたくしは今、弟子と図書館へ行くところだ。挨拶は不要だよ」

「弟子……この子が、ですか?」

「そう。大変に優秀な子だ。フリュクレフ公子だよ。わたくしにではなく、彼にこそ礼儀を持って挨拶するべきだ」

「フリュクレフ……」

「ほら、『悪妻レーヴェ』の息子ですよ……」

「ああ、あの魔力なしの」

「捨てられ公子が、ベステル・ヘクセ様の弟子……?」

 ひそひそ話はそんなところだろう。ルクレーシャスさんを見上げると、慎重にその場へ下ろされた。胸へ手を当て、左足を後ろへ引いてきっちりと頭を下げる。凛と顔を上げて、それから首を傾けて微笑む。

「初めまして。スヴァンテ・フリュクレフと申します。このたびジークフリード皇太子殿下より皇宮図書館への入館許可をいただきましたので、これから皆さんと顔を合わせることもございましょう。若輩者ですがよろしくお願いいたします」

 ほう、と声のないため息のようなものがあちこちから聞こえて来た。今日もルクレーシャスさんとお揃いコーディネートで来て良かった。威嚇くらいにはなるだろう。

「さ、行こうか。スヴァンくん」

「はい」

 再びルクレーシャスさんに抱っこされて皇宮内を図書館へ向けて進む。中庭の横を通り、拭き抜けになっている回廊を抜け、重厚な扉が見えて来た時、背後から声がかかった。

「スヴェン!」

「ジーク様」

 一応、今日ぼくが図書館へ向かうことをジークフリードには前日に伝えてあった。だから来てくれたのだろう。ぼくがルクレーシャスさんの腕から下りようとしたら、ジークフリードは手を上げた。

「いい、いい。そのままでいい。どうせスヴェンのことだ、ここまで来る間に疲れてしまったのだろう」

「はい、その通りで」

 あはは、と苦笑いすると一歩近づいてジークフリードは抱っこされたままのぼくの手を軽く握った。

「楽しんで来い。お前が楽しんでくれたら、オレも入館許可しょうをおくったかいがある」

「ありがとう存じます、ジーク様」

「うむ。オレはこれから授業があるからな。また離宮へ遊びに行く。ではな、スヴェン」

 再びひそひそと話す声が聞こえて来た。ああ、参ったな。これで噂は広まってしまうだろう。ジークフリードとしては、ぼくと親しいと示すことで周りを牽制したのかもしれない。二年後には出て行くつもりなのに。ちょっと罪悪感が湧いてしまう。そんな考えも、図書館へ入り書棚を見たら全部吹き飛んでしまったのだが。

 木の書架と机と、古い紙の香り。窓が深い藍色のガラスなのは、書物が焼けるのを避けるためだろうか。大判本を載せるのがやっとの幅の机は、一列に並んでしか本を読めないようになっている。見知らぬ人が向かいに座ることもない。間違いなく本好きが作ったのだと分かる空間。

「ああっ、これはザビーネ・ラサールの『身体図』原本! うわぁ、これはアネル・バウハスの『伝承と神話』のシュトッケンシュミット写本版! ひええ、これなんか原本は焼失したから原版がどんなものだったかもう誰にも分からないと言われる、ヴァレール聖典の写し! ああ……皇宮図書館最高……」

 この世界の本はほぼ書き写しだ。原本なんてお目にかかるのは難しいし、写本した人が勝手に自己解釈を加えたりする。となると写本版も全部読みたくなるのがヲタクというものだろう。引用とか参考文献一覧でしか見たことない幻のお宝本がずらりで興奮してしまう。ぼくは悩みに悩んで、一番ページ数の少ないヴァレール聖典を慎重に机へ置いた。もちろん、ルクレーシャスさんのお膝の上だ。しばらくすると自分がページをめくる音すら聞こえなくなる。集中して読み耽っていたが、ルクレーシャスさんの声で我に返った。

「スヴァンくん、そろそろ帰らないと暗くなっちゃうよ」

「はっ! えっ?! もうそんな時間ですか? 大変、日没前に戻らないと尋ねて来たルチ様が拗ねる」

「拗ねるねぇ。間違いなく拗ねるよ」

「うわぁん、ルカ様抱っこで戻ってください!」

「それ見られたらもっと拗ねると思うけど、まぁスヴァンくんが歩いたら確実間に合わないだろうからね」

 ルクレーシャスさんに抱え上げられながら、ぼくは皇宮図書館に情けない叫び声を谺させた。

「ああ、毎日来たぁい。ここ天国ぅ。住む。住みたい。ルカ様、ぼくここに住みます!」

 かくしてジークフリードは贈り物をぼくが大変に気に入ったと満足し、ぼくは本に囲まれて満足したわけである。だからすっかり頭から抜け落ちていたんだ。ぼくが何故、皇宮へ行くのを渋っていたのか。その原因を。

