第15話 花冷月

 新年行事が終わっても忙しいのか、それとも対外的にはぼくは体調不良ということになっているせいか、年明けもジークフリードが離宮へ来ることはなかった。

 三月、皇国歴でいう花冷月の八の日、ぼくは六歳になった。ルクレーシャスさん、ラルク、ベッテ、フレート、ヴィノさん、それと料理人のダニーを招いてささやかな昼食会をした。ダニーがクルミ入りのパウンドケーキを焼いてくれて、みんなで食べた。ルクレーシャスさんからは錬金術の本を、ラルクからはビー玉を。ベッテからは手編みの手袋を、フレートからは青紫のガラスペンを貰った。本来のぼくの瞳の色によく似ているガラスペンは、握るとひんやりした。穏やかで、いい誕生日だった。ルチ様にはぼくが生まれて六年目ですよと伝えると、いつも以上にすりすりちゅっちゅされてしまった。

「なんだろう、もうものすごい加護が備わってるんだけど備わり過ぎてよく分からなくなってる……」

 翌日、ルクレーシャスさんは少し投げやりにそう言った。伸ばしていたぼくの髪は、おかっぱくらいの長さに揃えられるようになった。

 ルチ様も相変わらずで、陽が落ちるとコモンルームへやって来る。最近のぼくの日課は仕事が一段落したフレートやベッテ、ラルクやヴィノさん、ルクレーシャスさんとタウンハウスについて話し合うことである。やっぱ、働くみんなの意見を取り入れたいからね。

 結局、タウンハウスは貴族居住区画の西にある前シュトラッサー伯爵が所持していたタウンハウスを土地ごと買い取って、元々建っていた建物を孤児院に、ぼくらの住む場所は新しく建設することに決まった。マウロさんが張り切って大工さんを雇ってくれたらしく、通常なら何年もかかるところを二年で施工してみせると言った。

「わたくしの部屋はスヴァンくんの部屋の近く、それと書庫があればそれでいいよ」

 ルクレーシャスさんはそれだけ言うと、お菓子を食べながらぼくらの話を聞いているだけになった。意外なことにタウンハウス建設について、一番意見を出してくれたのはヴィノさんだった。

「ここは死角になりやすいので、物置小屋を造るのはお止めになった方がよいでしょう。あと、こちらへ噴水を作るよりはこちらの方がありがたいです。庭から室内が見晴らせますので。それから、ルクレーシャス様とスヴァンテ様のお部屋は外から位置が分からぬ場所がよいと思います」

 なんとなく予感はしていたけれど、やっぱりヴィノさんはただの庭師ではなかったんだね……。

「うん。分かりました。他にはありますか?」

「他には特にございません」

 言うべきことは言った、とばかりにヴィノさんはテラスのある窓辺へ下がってしまう。さり気なく庭へ気を配っている様子だ。やっぱこの人が本物のぼくの護衛だろうな……。

「それでは大まかな希望は纏まったということでよろしいでしょうか」

 フレートが確認する。一同頷いた。暖炉の火でオレンジ色に染まった顔を見渡す。

「うん。じゃあ、これでお願いしましょう。フレート、近々のうちにマウロさんへ依頼してもらえますか」

「かしこまりました」

「あ、大事なことを忘れていました。タウンハウスと孤児院は、同じような外観で建てるつもりです」

「建設途中も、どちらに住むつもりか分からなくするためですか」

「そうです」

 黙って話を聞いているだけだったルクレーシャスさんが、口を開いた。ルクレーシャスさんの方を向いて頷く。

「君はどこまでも慎重ですね……」

 突然、ルチ様がぼくの頭へ頬をぐりぐりと押し付けた。

「?」

 振り返って仰ぎ見ると、どこか不満げだ。ルクレーシャスさんはぼくらへ視線を送った後、自分のこめかみを揉んでいる。

「まぁ、とにかくこれで来年か、再来年には離宮を出ることに決まりですね」

「はい」

 ぼくが離宮を出ることは、ルチ様にとっても喜ばしいことらしい。ルチ様は上機嫌でぼくを乗せた膝を揺らしている。花便りの月の初め、もうすぐ春が来ることを感じる頃にタウンハウスと孤児院建設は始まる、らしい。ぼくは外に出られないかららしい、としか言えない。マウロさんが悪い人で、騙されていたらぼくは来年か再来年には家なき子になる。そう考えるとちょっと怖い。

「明星の精霊様は、春になると姿を見せなくなるのかい?」

 パルミエパイを頬張っていたルクレーシャスさんがぼくへ尋ねる。

「いいえ。冬以外や日中にも、いらっしゃることはありましたよ」

「そうなんだ……興味深いな……人が付けた名はあくまでやはり概念的なものでしかないのか……となると本質は別のものという可能性もある……」

 ふわあ、とあくびをするとルチ様はぼくを抱えたまま立ち上がる。ぼくはルチ様の胸へ凭れた。

「おやすみ、スヴァンくん」

「おやすみなさいませ、スヴァンテ様」

 フレートとベッテ、ヴィノさんがぼくを見つめる。ラルクはいつの間にかおんぶされていて、ヴィノさんの背中でウトウトしている。

「おやすみなさい、また明日」

 ぼくの挨拶が済むとルチ様は廊下へ出た。ルチ様が進むと廊下は淡い藍色のベールが降りていく。とても綺麗だ。ぼくはそれを眺めながら、目を閉じた。

 冬の間はそんな日が続いた。化粧水と保湿クリームの開発も進んでいるようだ。冬木立が蕾を付け始めた。ラルクとヴィノさんも庭へ春の花を準備し始めている。暖かな日がちらほらと増え始めた頃、久しぶりにジークフリードが遊びに来た。

「壮健であったか。……髪を伸ばしているのだな。良く似合う」

「はい。ジーク様もお変わりなくご健勝のようで何よりです」

 髪を伸ばしていることについては、ただの無精ですとは言えず困った。似合うか似合わないかはよく分からないので、結局濁して笑っておいた。

「うむ。そういえばそなた、先月六才になったのであったな。この一年も変わりなく過ごせ」

 離宮に来ない間にジークフリードは少し変わったようだ。落ち着きのようなものを感じる。子供の成長ってすごいよね。オーベルマイヤーさんが暖かくなったとはいえそこまで暑くないはずなのに、大量の汗を拭う。

「スヴァンテ様によい影響を受けたのか殿下はこの冬、大変精力的にお勉強なさっておられまして」

「そうなんですか? それは大変に素晴らしいことですね。でもジーク様は元々賢くていらっしゃるので心配要りませんよ。好奇心は知識欲に繋がります。ジーク様は好奇心が旺盛で、よく気のつく方なのでいずれ知識欲が追いつきましょう」

「お……うむ。スヴェンに追い付くよう、努力しよう」

 あらあらまぁまぁ。ご近所の幼子を見守るような気分だ。元々素直な子なんだよね、ジークフリードは。生まれた時から皇族として育てられているのだ。皇族特有の鷹揚さは別にあってもいい。だが皇としての資質がないのも、為政者としての自覚がないのも困る。支配者ならば誰でもなれるだろう。だが統治者というのは難しい。ジークフリードは、以前のまま育つのであれば統治者には程遠いだろう。

「今日はな、スヴェンの作った絵本を朗読するので聞いてもらおうと思ってな」

「……ぼくの作った絵本、ですか」

「うむ。大変おもしろくきょうみ深かった。それで、母上にも読んでさしあげようと思ってな。だがまだ読み方に不安なところがあるのだ。作者であるお前が、けいこをつけてくれるならば上達するであろう?」

 強かなところと、学ぼうとする姿勢が見え隠れする。きっとジークフリードはいい皇になるだろう。何が彼を変えたのかは少し気になるが、いいことだ。

「なるほど、皇后陛下へ読み聞かせして差し上げるのですね。ぼくでお力になれるのであれば、ぜひ」

「うむ! ラルクとオレ、どちらが上手かスヴェンにしんぱんしてもらうぞ!」

「はい。では、こちらへ」

 テラスから、コモンルームへと先導する。暖炉の側へ置かれたソファへジークフリードを案内して、ぼくも向かいのソファへ立ち、フレートが座らせてくれるのを待つ。

「ありがとう」

 ぼくがフレートへ礼を言う間に、ジークフリートは自ら歩み寄ってテーブルセットのソファへ座っているルクレーシャスさんへお辞儀をして見せた。

「お久しぶりです、ベステル・ヘクセ殿。お元気なようで何よりです」

 ええ――! どうしたのジークフリード。自分からルクレーシャスさんに挨拶するなんてどういう心境の変化なの。しかもこれまでの失礼な口調ではない。ルクレーシャスさんも驚いたらしく、しばらくジークフリードを見つめて、それから短く「ああ、久しぶり」と呟いた。よい変化の兆候があるとはいえ、やはりジークフリードのことが苦手らしい。