 その日もぼくはルクレーシャスさんに抱えられて皇宮図書館へ来ていた。いつもなら常時ぼくを膝の上に乗せているルクレーシャスさんだが、その日は何故か皇王に呼び出されて席を外した。ぼくは本を読むのに集中していたので、いつの間にか周りに人が居なくなったことにも気づかなかった。夢中で文字を追い、ページを繰る。

 とん。

 本の横へ突かれた手に気づいた時には遅かった。反射的に顔を上げる。そこには、一番会いたくなかった人間の顔があった。

「……バルタザール伯」

 机の反対側からぼくへ向け、覗き込むように覆い被さるバルタザールは薄く笑みを浮かべている。そのスカイブルーの瞳に、意味もなくぞっとした。

「久しぶり、スヴェン」

 呼び捨てかよ。怒る気にもなれず、曖昧に微笑んで再び本へ目を落とす。元々ぼくは本を読むと他事が疎かになるし、バルタザールと話をする気もなかった。

「……髪を、伸ばしているのか? よく似合う。だが、ああ……ただでさえ小さな顔が、もっと小さく華奢に見えるな……」

 髪に触れられ、鳥肌が立つ。だが何とか堪えて無視をした。

「ボターニンの原書なら、うちにある」

「……さすが宮中伯家ですね」

「フィオレンティーノの写本もあるぞ」

「はぁ、そうですか……」

 ぼくが読もうと思って積み重ねた本を見て、興味を引きそうな物を挙げているのだろう。何なんだよ、もう放っておいてくれないか。不機嫌を露わにしつつ、絶対に本から目を上げるものかと心に決めた。

「……女王の」

「……」

「女王の肖像画が、ある」

 ぼくにそれを告げる意図が分からない。無視しようとして、視線が一瞬、本の外へ逸れた。バルタザールが身を乗り出すのが分かる。彼は今、きっと笑みを浮かべているに違いない。

「気にならないか。女王は本当に、君に似ているかどうか」

「……っ」

 ぼくが女王に似ていることはすでに知っている。だが、ぼくは別のことに気を取られていた。バルタザールの高祖父、ヴォルフラム・ミレッカーは裏切った相手の肖像画を何故、持っていたのか。女王の肖像画を、代々のミレッカー宮中伯は保管していたのはどうしてか。そこまで憎んでいるから? 憎い相手の肖像画など、保管する意味があるだろうか。それにバルタザールの口ぶりから推測するに、肖像画はおそらく、ミレッカー家の誰もが閲覧できる場所にあるか、バルタザールが何度も目にできるような場所にあるのではないだろうか。

「……裏切った君主の肖像画など、持っていて何の意味があるのです? それが本当に高祖母の肖像画である証拠もありません」

「フリュクレフ家の人間はどうも他人の心に疎いようだ……」

 正面から、バルタザールの視線を受け止める。彼はどうしてだか、まるで痛ましいものでも見るような目をしていた。

「どういう……?」

「高祖父は何故、女王を裏切ったと思う?」

 何故。それほどに恨んでいたから。憎んでいたから。あるいは、出世欲。それ以外に何があるというのだろう。

「あなたの高祖父のように、あなたもぼくが憎いのですか」

「……ハハッ!」

 バルタザールは片手で額を押さえ、おかしくて仕方ないという様子で体を折り曲げて笑った。それから再び机へ両手をついた。動けずにいると、吐息がかかるほど顔を近づけられる。

「高祖父は先々代の皇王へ、裏切りの代償に女王を要求したそうだよ。だが皇王は高祖父へ女王を下賜しなかった。何度も何度も何度も抗議して、それでも高祖父が女王を手に入れることはなかった」

「当然でしょう。いくら侵略した国の女王とはいえ、謀殺ぼうさつされるのが分かっていて下賜するはずもない」

「あっはっは……! はっ……!」

 バルタザール目を伏せて笑った。笑い声に連動して、吐息が吹きかけられる。机に載せられたバルタザールの手を避け、机の下へ両手を引っ込めた。膝で握り締めた拳の内側が、汗で湿って行くのが分かった。