 ジークフリードのことだから、すぐにラルクと遊びに行ってしまうものだと思っていた。だから暖炉の側に置いたソファには、小さなサイドテーブルがあるだけだ。ベッテはサイドテーブルへお茶とパイ生地にカスタードクリームをたっぷり入れたコロネを置いた。

「零れやすいのでお気をつけてお召し上がりください、ジーク様」

「うむ。やはりスヴェンの作るかしが一番うまいな」

 いつもならすぐに皇宮へ戻ってしまうオーベルマイヤーさんが、今日はジークフリードの横に立ったままだ。ぼくと目が合うと、オーベルマイヤーさんは微笑んだ。

「ベッテ、オーベルマイヤー様にもお茶を。オーベルマイヤー様、そちらのテーブルへお茶を準備させますので、どうぞ」

 ラルクがテラスから部屋へ入って来た。鼻の頭が真っ赤で、白い息を吐き出している。

「暖炉の近くへおいで、ラルク。寒かったね。ホットミルクを飲む?」

「うん。あ、ジークでんか、ごきげんよう」

 ラルクは右手を胸へ当て、深々と頭を下げた。ジークフリードは下げられた頭をしばらく眺めていたが、ラルクの肩を叩いて顔を上げろと示す。

「おう、ラルク! 今日はお前といっしょにスヴェンの絵本を読み比べしようと思ってな。どっちが上手か、きょうそうだ」

「かしこまりました。まだまだみじゅくですが、スヴェンさまのおかげでずいぶんじょうたつしつつあります」

 そう言って、ようやく頭を上げたラルクにジークフリードは仄かに悲しそうな表情をした、気がする。

「いい、いい。ここではオレにけいごを使うな」

「でもさ、それじゃスヴェンが悪く言われちゃうだろ? だかられんしゅう、してるんだ。えらい人たちがいるところでは、ちゃんとするんだ」

「そうか。……そうか」

 意固地になるかと思ったジークフリードは、噛み締めるように呟いて自分のつま先へ視線を落としていた。依然と随分、様子が違っている。誰かに諫められでもしたのだろうか。気にはなったが、ぼくにとって大事なのは身内だ。

「じゃあ、離宮へジーク様がおいでの時だけはお許しいただこうか。ラルク」

 ああ、ちゃんと意図を汲み取ってくれてたんだなぁ。ぼくの脇へ立ったラルクの、庭仕事ですっかり冷えた手を包んで温める。ぼくが嫌なのは、ぼくが甘やかしたせいでラルクが悪く言われることなんだけど。それでも、相手が高位の貴族なら処罰されてしまうことだって有り得る。だから寂しいけど、ラルクへ言葉や礼儀を教えることはラルク自身を守ることにもなるんだ。

「そうしてくれ。お前までオレへけいごを使うだなんてさみしい」

「うん……」

 上目遣いにぼくを覗き込んだラルクの新緑色の瞳は「ほんとうにいいの?」と尋ねている。ぼくはラルクの手を擦って頷いた。ジークフリードは、どこか寂し気にぼくらをじっと見つめている。

「えへへ」

 いつも通りに笑顔を見せ、ラルクはぼくの横でラグの上へ胡坐をかいた。ベッテがラルクへ木製のカップを渡す。ふんわり、ミルクの甘い香りがした。ジークフリードがぼくとラルクへ向け、少し身を乗り出した。

「さぁ。一ページずつ、こうごに読もう。スヴェンは最後にどっちが上手だったか判定してくれ」

「分かりました。ふふ。ラルク、おひげになってるよ」

 カップへ顔を埋める勢いでホットミルクを飲み干したラルクの口の周りに、ミルクの泡が付いている。当たり前のようにぼくへ顔を向け、ラルクが笑う。

「ん? えへへ。ミルクだからひげじいちゃんだ」

「ほんとだな」

 ジークフリードが同意して笑った。ベッテへ手を差し出すと、遠慮がちに布巾を差し出された。受け取ってラルクの口を拭う。

「ふふふ。はい、綺麗になったよ。ラルクおじいちゃん」

「あははっ」

 お茶とお菓子を楽しんだ後、ラルクとジークフリードが交互に朗読するのを聞く。どちらも言葉が上達したのが分かった。特にジークフリードは分からないスペルがないようで、時々つっかえるもののスペルを間違うことなく読み進めて行く。ラルクは仕事の合間に教わる程度なので、まだ読めないスペルもあり、所々でぼくの顔を見る。

「ほら、ここは『メーア』だよ。M、E、E、R。ラルクもぼくも、海なんて見たことないもんね」

 ぼくの場合、「この世界では」だけど。

「おっきい水たまりなんだろ?」

「ふふ。そうだね。ずうっと、水平線の向こうにまで続いてる。それくらい大きな水たまりだよ。いつか、見に行きたいね」

 ぼくの言葉に、ジークフリードは視線を自分の膝へ落とした。きゅ、と唇を結んで微かに眉根を寄せている。何となく首を巡らせると、オーベルマイヤーさんがぼくへ向けて唇の端を少しだけ、持ち上げて見せた。

「さて、本読みはやはりジーク様が一等賞だ。一度もスペルを読み間違えませんでしたね。さすがです。ラルクはもう少しがんばろうね。ぼくも工夫してみるよ」

「うん! また教えてくれよ、スヴェン」

「オレもラルクに追いこされぬよう、しょうじんするとしよう。オーベルマイヤー」

 ジークフリードが、オーベルマイヤーへ声をかける。オーベルマイヤーさんはテーブルセットのソファから立ち上がって、何か手のひら大のプレートを取り出し、ジークフリードへ差し出した。

「スヴェンには、続けてけんじょう品をおくられてばかりだからな。礼をしようと思う」

「? お礼、ですか?」

「うむ。受け取れ。皇宮図書館の入館許可しょうだ。お前ならば物よりもこちらの方が良かろうと考えてな」

 嬉しいけど今?! そのご褒美、もうちょっと早く欲しかった。それに皇宮へ行ってバルタザールに出くわしたくない。それでも、きっとジークフリードは懸命にぼくが欲しいものはなんだろうか、と考えてくれたのだろう。そのことが、素直に嬉しい。

「……ありがとうございます、ジーク様」

 ソファから下りて、入管許可証を受け取る。こないだは突然、癇癪を起こしてごめんね。君のせいではないのに。きっと気まずかったに違いない。それなのにぼくを慮ってくれたのだ。

「嬉しいです」

 初めて、ジークフリードへ向けて心からの笑みを向けた。ジークフリードは見る見るうちに真っ赤になって、顔を逸らす。

「うむ! 今日はそれを渡しに来たのだ。また来る。それではな!」

 ジークフリードはソファから下りて、逃げるようにテラスへ向かって歩き出した。護衛騎士たちが幼い主を追いかけて行く。それを見送って、オーベルマイヤーさんはぼくへ体ごと向き直った。

「先日、こちらから戻られてから何事か考え込んでおられましたが、『スヴェンは学びたくとも学べぬのだ。オレは学べるのに、学ぼうとしなかった。オレは今まで、傲慢だった』とあれから授業から逃げ出すことがなくなりました。殿下へ苦言を呈してくださったことも、大変感謝しております。私が不甲斐ないばかりに殿下にも、スヴァンテ様にもご迷惑をおかけしましたね」

「いいえ。招待状のことはともかく、あれは何と言うか……ジーク様は完全に巻き込まれただけですので……却って気を遣わせてしまいました。謝るのは、ぼくの方です」

「いいえ。ミレッカー令息をこちらへお連れするのがどんな意味を持つのか、それを私たちは端から殿下は理解できないだろうと説明しなかった。私どもの職務怠慢です。私たちは誰一人、殿下に向き合って来なかった。それを殿下は感じておられたのでしょうね。反省しきりです」

「……」

 苦い表情で首を傾けたオーベルマイヤーさんへ、手を差し出す。少しだけ驚いたような顔をしたオーベルマイヤーさんの手を握った。それからオーベルマイヤーさんの手の甲へ空いた手を重ねる。

「ジーク様は善き皇になられましょう。こんなに良き家臣に恵まれておいでなのですから」

「……ありがとう存じます」

 瞳を潤ませたオーベルマイヤーさんの手を包む。フレートに命じて熱した石を入れた鉄のカゴを布に包んだものをオーベルマイヤーさんへ渡して、テラスへ出る。灰色の空からは、今にも雪が降って来そうだ。

 何度も振り返って頭を下げるオーベルマイヤーさんには悪いが、ジークフリードの未来にぼくが居る予定はない。面倒事はごめんです。とっとと逃げます。長くてもあと二年の付き合いですオーベルマイヤーさん。

 ぼくが離宮から居なくなった後、オーベルマイヤーさんはどうなるんだろう、と少し不憫になった。

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