「君は本当に何も分かっていないな、スヴェン。どうして苦労して手に入れた女王を謀殺しなくてはならない? 高祖父はただ女王を娶りたかっただけだ。どうしようもなく愛していたから。だからせめて肖像画を描かせた。ミレッカー家には女王の肖像画が至る所に飾られている。それを見ながら僕は育ったんだ。あれがこの世で一番尊いお方だと。だから一目で分かった。君がフリュクレフの王だと。君が正当な王だ。我らが王だ。見においで、スヴェン。女王の肖像画を。そうすれば分かる。僕らがどれほど君を待ちわびていたかが。君に相応しい場所はミレッカー家にある。大切に大切に守ってあげる。愛してあげる。君のための場所を整えておくよ。君がここを離れられるように迎えに来てあげる。待っていて。君のためなら何だってしてみせる」

 細い人差し指がぼくの頬から下へと撫でて行く。バルタザールの指が顎まで来ると、仰向かされた。スカイブルーの瞳がぬらりと粘着質に光った。

「だから、君は、僕のものだ」

「――っ」

 ざわ、と全身が総毛立つ。この子は正気じゃない。この子を正気じゃなくしたミレッカー家も異常だ。どうして? ミレッカー家はずっと、こんな風に後継者を育てて来たのか。混乱と恐怖で頭が真っ白になった。

 すい、と大きくて節の骨ばった手がぼくのおでこへ当てられた。そのまま後ろへ引っ張られてバルタザールの視線という呪縛から解き放たれる。

「お待たせ、スヴァンくん」

 ルクレーシャスさんの声が頭上から降って来るまで、ぼくは自分が息を止めていたことにすら気づかなかった。溺れて水面に上がった人みたいに大きく息を吸い込み、それから上半身を捻ってルクレーシャスさんに縋り付いた。

「帰ります、ルカ様。抱っこ!」

 良く分からないけれど、何かが警告している。一刻も早くバルタザールから離れなければ。ルクレーシャスさんも警戒しながら、ぼくを抱え上げたのが伝わって来た。ぼくはできるだけバルタザールから顔を背け、ルクレーシャスさんの胸へ額を押し付けた。

「スヴェン」

 バルタザールは、ぼくへ向けて手を伸ばしたのだろう。背中で感じて身を縮める。覚えずルクレーシャスさんの服をぎゅっと掴んでしまったようだ。ルクレーシャスさんが杖を出してバルタザールの手を払い除けたのだろう。杖がぶつかる乾いた音がした。

「下がりなさい。これ以上の無礼はわたくしが許しません」

「……っ」

「覚えておくがいい。わたくしはこれ以上、お前がわたくしの弟子を脅かすことを許さない」

 普段のルクレーシャスさんからは想像もつかない低い声が、頬を寄せた胸から響く。ぼくはぎゅっと目を瞑った。このぼくとしたことが、ルクレーシャスさんが途中で司書に「机の上に本を置いたままだ。すまないが片付けてくれ」と声をかけるまで、そんなことにも気づかなかった。再びルクレーシャスさんが歩き出した振動に体の力が抜けた。それでもぼくは、バルタザールが追いかけて来やしないかとしばらく全身で周囲を警戒した。政宮の庭を抜け、皇宮側への門扉に立つ衛兵の声を聞いてようやく顔を上げる。

「スヴァンくん、大丈夫かい。怖かったね」

「……うあ……っ」

 涙腺が崩壊した。最近ぼく、体に引っ張られてか精神年齢が下がっている気がしてならない。遠慮なく顔をくしゃくしゃにして、泣き声を上げる。

「こわかったですぅ! なんなのあの子、なんなのあの一族ぅ!」

 衛兵が振り返ったけどそんなの構ってられない。ルクレーシャスさんの襟を掴んで訴える。

「よしんばぼくに執着してるなら良くないけどまぁ理解もできるんですよ? なのにね? 一族挙げて高祖母にずっと執着して来たからとかぼくに失礼だと思いませんか。どうせぼくなんてね、凡顔ですよ魅力なんてありませんよ身代わりに執着されるとか理不尽過ぎて腹が立つぅぅぅぅ!」

「うーん。まぁ君の認識は色々間違ってるってわたくし今、再確認したけど、とりあえずお疲れ。よしよし」

「うええ……」

 美味しいものを食べて甘やかされないとやってらんない。ルチ様に抱っこしてもらってお庭を散歩してもらうんだ。ルチ様が一緒だと、寒さも感じないし。ラルクには一緒にお風呂に入ってアヒルちゃんで遊んでもらわなきゃやってらんないし、ベッテにもぎゅってしてもらうし、フレートにも抱っこしてもらって甘えちゃうことにする。

 ぼくは文字通り、離宮へ泣き帰ったのである。

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